ボウズにしたら許されるのか

前働いていた会社にて、社用車をガードレールにぶつけて大破させた同僚が反省の意味を込めて翌週ボウズになって現れた。
完全なる本人の過失ではなかった部分はあるもののその潔さに社内ではなにやら「アイツやるじゃないか」という妙なあっぱれムード。彼はある種のミスを用いてむしろ好印象に転じさせることに成功したようであった。
壁際でボウズにしたその彼を囲む小さな、とても小さな人の輪を、そっと眺めていたのが俺である。

《おいおいボウズにしたぐらいで一体どうしたってんだい!》

そう言いたい気持ちもあったが全員幸せそうなのでそっとしておいた。
それから間をおかずに、今度は係長が顧客の与信管理を怠ったことによりちょっとした損を出してしまう事案が発生。先日の同僚のボウズに倣ったのか、なんとまあ彼もまた続けてボウズとなってあわられた。
おいおい、なんだなんだ、アンタら一体どうしたんだい!これはどこかで歯止めを利かせないと「ミス→ボウズ」の変な慣例が誕生してしまい、そうなると大変やっかいな状況であるように思われた。

そんな中一人の男がこの未曾有のボウズブームに待ったをかけるべく朝礼で一言物申した。
俺が常日頃、かげで「トンボ」と呼び、とぼけた性格や拠点のトップとは思えないと指導力、部下への面倒見の悪さなどから何かとケーベツしていた支店の長、その人である。
トンボたるゆえん、それはルックスが昆虫のトンボに似ていたことが4割、あとの6割は一日中ボケーっとし、時折窓の外を眺めてはトンボのように空を飛びたそうにしているそのつぶらな瞳である。つまりそうすると、トンボたるゆえんはほぼルックスなのである。

あの日の彼はトンボが自由に空を飛ぶときの効果音のように「スーッ」と息を吸うという、彼が言葉を発する前にはお決まりの無駄な深呼吸をなんと5度も繰り返すと、待ちくたびれてイライラする一同を前にこうのたもうた。

 

「えーー、スーーッ、ミスをしてボウズにした人がこのところ二人いますが…僕はーー、スーーッ、それについてはこう思うんです…じゃあ、最初からボウズの人は悪いことをしてもいいのか?と。」

 

言ってることはよく分からないけど彼を見直した朝であった。

アメリカで初散髪も、角刈りに終わる

QBハウス名鉄名古屋駅店で「極力切らないでください」という一休さんのとんちのようなオーダーをしてから2ヶ月半髪を切ることなく生活していたため、完全にフィギュアスケートプルシェンコの髪型になってしまった俺はとうとう意を決してアメリカ初の散髪に行くことを決意。

数日前、満を辞して片言の英語で予約をし、そして迎えた予約日の朝。タイトルにもあるように既に結論はお分かりのとおり「角刈り」であるが、そんな運命も知らずに会社から支給されたSUVに乗り人生初購入のサングラスをイナセにかけて向かうのは韓国人が経営する理髪店である。

人生初のアメリカの散髪であるから、俺とて無策で飛び込んだわけではない。韓国人理髪店を予約したのは「アジア人の髪を切りなれている」ためであり、片言の英語では心もとないためちゃんと用意したのがこのヘアサンプルである。

 

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そもそもこの男性と俺の間に存在する数多の相違点には目をつぶり、キサマはこんなさわやかな笑顔もこんなはだけたシャツの着方もしたことないのにまったく身の程知らずにも程があるってもんだと今ならとってもよくわかる。彼と俺の間に存在する共通点「大人メンズ」ということの他は一切ないのであるから。

して、スマホに表示したこの写真をギュッと片手に握り締め、韓国人理髪店に向かう日本人男性を待つ運命はご存知のとおり「角刈り」なのであるが、そうとも知らずに店に入り、この写真を見せていわく

「Please cut like this...」

今自分の頭を撫でながら「cut」の発音が悪くて「カク」と聞こえたのかもしれないなヘッヘッヘなどと発音面の反省はあるものの、理髪店のオーナーである韓国人のおばちゃんはそもそも「ふふッ」と笑うも写真を3秒ほどチラ見するだけで俺の頭をバリカンで刈り始めたことから、最初から俺を角刈りにしようと決めていた可能性も大である。もっと彼を見てあげてッ...という心の声も空しく、彼は俺の散髪に付き添いにきた友人のようにただ黙って鏡の横で俺を見つめる。どこの誰だか知らないけれど、アンタがいてくれて俺は心強かったよ...。

それにしても髪を切るのにこんなに緊張したのは久しぶりである。もともと理髪店というものに苦手意識が強い俺だが、言葉の壁というハードルが加わることにより挙動の不審さがUPしてしまい、結果このような俺のマインドが本当は存在しなかったかもしれない角刈りを引き寄せてしまったのかもしれない。

 

 「ベ、ベリグ」

「どうか」と聞かれて俺はこう答えるしか術がなかった。気に入らない、きりなおし!となった場合丸坊主しか残っていないからである。

最後にモミアゲをどうするかと問われたとき韓国人の理髪店だけにモミアゲを朝鮮半島のようにしてもらおうかと思ったが緊迫する半島情勢に配慮して「Keep natural」とカタコトで返した俺であった。

 

 

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野ションをしているおばちゃんに遭遇し怒鳴られた話

一度は「アレは夢だったかもしれない」と思ったこともあるが今でも一部始終をはっきり覚えているのであれは現実だということになるのだろうが、俺は子供の頃に野ション、つまりその辺の野原でションベンをカマすおばちゃんに遭遇して、しかもその真っ最中のおばちゃんに激しく怒鳴られたことがある。一体どういうことか。

この意味不明の出来事が起きたのは小学生の頃、ごくごく普通の住宅街の一角においてである。登場人物はわずか2名、小学生の俺と突然現れた野ション中のおばちゃんである。

前後何をしていたのかもはや覚えていないがいつもの平和な街を小学生らしく目的もなく独り言など呟きながらフラフラとしていた最中、突然、唐突に、そして堂々と、目の前に現れた50がらみのおばちゃんがテロッテロの薄いワンピースを捲り上げて空き地のような所でケツをだしていたのである。
それが野ションであるかどうかはその時は全く分からず、にしてもその異様な光景から何かおかしなことが行われてい事だけは理解したのであるが、後に野ションであろうと推定されたのはそれを親に話したからであり、俺がこのエピソードを親に話したのはその時遭遇したおばちゃんから激しく怒鳴られたからであった。

それにしても怒鳴られたのは衝撃であった。
おばちゃんは俺と目が合うなり、ケツを出したまま「コラーーー!」と叫んでこちらを威嚇し始めたのである。街中でケツを出しておきながら貴様がコラーーーとは大きく出たものであるが、本来ならば野ションをしているおばちゃんこそコラーーーと咎められるべき存在であろうが、小学生にそんな事が出来ようはずもなく、威嚇されるがままに狼狽しその場を去ることしか出来ないピュアな小学生の背中に向かって、何とおばちゃんは更に二言三言、ギョエーだのグワーーだのと言った悪態未満の原始的な罵声を浴びせるワケだからサイテーである。

しかしまあ、結局のところあれが俺の人生で唯一、女性がションベンをしている姿を生で目撃した経験になるのであるが、異性の生理現象をこう表現するのは悪い気はするものの、やはり率直なところではいまだにトラウマとなる極めて不気味な経験であったと思われる。

で、この話を歳上の人に話してみると「昔は結構女の人が野ションをしていたからねぇ」などという、まるで昔はよく野犬がいたみたいなよく分からないトーンの意見も聞かれなどしたが、もしかしたら俺が見たのは日常的に野ションをする女性の最後の世代だったのかもしれない。
まあそんなことはどうでも良いんですけどね、何で俺は道端でションベンしてるヤツから怒られたんでしょうかね。いまだに納得がいかない。

「たたき」「にこみ」等の安直な食べ物のネーミングについて

おにぎり、おやき、おつくりなど、そもそも食べ物ってものは作業内容や外観がそのまま料理名になるケースが多いのは重々承知しているのだが、それでも「たたき」「にこみ」「あぶり」などの、ほとんど動詞そのままの朴訥すぎる料理名を見たときにはRPGにおける「ああああ」ほどではないにしろ、それに近い感情でもって勝手に同情をしてしまう俺である。

一方で、こうした朴訥な料理名には、その朴訥さ故の人に媚びないかっこよさ、または究極のシンプルさが由来の「オーラ」を感じるのも事実なのであり、例えば「コチラ、たまごの"茹で"でございます」などと紹介されてゆでたまごが1つ目の前に置かれれば「おお...なるほど×100」となるであろうし、「コチラ、トマトの"冷やし"でございます」など、厳粛な雰囲気で冷やしトマトが1つ、目の前に置かれれば「おお...これは手の込んだ...」となるはずである。

これらの料理名、元々は作る人間が呼び合っていたスラングだったと思えてならないがどうだろう。ストレートに調理方法を伝えるのに、作業名そのままの方がわかり易いからだ。

そう考えたのは似たようなケースが物作りの現場でも多く見られるからだ。
製造業などはわかり易くその加工内容を伝える必要がある為、朴訥な表現の宝庫である。

「みがき」「にがし」「ぬすみ」

製造業に従事する者であればこういった用語に遭遇するのは日常茶飯事。例えば「みがき」はそのまま研磨をして規定の表面粗さ規格(ピカピカの度合い)にする事であり、「にがし」はそのまま、他の何かと当たらないように削ったりして「逃がす」こと、「ぬすみ」については「にがし」と近い意味合いで用いられることもあるが、軽量化等を目的としてもっと大きく削る、ないしは設計の時点で凹ませておくなどすることである。

 

元々俺は築地市場の中で仕事をしていた経験があるのだが、市場といえば一般人には理解しがたい市場用語が使われるのも有名な話。ああみえて全国共通できちんとした用語が定められている共通言語である。

歴史の古い業界、職業になればなるほどこの手の単純な用語が増えてくるもので、例えば「なやみ」「もがき」などがそう。

「なやみ」は「まったく売れない状態」で、その名のとおり売れずに悩んでいる人間の状態から出来た用語と思われる。
「もがき」は「なやみ」の逆。「売れすぎて需要を供給が満たせない状態」、つまり売れまくってる状態。

もがいている、という言葉のネガティブな印象からすると「売れてるのになぜもがくのか」と違和感を感じるかもしれないが、実際にはあちこちからくれくれと言われているものを大多数の不満を最小限に抑えて振り分けていく作業の方が辛く、卸売り業において欠品するという事にどれだけブチ切れられるかを考えると、「もがき」とした背景も頷ける。
この用語の面白いのはダイレクトに行為ではなく、行為をする主体である人の状態で市況を表現しているところだろう。

市場は専門用語の宝庫ではあるものの、実際には使用するものは限られており、用語の大半は知らないままという事が多い。
また、同じ市場であっても魚市場と青果市場でも用いられる用語は異なり、全てを網羅するのは難しく、その必要も無いと考えられる。
スラングと正式用語の境界線もあいまいで、そもそもローカルルールを入れるとものすごい数になることと、流通の多様化により仲卸だけのビジネスは少なくなり小売店とのやり取りが増えていることなどから市場用語は徐々に形式的なものになっていてように思う。

 

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市場関係にはこの様な市場用語集が渡される。
これがオフィシャルな用語集、市場用語のガイドブックであり、市場のルールや用語、関係する法令関係が全て網羅されている貴重な資料なのである。

最後にこの市場用語の権威たる市場用語集から、最強に安直な専門用語を紹介して終わりとしたい。
それがこちら。

 

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「いろいろ」

 

「いろいろ」だそう。反抗期の中学生が出かけるときに親から何しにいくのか聞かれて答えるアレですね。
して、気になる意味はこうである。

 

"種々の品目、等級のものが一つの容器の中に渾然と区別されない状態で出荷されているものがある。
これらについて、卸売業者は、経済的、時間的観点から区分整理しないで一括上場することがある。
この状態にあるものを俗に「いろいろ」といっている。"

 

なんか「経済的、時間的観点!(キリッ)」とかなんとかごちゃごちゃ言っているが、つまり色々ごちゃごちゃになっていて面倒くさいからそのまま売りたいだけなんじゃないスか…?と邪推したくなるこの感じ。

やんごとなき市場用語集がこう定義しているのだから、全国の大卸、中卸、小売など、流通にかかわる皆様は今後堂々と段ボールに入れた諸々をして「いろいろ」と名づけ、販売して欲しいものである。安直専門用語の世界は奥が深い。

兄に習ったTSUTAYAのレンタル方法

中学一年のころまで重要なことは何でも2つ上の兄から教えてもらっていた。
子供の頃は特に人見知りが激しく、不器用でしかも無愛想だった俺のことを母親も心配したのかも知れず何かと兄についていくよう言われていた気がする。
次男次女とはどこもこうなのか、頼るものがあると甘えるタイプの俺は兄が少年野球を始めれば同じく野球を始め、バスケットを始めたのも兄の影響。音楽や映画、テレビやお笑いなど、思えばあの頃は文化全般で強い影響を受けた様に思う。
かといって押し付けられて居た感じてもなく一人で何も出来ない俺には兄からの情報が必要であり、導いてもらえる存在として完全に頼り切っていたのが事実。あの当時受けた影響は計り知れない。

中学の頃だったか、そんな兄にTSUTAYAへ初めて連れて行ってもらったときのこと。
地元に出来たばかりのHOTなスポット、それがTSUTAYA。早々とTSUTAYAデビューを飾っていた兄が得意げに俺を案内する。

「観るなら洋画がカッコいい」「だが、ハリウッドは観るな」

こうしてまた弟は兄の知識で大人の階段を二段飛ばしで登るのである。
TSUTAYAで一通りレクチャーをした兄が最後に「借り方を教えてやる」と、俺を映画のコーナーへ案内する。
「じゃあコレをためしに…」と俺の知らない外国の映画のVHSを手に取り俺にこう教えた。

「まず、ほしい映画を見つけたらこの外側のケースごとレジへ持っていけ」
「するとレジで『このケースはお持ち帰りできませんのでこちらでお戻しておきますね』と店員さんにいわれるから」
「『はい、良いです』と言うんだ」
「そしたら会員カード出して金を払え…」

 

《レジへもっていく…ケースについて聞かれる…戻して良いという…カード出して金…なるほどお》

 

ケースを渡したり戻したり、なにやら複雑なシステムだ。ともかく忠実な弟は忘れまいと兄の教えを頭の中に強く叩き込む。
だけども、頭の中にあまりに強く叩き込みすぎたせいで大学3年のとき大学の友達から「お前なんでその外側のケースまでレジに持って行くんだよ(笑)」と大爆笑されるまでずっとTSUTAYAのレジでそのルーティンを繰り返していたのである。

皆さんご存知の通り、CDにしろDVDにしろ、あの当時のVHSにしても、外側のケースはそのまま置いて中だけを持っていくのが当たり前。
ちょっとまわりを見渡せば「ケースは持っていかない」ことぐらいすぐに分かるはずだが、これぞ宗教・兄のマインドコントロール。ていうか店員も教えて欲しかったのだが俺に「ケースさん」とかいうあだ名をつけて楽しんでいたのかもしれない。

そしてそれが発覚した衝撃のあの日、離れて暮らす兄が同じようにケースをレジに持って行っては「ケース戻しますね」「おう」みたいなやりとりを何度となく繰り返していたのだと思ったときは笑いが止まらなかったものである。

ていうかだな、うちの兄はまだ気づかずにやっている可能性もあるし、お次は自分の息子に「ケースごとレジに持っていけば…」などと教え出したらアレなので今日は悲しみの連鎖を断ち切るために言わせてもらう。コラコラお兄ちゃん、外側のケースは借りられませんよ…(笑)