「枯れ松の調査員」という仕事

6単位を取りこぼし呆気なく留年してしまった俺のその時の話はまたいつかするとして、不足単位が半期で取得できるものだけに与えられる秋季卒業システムにより俺の卒業証書授与式はその年の9月、大学のちょっとだけ広い部屋で数名の9月卒業者と共に静かに行われた。

4月からの仕事を早々に、また周囲の反対にも聞く耳を持たず築地市場でのセリ人とすることに決めた俺は20歳から住み始めた高円寺の風呂なしアパートに静かに別れを告げ実家の九州へ仕事の始まる半年間だけ戻る事となったのであるが、両親は留年したことよりも、留年して時間があるにもかかわらず何故ちゃんと就職活動をしなかったのか、何故築地市場でセリ人なのか、もっと言えば何故また東京なのか、どうして地元に帰らないのかなどなど、漸く帰ってきた息子に色々と言いたかったに違いないが、極貧生活で酷く痩せて生気のない息子の姿を見てドン引きしたとあって「東京に戻るならそのお金ぐらいは自分で出しなさい...」とだけ言って、半年間の実家生活をアルバイトをして過ごす様、静かに申しつけるのであった。

俺の故郷は九州某県第二の都市であったが、この某県がど田舎であるためか第二の都市とは言っても皆さんが想像する以上に寂れきった斜陽都市である。

目立った産業はなく観光が主のこの街で東京並みの賃金が得られるアルバイトを探すのは極めて難しく、加えて半年間しかバイトできませんという条件もつけばまともなバイトが見つかるはずもなく、帰省して一ヶ月間をほぼ無駄に過ごしていると、初めは憔悴した息子にやや柔らかく当たっていた家族にしても、段々と実家飯で肥えて血色もよくなる息子へのその視線の厳しさが徐々に増していくというのも必然というわけで、これは何とかしないとあと5ヶ月を留年以上に辛い時間を過ごさねばならなぬといよいよ本格的に低賃金の3K職場でも構わないからとにかく外に出て働かないとと、なりふり構わぬ形でのアルバイト探しにシフトしたわけである。

詳細は忘れたが短期で水産加工会社の早朝の肉体労働に申し込みをする決意を決めたまさにその日、先日書いた件のマンUカフェのヨッちゃんが市役所にツテがあることので短期間での市の臨時職員として雇われるこことなったのはまさに幸運としか言いようがなく、この仕事が僅か1ヶ月の超短期であったにも関わらず業務内容がPCを使った軽作業な上、その賃金が比較的良かったこともあり二つ返事でこれを受けた次第。

当初業務内容はエクセル、ワードなどを用いた簡単な資料作成、データ編集であったが得意のPCとあらばバッチコイと言うわけで、市役所各位が期待していたより仕事が早いものですから半月ほどで予定していた業務の大半を終えてしまったものであった。

するとこれには、このあと半年後には社会に出ていこうとする若者も過剰な自信を得てしまうというもので、この社会人予行練習問題を見事にこなす自分の姿に酔いしれつつも、そうすると思い出すのはこの後の就職先であり、この辺りから自分自身ですら「なんで俺は築地市場のセリ人になるんだ」という自問自答の日々が始まるのであったがそれは別の話としたい。

そしてこの、半月で仕事を終えてしまった空気の読めない若者をどうするべきかと悩んだ市役所の皆さんに与えられたのが今回のタイトルにある「枯れ松の調査員」という仕事であった。

枯れ松の調査員、読んで字のごとく枯れた松を調査する者である。市内に数多ある松が、マツクイムシという、これまた読んで字のごとくとりあえず松を狙って食う虫によって枯れてしまっている現状を調査しレポートを作るという、市役所が長年行なっている長期プロジェクトのメンバーとして選任を受けたわけである。

この特務を授かったその日から早速のミッションスタートというわけであるが、集合場所とされる事務所の一角に行くとそこに待つのはポツンと立つ小柄でやせ細ったおじさんただひとり。

「パートナー」と呼ばれる商用バンに市のロゴのついたものをあてがわれ小さな消え入りそうな声で「僕は運転出来ないから、運転して。」と言われて始めて、枯れ松の調査員がこのおじさんと俺のたった二人しかいないことを知る。その日からこのおじさんと二人だけの残り半月の枯れ松の調査が始まるのであった。

 

市の管理するエリアにある松林のリストに基づき松の現状を実地調査し、それをリスト化したものを業者に伝えマツクイムシに既におかされたものは伐採する。枯れ松の調査とその目的は簡単に言えばこんな具合である。

実地調査と簡単にいうがかなり過酷な内容でほぼ未開状態の山に身一つで入っていき松を見つけては近づいて一本一本その状態をチェック。けもの道でもあれば良い方で、大半は道無き道を、生い茂る草木を腰に携えたナタで払いのけながら進む探検隊のような仕事だ。

「あっ!松」

松を見つければ「松だ!」と叫び、駆け寄って状態をチェック。チェック済みで問題ない松には黄色、もうダメな松には赤のテープを工業用の太いホチキスでバチンバチンと留めていく。最初は松を見つけると妙にテンションが上がったものだが、次第にマツクイムシもっと頑張って跡形もなくこの街すべての松を食い尽くしてくれよと思う気持ちがかなり優勢になったものである。

移動、発見、ホッチキスの繰り返し。移動中はほとんど会話はない。松があったら無言で近づき「枯れてますね」「枯れてるね」とだけ言葉を交わし、工業用ホッチキスでバチン。

松の木がこうもあちこちに生えているとは知らずすぐに終わるだろうと思っていた俺をあざ笑うかのように松林は市内の山間部いたるところにあり最初の一週間が終わった段階でも調査は終わる兆しも見えない。

蚊の大群に襲われ、おじさんと二人でスズメバチから逃げたこともあった。あと蛇が目の前を通りおじさんだけ小さい声で「うわぁ…」と言って逃げたこともあった。

「今までどうやって調査に行っていたんですか」

夕方、作業帰りの車の中で今まで疑問に思っていたことを尋ねるとおじさんは「ここだけの話」と奥さんの車に乗せて連れていってもらっていた事を教えてくれたが、それよりも俺に言いたいことがあったらしくその答えの後に続けて語気強めにこういった。

「きつかやろ」
「市役所でこやんか仕事とは思わんかったやろ」
「いつもね、僕はこやんか人のせん作業ばっかり押し付けられるとよ」

キツい訛りで珍しく矢継ぎ早にそして悔しそうに、平たく言えば「こんな仕事したくない」とそう言うのである。そんな事を言われるとこちらまで辛くなるので言わないで欲しかったわけだが、俺はこのおじさんが市役所の他の職員に馬鹿にされているのを知っていた。

声が小さく人付き合いが下手で気も弱い彼が色んな雑務を押し付けられ、裏で色んなあだ名をつけられているのを俺は他の職員に度々連れて行かれたスナックのカウンターで何度も聞いていたのである。

東京で留年しズタボロで帰省してきたペーパードライバーの学生と市役所で冷遇されるおじさんの乗った車の名前は奇しくも「パートナー」、隣に座るこの相棒の為、何か気の利いたフォローの一つでも入れたかったものだが、社会経験の無さからおじさんのその恨み節にフォローのコメント一つ返すこともできずただ黙ってそれを聴きながらハンドルを握るのみ。

フラフラ、ノロノロと市役所に帰るその車は後続車に煽られながら、社会に出ても、大人になっても、まさか市役所でさえもこういうことがあるのだなと思うと何となくそういうものとは無縁のように思われた築地市場でセリをやる仕事も悪くないのかもしれないとそう思ったりもしたものである。

半月間の調査で幾つもの山に分け入り、ある時は崖を上り、またある時は離島へも一緒に行った。おじさんは帰りの車でいつも「きついねえ」としか言わないが、勝手ながら思い描いていたものとは程遠く自信を喪失して酒を飲むか部屋に引きこもるしかなかった東京での荒んだ学生生活に終わりを告げるのに、野山へ入って無心で松を探し続けたあの半月間はとても貴重な時間だった。俺の調査した松のデータがどれほど役に立つのか知らない。最初は重要な長期プロジェクトだなんだと説明されたものだが、その話が本当なのかもはや疑わしかった。あの調査結果だって実は誰も読まないかもしれない。社会に出ればそんな事もあるかもしれないとも思った。

俺は幸運にも契約満了と共に、同じ市役所の別の部署での臨時職員を斡旋してもらうことになり、おじさんはまた一人で枯れ松の調査となったようだ。昼飯の後、時々作業着のまま歩いて市役所を出るおじさんの後姿を見るたび「奥さんに拾ってもらうのだな」と思いながら眺めていた。

終り

俺のキャバクラ経験について

前勤めていた職場で、先輩や取引先の人々に連れられ、東京の下町、門前仲町に飲みに連れて行ってもらったことがあった。

入ったのはスナックのようなたたずまいの、何かアダルトな雰囲気を醸し出すちょっと暗めなお店。客は地元のジジイが主と思しきアットホームな感じの飲み屋だった。

スナックだとカウンターがメインだが、そのお店はカウンターよりむしろ、ソファー席が異常に多く、人数の多かった我々はその中でも一番広いところに案内され、そこで飲んでいたわけである。

普通のスナックだとカウンターに女性、彼女らと適当な世間話をするところだが、このスナックの場合、女性スタッフも多めとあって我々の座るソファー席にはゾロゾロと女性が数名やってきて接客をしてくれた。

酒を飲んでカラオケを歌って、その間女性はずっと隣に居て酒をついでくれたり、どうでもいい話をしても相づちを打ってくれたり。何を話しても「おもしろい」と笑ってくれてとても楽しかった。試しにデビッドボウイのグラムロック期、そしてアメリカ進出期に見られた音楽性の変化について熱っぽく語ってみたのだが、俺の隣に座った女性は「すごおい!」と言ってくれた。ただ酒を飲みに来ただけなのにデビッドボウイの話も出来てなんだか分からないがとても楽しかった。

「いやあ、先輩、今日のスナックなんなんスか!なんかわからないけどめちゃくちゃ楽しかったわあ!」

興奮冷めやらぬ!といった赤ら顔でアツい感想を述べる俺に、先輩は淡々と返す。

「馬鹿野郎、ただのキャバクラだよ」

衝撃だった。さっきまでいたあの空間。それがキャバクラだったのだと。あんなに楽しかったのに、「ただの」だと。てことはあの「すごおい!」は...!

俺はあまりにもスナックしか知らな過ぎた。それまで付き合ってきたジジイにあまりにもスナックに連れて行かされ過ぎたのである。「ばっかもーん!そいつがルパンだ!」のような、何だか良くわからないのが俺のファースト・キャバクラであった。

知らないうちに注射を打たれた子供のようにアッサリとキャバクラ童貞を捨ててしまった俺なのだが、実を言うとそれまでキャバクラというものをもの凄く恐れていたのが正直な気持ちである。

先入観とか無知から、人生経験の乏しさとエロ知識の偏りにより何か別のもっとスケベなものと混同していたためか、恥ずかしながら俺のキャバクライメージは最終的には「ショウタイムに羽飾りをつけたダンサーがポロンとオッパイを出してベリーダンス」に行き着くほどに混沌としていた。混沌とし過ぎていつの間にか「キャバクラ」という言葉を聞くと何故か頭の中に「美空ひばり」が思い浮かぶようになっていた。苦しんでいたのである。

大人になるにつれ色んな人にキャバクラに関するお話を聞くとある程度偏見や誤解も解け、それが如何なるものかを大分知るようになりはしていたが、知ると今度はまた別の恐怖が俺を苛むようになる。

男がオンナに騙されて金を巻き上げられる...という嘘や暴力と隣り合わせの恐怖の世界だ。欲望の代償はカネ、実はコレ、ドラマ「愛という名のもとに」でフィリピン人キャバ嬢に真剣に入れ込んで騙された結果、人生を悲観して自殺した中野英雄演じる「チョロ」という登場人物が死に際に発令したキャバクラ警報(ゴキブリが死ぬ間際に仲間達に発する警報に近いものである)に従った結果なのだ。

「キャバ嬢に近寄ると、最悪死ぬ」

インターネットで「最悪死ぬ」と調べると実に色んなものが出てくるが近寄るだけで死ぬのは多分キャバ嬢だけである。

そんな全てが嘘の恐怖の世界に、元々人一倍警戒心が強く人見知りで用心深い俺が放り込まれて楽しめるのだろうか、不自然な会話とか作られた空気に敏感な俺はきっとキャバ嬢が気を遣っていたり、少しでもやり辛そうな顔をしていたら、死にものぐるいで会話を盛り上げたり嬢のトークに対し決死のオウム返し&相づちを繰り返すに違いない、俺が「すごおい!」って言ったりしてそれではどちらがサービス業なのやら、辛いばかりで楽しい筈が無い。そんな風に思っていた俺であったが、

「いやあ、久しぶりに女と目が合いましたよ!」

あの日はそんな極端に低い俺のハードルを満たすだけのものが、門前仲町のキャバクラには確かにあった。キャバクラは楽しかった。キャバクラはとても優しくて、全く吠えたりしないし、触っても全然噛み付いたりしなかった。

 

かといって自費で行くつもりは毛頭なく、それから二度目のキャバクラに至るまで2年以上を要することになるのであるが、その二度目のキャバクラへ行く動機もやはりおごってもらったためだ。

それは殆どチャイナパブとしか思えないが自称キャバクラだそう。俺はその辺のスタイル、思想の違いには寛容なので「わけえオンナがいればええがな、ガッハッハ」と中小企業の社長のようなノリでそこに赴いたわけである。

最初に誘われたときにも「キャバ?ああ、いいっすよ」と、さもキャバはダチ公ですぐらいのフランクさを醸し出してみせたものだが、内心はどきどきしていた。初めて行ってから数年が経っていたことが俺を再びキャバ童貞に戻していたのもあったのだろうが、そもそも俺のファースト・キャバクラはそれがキャバクラであると知らずに入って知らずに過ごした奇襲キャバクラだったわけであるから、こうして「今からキャバクラに行きます」という事前の作戦発布の下、戦闘準備を整えて「いざ」と入店するとなるとこれが初めてになるわけである。

 

そんなわけでドキドキしながら集合し、いざキャバクラだ!と勇んで入店するとその気合を往なすように、店内は私服状態のキャバ嬢が無言で掃除をしていた。既に開店時間である。入店してきた我々を見ると従業員の女子は一応振り返り「イラッシャイマセ」と無表情で言ったが、そのまま掃除は継続された。

とりあえず座って待ってて下さい、と言われたので言われるがまま待っている中で我々より後にどんどんキャバ嬢と思しき女子が出勤してくる始末である。

「あのドレスみたいなやつで出勤するわけじゃないんだな...」

などという当たり前の事実にも新鮮味を覚えるほど俺のキャバ・エクスペリエンスは少ないのだが、その一方でその日のキャバをおごってくださった御方はというと、それを見て「何だよコレはよ~、なってねえなあ」とフロアに響くほどの大きめの声で一言。まさか二回目にして「店長呼べ」が出るのかとドキドキしたが、とにかくさすが、御大はキャバクラに慣れておいでだ。

俺などはやんごとなきキャバさんの中にあってそんな大それた、失礼な事などを言おうものなら奥から果物ナイフを持った黒い服の人がやってきて「嫌なら15万出せ」と理不尽な鶴の一言をカマされるのではないかと凄く怯えたのだが、最初にチラつかせた「キャバはワシのダチ公やでェ」のスタンスをここで崩す事は出来ず、俺もそれに合わせる形で「念入りに掃除やれよ、マジで!」など不平とも取れないギリギリのコメントを虚空に放つ攻めることでなんとか切り抜けたものである。

して女性登場である。チャイニーズ・キャバクラと聞いていたのだが、俺の隣に座ったのはタイ人だった。後で確認したのだが、実は日本人も混じっていたそうである。お前ら全てまとめて中国やと。中華思想を体現しているようだ。中国のお店に来ておいてなんだが、内心オール中国人でなくてほっとした。先ほど店内で叱責をカマした御大の態度はお店についてから妙にえらそうであるし、何かのきっかけで彼を起点に反日暴動が局地的に発生しないとも限らないからだ。中国人が怒ったら大日本印刷だって小日本印刷である。

それにしても俺の横には初めて話すタイ人である。相手が何人であろうと漏れなく気をつかってしまう性質なので何か共通の話題をと、自分の知っているタイランドを頭の中からひねり出し高校の歴史の授業で学んだ「パガン朝」と「チャックリー朝」というタイ王朝の名前を連呼していたが途中でパガン朝がビルマの王朝であったことに気付いた。中国人の前で歴史誤認は危険である。

次は知っているタイの有名人の話をしようとしたがそこで出て来たのが「シリモンコン」である。辰吉丈一郎と闘ったタイ人のボクシング選手だ。子供ながらにシリという名前が尻のようで印象的で覚えていた。ただそれだけである。

残念ながら彼について大した記憶も無かったので「シリモンコン、強かった シリモンコン、かっこ良かった」とよく覚えてもいないシリモンコンを30分程度ずっと褒め讃え続けたものだが、その後また30分シリモンコン以外の話題が思い浮かばずに「シリモンコン、眉毛の形がよかった シリモンコン、車の運転がじょうず...」と、シリモンコンについてもう他に褒めるところが無くなろうとしていたとき、ようやく「じゃあ、帰りますか」の助け舟が来て、全てが終わったとき、俺はぐったりしていた。

俺のキャバクラ経験はこれだけである。

父は息子の憧れでありたい

 

息子には早めに知っておいたほうが良さそうな事はなるべく教えてあげているが、それが口笛の吹き方だとか側転の仕方だとかビンのフタ集めやっといたほうがいいぞだとかしょうもないものばかり。それでも息子は喜んでおり俺は満足している。

おとうさんは自分ができないことを何でも知っている凄い大人である、という刷り込みが今のところ成功しているが妻はあまり快く思っていない可能性もある。

勉強などは母親が熱心に教えているが俺はいつもソファに寝転がってぼんやりし、幼稚園児のくせに熱心に算数などをする様を眺めながら、たまにフラっと近寄っては

「お前な、幼稚園児なら、この指の取れる手品を今のうちから覚えといたほうがいい。ほら、取れたろ。」

「すごい...どうやるの?」

「まあ、こっちにきなさい」

などと幼稚園児を惑わすクソネタを仕込んでまたソファに戻る。端的にいうと役立たずである。夕食時に息子が俺が教えた手品をしつこく続けて腹が立ったと妻。だんだんと息子の言動が俺に似始めているのを妻はどう思っているだろうか。

 

「お父さん、口笛で『おしっこ』って言ってみてくれない?」

 最近口笛を教えた息子が真剣な顔で俺にそんな相談を持ちかけてきた。お前はバカかといいそうになったが俺は父親、寸でのところで踏みとどまる。

「...ちょっと待ちなさい」

「出来ないの?」

「いや、出来るけど」

「じゃあちょっとやって」

何の目的で口笛の「おしっこ」を聞きたいのか全く理解ができないが、だからといって出来ないとは絶対には言えない。おとうさんは息子の憧れの存在。何でも出来る全知全能の神なのである。

「フィ、フィッフォ(おしっこ)」

案の定であるが、俺は口笛で「おしっこ」と奏でることが出来た。だから何なんだという響きであった。

「おとうさん、やっぱりすごいね」

「うん、そうだろ」

「すごい」

会話はそれで終わった為、何でこいつが口笛で俺におしっこと言わせたのか全く分からなかったものの父親の威厳が保てたという事実があればよいので俺は満足である。

 

バスケの試合に1秒だけ出た時のことです

高校時代はバスケットボール部。あのときは辛いなんて思わなかったが、土曜も日曜も休まず部活に行っていた日々が今では信じられない。あれだけ時間を費やしたものだからその分部活の思い出も多い。良い仲間たちとの良い思い出。今でも時々思い出してしまうのはあの頃である。

 

高校二年のとき、我が校のバスケ部はインターハイ、国体と並んで高校バスケ界3大メジャー大会の一つであったウィンターカップの県予選でベスト4入りを果たしていた。
それまでの予選では各高校持ち回りで体育館を提供して行われた予選の試合も、県大会のベスト4ともなるとさすがに扱いは特別である。厳しい予選を勝ち抜いた4校はコートの周り360度で座席を有する県内最大の体育館にて1日掛かりの総当たり戦に挑むのである。

そしてこのウィンターカップ予選こそ、それまで大した見せ場もミスもない平々凡々な俺のバスケットライフにおける最もショッキングな事件が起こったところでもある。
俺はあのとき確かにあの場所に立っていた。そう、確かに…。

これは俺の身に起こった一つの奇跡、信じられない物語である。

 

****

 

かつては県内ベスト4の常連とも言われた古豪こと我が校のバスケ部も、あの当時は長い間よくてベスト8、大体がベスト16止まり。慎ましくも「文武両道」を掲げる公立の普通高校であれば、所詮は身の丈に合ったそれなりの練習しかできない、それなりのチームとなるのも当然であるが、そんな我が校バスケ部も俺の居た年代は一味違っていた。近隣の中学校のエースがこれでもかというくらいに集まり、地域の大会であればBチームでも優勝。件のウィンターカップではベスト4まで大量点差で予選リーグを勝ち上がり、試金石といわれた昨年のベスト4のチームとの一戦でものの見事に圧勝をキメたところで県内ではいよいよ「優勝候補」という声が出てくるのも当然のそんな勢いのあるチームであったことを説明しておきたい。

そんなチームで俺は堂々の大補欠である。俺のプレイの特徴を説明させていただくと、ポジションはFW、得意なプレイエリアはシュートを入れると3点入る通称スリーポイントラインのそのちょっと前、入れても2点しか入らないけどちょっとだけ遠いという、例えシュートが入っても「おお、遠いところから…」と遠方の来客を持てなす感じで若干盛り上がる程度の微妙ないエリアである。

大学生のときに合コンでバスケットをやっていたと言ったら「ポジションはどこですか」と言われ説明するもなかなか理解されず、とうとう「えーと、じゃあスラムダンクで言えば誰ですか」などと聞かれて「まあ、流川かな。」と言ったらその女、一瞬俺の顔を見て何かを思い浮かべながら黙りましたからね。流川だけにきっと濡れてしまったんでしょう。ダラ~っと。

流川と同じポジションだったのは事実として、実際のところ得意だったのは守備である。下半身の筋肉がやけに発達していてしかも気持ち悪いぐらいに体が柔軟だった俺なのだが、下半身の筋肉および柔軟性というのは常に中腰を強いられるこのスポーツのディフェンス姿勢において重要な要因であって、長いバスケ経験の中でいつの間にか「最強ディフェンダー○○」とか「スッポンの○○」などと都合の良い言葉に乗せられすっかり「守備の神」して担ぎ上げられていたのである。

褒められるとその気になってしまうのが人の常、試合に出れば醍醐味である攻撃、シュートそっちのけでマークした選手をぴったりマ-クで懲らしめ、試合中相手ベンチから「あいつ、ウザいんだけど」などと聞こえてきて深く傷ついたこともあった。
野球、サッカー、ラグビー。スポーツ、特に球技を構成するのは攻めと守りだが、それは大抵専門の役割として分業化されていることが多いのではないか。バスケットはどうだろう、あの小さなコートの中、5人で攻め、5人で守るあのスポーツの場合、ディフェンスを専門にするという人はあまり多くはない。緊急の場合か何か特殊な作戦の上で『徹底守備』としてスクランブル出動することはあっても通常の試合であまり必要とされない。そう、つまり俺のような守備専門家はバスケには殆ど必要とされないのである。

 そんな感じで我が校そして俺というプレイヤーに関して説明させて頂いたところで話はようやく件のウィンターカップ決勝トーナメントである。県内最大の体育館で360度客席にかこまれた独特の雰囲気の中、いよいよ試合開始だ。

相手は優勝候補の一角。これまでの相手とはわけが違うのであるが、守備専門化の俺はというと「この一戦、出たくない…」など胸の内に秘めた闘志をネガティブな方面に昇華することに成功。正直全く試合に出たくなかった。なぜならミスったら嫌だからである。

いざ試合が始まると大方の予想を裏切り我が高は優勝候補相手に接線を演じる好ゲーム。常にリードされつつもなかなか離されない白熱した展開だ。
このような緊迫した試合では選手交代は慎重に行われる。ちょっとした交代一つで試合の流れがガラリと変わるからだ。

バスケットを始めて以来最も観客の集まる最大の一戦である。初めて味わう極限までの緊迫感。女子バスケ部は勿論のこと、我が校の生徒もこの試合を観に来ているようだった。監督から一番遠いベンチの端っこで腕を組み「この試合、出たくない。」と眼光鋭くよそ見をする俺。そのモチベーションは低い。

 

現在10分×4のクオーター制が主流のバスケだが、あの当時は前半後半で試合が進む。
その前半も半ばになるころとうとう我がチームはこの試合で初めてリードを奪う。古豪復活、下克上かと、盛り上がる会場。さらに畳み掛ける我が校がリードをさらに広げると、にわかに客席が騒がしくなってきた。相手チームのベンチでは「なにやってんだァ!」と敵将の怒声が響き異様な雰囲気である。

我がチームのベンチもこのただならぬ空気を感じ取り、皆興奮状態でかつてないほどコートでたたかう仲間たちに声援を送り始める。雰囲気は最高潮であったが、俺はというと「そのまま俺たちにかまわず、5人で勝て!」とココロからの叫び声をあげた。こんな試合には出たくないものである。

しかしである。そんな願いがあらぬ方向に出てしまったのか、残り時間が6分くらいになった頃、監督が急に俺の名前を呼んだ。なぜだ!俺は守るだけだぜ?オイ!わかってんのか!人違いだとしても今なら許すぜ!

「早くこい!」

ざわつくベンチでは他の連中まで端っこでシラをきろうとする俺に「お前、呼ばれたぞ」と掛けられる声。普段俺には殆ど話しかけてくれないヤリマンのマネージャーも「がんばって!」などと呼ぶ。そんなことより普段から俺と目を合わせんかい!

「緊張するから俺に注目するのはやめろッ」と小声で言いながらベンチから立ち上がると観客席で観ていた我が校女子バスケ部の腹筋が俺よりすごい女が、そのご自慢の腹筋から放たれるよく通る声で「エッ!」というのが聞こえてくる。何であの人なの、というそんな感じの響きであった。黙らんかい。

バスケットでは、相手チームの反則やラインからボールが出でて自チームのボールになるか、はたまたタイムアウトをとったときでないと基本的には選手交代は認められない。(確かそうだった)

監督が俺の名前を呼んだとき、丁度よく我が校が交代の出来るマイボールのスローインというところであった。早く審判に交代を告げなければ試合は動き出し、貴重な選手交代のチャンスを逃してしまう。そういう意味もあり俺が呼ばれたときに「早くこい!」と言われたのである。

「なにやってんだ!早くこい!」

そのスクランブルじみた雰囲気に気圧され、いささか上ずった返事で答えながらベンチメンバー用のジャージを脱ごうとしたのだが、焦っていたのであろうか、いつもにもまして下のジャージが脱げない。脱げないのである。

おっとっと。などとずっこけそうになりそうなところを監督に「あとで脱げ!いいからさっさと来いオラ!」といわれたときには「えっ!?」ってなぜか靴ひもを解こうとしていたユニークな俺でありますが、そんなことをしている間に試合は動き出し交代のチャンスは終了。

「ばかやろう!」

本気で怒鳴る監督に体をつかまれると、試合中にまさかの折檻。「てめぇ、もういいからベンチ戻れ!」と名誉の帰還を果たしたのであったが、もはや指定席であるベンチの端っこへの帰路、観客席からは我が校女子バスケ部の腹筋の俺よりすごい女による、腹筋の凄さと軽蔑の混じった「キャハハ!」という声が聞こえた。黙らんかい。

指定席のベンチの端っこに戻ると腕を組み眼光鋭く試合の趨勢を睨む俺のそのモチベーションは低い。

それにしてもである。ジャージ一枚ろくにぬげずに怒られる男子高校生の姿。それは体育館のみんなが見ていた。客席から見ていた友達や応援に来ていた女子バスケ部、そして知らない人たちに至るまでがなぜか「おやおや」という様な、とっても和やかな笑いに包まれていた。とんだムードメーカーでどうもすいません。

その後何事も無かったように進行するシーソーゲームを眺めながら、《この試合、下手したらこの大会ではもう二度と出番は無いな》とそう思っていた矢先である。先ほどの脱げないジャージ事件から間髪いれず、前半残り2分頃だっただろうか、俺は再び監督から名前を呼ばれたのである。監督がそんなに俺のことを戦力と見ていたとは今日の今日まで全く知らなかったです!

「今度はちゃんとやれよ」

そういわれるまでもなく今度はちゃんとジャージも脱いで交代選手が待機する椅子にささっと座る。監督は俺の肩に手をかけ、極めてタバコくさい声でこう指示する。

《相手ポイントガードには強めのプレッシャーでいっていいから、マイボールになったらとにかく前へ走れ。速攻が出来なかったら前半リードしたまま終われるように時間つかってパス回ししろ》

専門用語が多すぎてちょっと何を言っているのか分からなかったが俺の気持ちはひとつである。

《いやです・・・・!》

 

俺のモチベーションは一貫して低い。

ところがである。こうした具体的な指示を受けたものの今度はなかなか交代のチャンスが回ってこない。先ほど交代のタイミングを説明したと思うが、皮肉なもので今度は待てども待てどもなかなかプレーが止まらないのである。
あまり無いといえば無いが、全く起こらないことでもない。案の定、時計をみたら前半ももう残り30秒。

《交代は無いな》

というか仮に出ても残り30秒で何が出来ようか。交代取り消しでもしましょうかと監督をチラリとみたらば、案の定「ピーーー!」と前半終了を知らせる笛が鳴る。。
スコアを見ると我が校が7点のリード。よーしよしよし、前半はリードしたまま終わることができてよかったよかった、さぁてベンチに戻りましょかい…と思っていたらばどうも様子が変なのである。
立ってベンチに戻ろうとする俺を「君ィ!」と呼ぶ声。そこには手をくねくねさせて何やら交代の合図をしている審判の姿である。
ハッとして、時計を見た。

 

「00:01」

 

そこには「前半残り1秒」であること指す無情な大きなのっぽのデジタル時計。おじいさんの時計だ。

「選手交代~」

その声でようやく状況が飲み込めた。どうやら残り1秒で相手チームのバカたれがファールをおかしたのだろう、時計が止まりマイボールとなったのである。
会場がにわかに騒がしくなっていた。残り1秒で交代に対するざわつきであろうことは容易に理解できた。俺はこの会場の皆が思っている気持ち代弁し、またその当事者として

「え、1秒でも試合でるの?冗談やめてよ~(チラッチラッ」

という顔をして監督や審判の顔を見た。

 「君ィ!早く出てきて!」

 やはり出るらしいのである。頭の硬いお方ナリね。ざわめく会場。俺は生け贄、360度の観客。ここはコロッセウムである。コートに入って行くとそこは試合の真っ最中。誰も1秒のことに触れない。コートに入りながら、俺は先ほどの監督の指示を思い出した。

 

≪相手ポイントガードには強めのプレッシャーでいっていいから、マイボールになったらとにかく前へ走れ。速攻が出来なかったら前半リードしたまま終われるように時間つかってパス回し≫

 

そのあと時計をみた 

 

「00:01」

 

「できるかバカタレが!」

味方チームが半ばええいままよ的なロングシュートをうって前半は終わった。俺は直立不動で1秒をやり過ごした。遠くの観客席では友人、後輩、知らない人が爆笑しているが、それよりも近くにいるベンチの中間達が誰もそのことについて触れなかったのが辛かった。その試合の出番はそれだけである。あの試合俺の出番は紛れも無く「1秒」であった。

結局その試合を落とした我が高は1勝2敗で県三位に終わり、ウィンターカップはおろか二位以上が行ける地方大会にも出ることが出来なかった。そんなことはどうでもいい。それより俺の決勝トーナメントのトータル出場時間、1秒。

 良い仲間たちとの良い思い出。今でも時々思い出してしまうのはあの頃である。

まさに地獄!マンチェスター・ユナイテッド・カフェバー事件

まずこのサッカー動画を観てもらいたい。

 

www.youtube.com


観られない、または観るのが面倒な人に説明すると、紹介しているのはイングランド・プレミアリーグにて09年に行われたマンチェスター・ユナイテッド(以下マンU)vsリバプールの試合のハイライト映像である。

サッカーにそこまで詳しくない方はとりあえずこの両チームが共にプレミアリーグ最多優勝回数を僅差で争う強豪にして、リーグを代表する象徴のようなチームであったことから、この試合が世界中のサッカーファンも注目するビッグマッチであったことだけ分かっていただければ良いだろう。

さてこの試合の概略を説明すると、白いユニフォームのリバプールが、ライバルとはいえあの当時実力ではかなり上と思われた赤いユニフォームのマンUのホームに乗り込みながら、ホームチームが有利とされるサッカーの試合で敵地での勝利を手にするだけに留まらず、そのスコアは4-1とまさかのリバプール圧勝。両者にとって、特に長きに渡ってマンUに辛酸をなめさせられ続けたリバプールファンにとっては00年代では記憶に残る、メモリアルな一戦であったと言っても過言ではなかろう。

それもそのはず、リバプール目線で観てみると試合内容もなかなかのもの。いつものようにあっさりPKを献上し先制され「やっぱりダメか」と落ち込みかけたところからの逆転、追加点、ダメ押しといつもは逆をやられているリバプールファンがシビれる要素満載の見事なもの。

あの当時Youtubeではリバプールファンによるこの試合の投稿で溢れていたのを覚えている。そしてあの当時のリバプールはというとチグハグな補強や取りこぼしの多い勝負よさわなどで慢性的に低迷、逆にマンUは若き頃のクリスティアーノ・ロナウドを筆頭に若いスター選手で溢れた眩しいチームであったこともこの試合を見る上での予備知識として付け加えておきたい。

 

前置きが長くなったが本題に入ろう。

この世界中が注目するサッカーの母国が誇る伝統の一戦を、この俺はというと当時二子玉川に出来て間もなかった、日本にも数多存在するマンUファンの為に作られた「マンチェスター・ユナイテッド・カフェバー」で観戦していたわけである。

連れて行ってくれたのは地元の友達であるヨッちゃん。イケメンであることはこの話の予備知識として加えておくが、九州出身で小中高とバスケ部の彼はいつからか、またなぜなのか全く分からないが、高校を卒業して数年後、気づいた頃には誰に頼まれたでもなしに理由なき熱狂的なリバプールファンとなって俺たちの前に現れたのである。

その日たまたま土曜出勤だった俺が帰宅する途中、かねてよりお邪魔しようと思っていた、帰宅ルートである横浜界隈にあったヨッちゃんの新居にスーツ姿のままフラリとお邪魔していたのが事の発端。

地元に帰るといつもヨッちゃんの実家に集まってやっていたように、この日は久しぶりのサッカーゲーム対決である。ひとしきりゲームに興じたのち、サッカーの話題の中からふと、くだんの二子玉川に出来たばかりの「マンチェスター・ユナイテッド・カフェバー」について話題が及んだわけである。

スポーツバー形式でしかも大画面でサッカーが観られる事を知ったヨッちゃんは更に「マンUリバプールの一戦がまさに今日である」という事を知り、「見に行こう」という提案をするのは自然な流れで、俺も俺で仕事で潰れようとしていたこの土曜日にささやかな週末気分を無理やりにでも味わいたいとその提案に乗った格好。現在地は横浜、二子玉川までそう遠くはない。

「急ごう、巨大スクリーンの真正面のベストな席を取ろう!」

そういうとヨッちゃんは何を思ったかおもむろに押入れの奥から真っ赤なリバプールのユニフォームを引っ張り出し「よっしゃァ!」とそれをまとった。皆さんも段々分かってきた事であろうが、これが後の悲劇のトリガーである。

「ヨッちゃん、ここは日本とはいえマンUのカフェにそれ着ていくのはさすがにマズいんじゃないかい」

という俺の声に耳を傾けず「ユニフォーム、俺の分しか無くてゴメンね...。」と上の空。目の前にぶら下がっている部屋の電球の紐にシュッシュッと小学生のようにジャブを打ちながらよっしゃー、よっしゃーと気合を入れている。

こうしてスーツ姿の俺とリバプールのユニフォームをまとったヨッちゃんのチグハグなコンビはそのまま電車に乗り、ほとんど何の事前情報もなしにいきなり、初めてのマンチェスター・ユナイテッド・カフェバーに突撃することとなったわけである。

 

気合が入りすぎたのか試合開始までずいぶんと時間があったようで、下調べもしなかった我々はまだ誰も居ない店内に一番乗り。オープンして間もないマンチェスター・ユナイテッド・カフェバーにあろうことかリバプールのユニフォームが1時間前に会場入り。店員全員による「エッ」というチラ見がひととおり終わったころ徐々に店内にマンUのユニフォームを着たファンたちが現れ始める。

酒が全く飲めないヨッちゃんが唯一、コップ半分だけなら何とか一晩かけて、時には蒸発の力も借りながら飲めるという「カシスオレンジ」を、その日はなんと「オラァ」という雄たけびと共にいきなり半分も飲み干し、ヨッちゃんのこの試合にかける彼なりの意気込みを感じさせたものである。

我々は一番乗り、宣言どおり巨大スクリーン中央のベストポジションを陣取り、フィッシュ、チップス&ビールをカマしながら、気づけば座席の全席を埋めたマンUファン、そして背後にその倍近く立っている立ち飲みのマンUファンからの「あのリバプールファンの男をなぜあんな特等席に座らせているんだ」という冷たい視線が一斉に浴びせられているのをビシバシ感じていた。

それにしてもものすごい人数である。出来たばかりという注目度の高さもあったのだろうか、中には雑誌などでもマンUファンを公言する某有名ファッションモデルとその仲間達の姿。英国とのハーフでもある彼のそのマンU・ユニフォーム姿は本場がかもし出すさすがの説得力である。彼が連れてきた英国人と思しき一団の騒ぎっぷりも含め、この仮設イングランド酒場はそれなりに本格的な雰囲気が漂う。所詮日本だろうと侮っていたが、あの瞬間は紛れもないマンチェスター・ユナイテッドのホームであった。

ここまでわが国で海外プレミアリーグの一チームのファンが居るものかと酷く関心しながら、とすると益々今俺の横でリバプールのユニフォームを着て険しい表情でカシスオレンジをすするこの男のその場違い感ときたら甚だしく、試合開始前にしてすでにボクは急激にお家に帰りたいのであった。

 

そしてそんな雰囲気の中、マンUリバプール伝統の一戦が幕を開けた。冒頭の動画で説明したとおり先制点はホームのマンUである。試合開始早々にマンUが先制点を挙げたとき、周囲のマンUファンが一斉にこっちを、ヨッちゃんを「ドヤァ!」と言わんばかりにチラ見したのを見て俺は確信した。

 ≪敵視されている≫

マンUに先制点を浴びると腕を組み険しい顔で黙りこむ孤高のリバプールファンのヨッちゃんをよそに、卑怯にして臆病、事なかれイズムの信望者たる俺は、彼には内緒でこの場の穏便な幕引きとなるであろうマンUの、大マンチェスター・ユナイテッド様の大勝利を心の底から祈っていたのであった。

《マンさぁん、マンさんのお力で早くもう1点決めてリバポーの野郎の息の根を止めちゃってくださいよぉ...?》

だが皆さん、試合結果は最初にご説明した通り、何の皮肉か結末はリバプールによる歴史的な大勝利であった。

それから程なくしてリバプールが起死回生の一発を決め同点に追いついたとき、静まり返るマンチェスター・ユナイテッド・カフェバー店内で一人、席からガタッと立ち上がったヨッちゃんは「いえ~い!」と子供のような歓声を上げ、よせばいいのに、よせばいいのにですよッ...!!あのバカチンときたらそれまでスーツ姿で「私はアビスパ福岡のファンです」とでも言いたげな極めてJ1とJ2を行き来したそうな表情でジッとして、さもどちらのファンでもなさそうな中立的立場を演出していたこのポックンにですよ...、なんと「ヘイ?」とハイタッチを求めてきたのである。

「へい」
「エッ、なんですか...」
「ほら、ヘイ!」

 

『パシッ...』

 

こうして「いえーい。」とハイタッチを要求するヨッちゃんのあの手に触れたその瞬間、俺は皆々様より「ほう、あいつもか」とリバプールファンとして認定されたわけだが、不幸なことにリバプールが怒涛の連続得点で大マンU虐殺ショーを繰り広げたのはまさにそれからであった。

同点に追いついたまではまだ良かった。「名勝負」とか「面白くなってきた」という見方も出来たし、マンUファンにもまだ余裕があった様にも見えた。しかしこの日ミスを連発し2失点に絡んだビディッチというDFの惨憺たる出来に店内は次第に険悪なムードと化し、そこにあってリバプールに点数が入るたびに「いえーい!」「よっしゃー!」と立ち上がるリバプールファンの謎の男ことヨッちゃんの存在。しかもそいつは大画面の真ん前のめっちゃ良い席に座っているときたもんだ!

日本人なので暴力的な因縁をつけられることはないだろうが、日本人ならではのヒソヒソとした静かなイラつき、負の視線がそこかしこから感じられるようになっていた。その時すでにスコアは3-1。さすがのヨッちゃんもとうとう背中に殺気の様なものを感じ取ったらしく、「やばいな、試合が終わったらスグ帰ろうか」とそういう話をするようになっていたところでさらに追加点で4-1である。

「や、やっぱ、今から帰ろうか...」

俺が言おうとしたところでヨッちゃんときたらばそれを見て「いえーい!」ってまた立ち上がっちゃたりして、どんなにヤバくてもその喜ぶやつは絶対やるのねアンタ...!

こうしてホイッスルと同時に席を立ち、マンUファンで満杯の店内から決死の脱出を試みた我々だったが、出口付近、なにやら知らない人数人が近寄ってきて突然ヨッちゃんに握手を求めている。

マンUファンからのおめでとうの握手なのかと思ったら、それは《後ろから見てました、ボクもリバプールファンです...!》というお店の端っこに居た隠れリバプールファン達からのねぎらいの言葉であった。

我々が入り口まで行く間、何人かの隠れファンと思しき方々と《あんたら男だぜ!》的なアイコンタクトや握手で静かに喜びを分かち合ったわけだが、俺は一人《リ、リバプール負けろ~...!》と試合の間ずっと考え続けていたのは完全な秘密である。

 

これが「マンチェスター・ユナイテッド・カフェバー事件」の一部始終である。もう一度最初の動画を観ていただきたい。この試合アノ状況下で観たいた俺がどんなに生きた心地がしなかったか。

しかし店内でただ一人、リバプールのユニフォームを着続け必死に応援し続けたヨッちゃんの勇気には、彼も生半可な気持ちでリバプールファンにジョブチェンジしたのではないのだと敬意を表明したいのだが、このヨッちゃんはというと中華料理屋でバイトしてるとき、仕事中に中国語で喋り合う中国人に「ここは日本だから中国語喋るなヨッ!」ってキレたこともあり、他人には極めて不寛容であることはお伝えしておきたい。