言葉が通じない

アメリカでも日本人も多いエリアに住んでいるので近くには日本食専門のスーパーもあり時々利用するのだが、スタッフの大半がアメリカ人で占められる中レジに唯一いる現地在住と思しき日本人女性が最近日本語で対応するのをやめ一律英語で対応するようになっていた。

それまでは「こんにちは」の挨拶に始まり、割り箸は要りますかとかお会計○○ドルですなど、日本のスーパー並みの接客で日本人にはきっちりと日本語で対応していたのがそれも終わり、急によそよそしく英語で対応されるようになり、それを初めて経験した俺は「えっ、えっ、えっー」と戸惑ってしまいサンキューも言えずにレジを後にしてしまったほどであるが、妻に聞くとちょっと前から急に相手が明らかに日本人であっても完全に英語になってしまったという。客を日本人かどうか判定する事とそもそも相手により対応を分ける事自体に面倒さを感じたのかもしれない。

確かにレジの仕事でそこまでのサービスは疲れるかもしれなし、特に日本食スーパーには中国、韓国のお客さんも多いので判断ミスから間違ってしまいちょっと気まずい思いをしたこともあるのかもしれない。

相手が日本人かどうかを判断する能力。能力というと大げさだが、恐らく日本人の多くは自国民かどうかを区別することが出来るものだと思う。果たしてこれが中国人、韓国人、台湾人の場合にも同じように区別ができているのか興味がある。あまり突き詰めて言うと偏見の色が帯びてくる繊細な話題にもなりかねないが、その実ファッションやヘアスタイルといった流行の違い、また体型や歩き方などといった微妙な身体的な特徴といった小さな違いからなんとなく日本人かそうでないか程度はわかってしまうものである。それは単にわれわれ日本人が日本人を見慣れており、日本人の特徴をよく知っているからの気づきである。

これはまだ確信はないが、日本語を話すことのできる外国人というのも何となく雰囲気や表情で分かってしまい、ひょっとしたら操ることのできる言語がその人の表情や印象に与える要素も何かしらあるのかもしれないとも考えている。

海外の観光地にいったときにホテルの人、現地の人が俺を見て「コンニチハ」と唯一知っている日本語で挨拶してきたことがあり、ひょっとしたら東アジア以外の外国人からみてもこれらの国々の国民を見分ける術を知っているのかもしれない、慣れれば見分けがつくのかもしれないと思っていたが、あいにく聞いたことがあるのは日本人は韓国人、中国人と間違われてもあまり怒らないので判断が微妙な時はまず人口の多い中国人で試してみて、次に韓国、最後に日本なのだと。全員がこれに倣っているとは思えないが、観光地などであればくしたちょっとした経験による知恵みたいなものも蓄積されるかもしれない。

 

空港で自分の乗る便を待つ間、目的地が同じらしい中国人3人組のおばちゃんに中国語で何度も話しかけられて困惑したことがあった。その人たちを中国人だと思ったのは話しているのが中国語っぽかったからである。でも多分間違いない。俺を中国人だと思ったのかもしれないと、最初に話しかけられたときに英語ながら自分が日本人で中国語は話せないことを伝えたのだが、そもそも先方は英語がよくわからないのか、何か強烈に困っていることがあるが他に頼れる人もおらず「同じ漢字を用いる者」という僅かな共通点に賭けたのか、俺がまともに答えられないのにその後も何度も何かを話しかけてくる中国のおばちゃん。正直困ったものである。前から知っていたが俺は中国語が分からない。

結局無事にお互い目的地に到着すると、また疲れたねぇとばかりにニコニコとまた中国語で話しかけて来るおばちゃんに俺は英語でいやあ中国語わからんですと答えるしか出来なかった。傍からみたら俺たちは何かしらの会話をしていたように見えたかもしれない。最後はボクたち顔は似ているのに全く意思の疎通が出来ないね、ウケるねという感じの苦笑いで、一度も意思の疎通は出来ないまま、おばちゃんたちが俺に何を話したかったかもわからないまま手を振り合って別れを告げた。

中国語の分からない俺にあんなにしつこく何を言いたかったのか。あの時ほど中国語が話せないことを悔やんだことはない。一応ズボンのチャックを確認したがちゃんと閉まっていた。

仕事が大変

俺の仕事が営業であることだけは知っているらしく時々、仕事から帰ると長男が「今日もたくさん売れた?」と聞いてくる。お父さんはそんな猟師とか行商みたいなその日ぐらしの不安定なお仕事の類でアメリカまでやってきたのではないのであるが、息子に「売れたか」「儲かったか」と聞かれる度に、俺は仕事で家族を養っているという当たり前の事実を思い出し、ともすれば惰性になりがちな働くことの意義を今一度見つめなおす。

会社員は、サラリーマンの仕事は特に単調でつまならないものである。ぼくらがそう決め付けているのかもしれないですね。会社員、サラリーマンと一言でくくられている人々、ともするとそれ以外の仕事、例えば農業や自営業やフリーランス、スポーツ選手や芸能人、作家やアーティストのような仕事と比べたときに変化に富まず楽しさややりがいみたいなものとは無縁のような扱いを受けてしまうのも、世の中の大半が会社員、サラリーマンであるゆえだろうか。結局サラリーマンがつまらないと決め付けているのはサラリーマンで僅かに存在するそれ以外に対する過剰な憧れによるものではないか。サラリーマンとそれ以外の両方を知ったものでしか、両方を知ったとしても誰も正解を出せる話ではない。

サラリーマンという括りの大雑把さを我々が看過し続けているのもどうかと思うが、しかし日々変化に富まない単調な毎日というのは、その実大局的に見たサラリーマンの規則的な生活サイクルのことであってその中身というのはご存知のとおり日々小さなドラマに満ちており、例えば島耕作のようなエリートサラリーマンが主役の華々しい世界、大それた物語でなくても、我々の日々の業務の中には予想だにしないトラブルと、そしてそれを解決していく小さなストーリーが日々転がっている。

大した額でもビッグプロジェクトでもなんでもないほんの数万円の注文書の手配ミスで生じた絶対無理な納期を守るため色んな部門の精鋭に声をかけ、時には上司を欺き、客に嘘をつき、起案だなんだと急き立てられながら上司同士の合意に基づくウルトラCの技を使って何とか間に合わせるような、街で見かけるその辺の冴えないリーマンにも彼らの背後には大なり小なり日々ドラマがある。冒険があり、感動があり、教訓がある。

俺がこちらで出会った日本からの駐在員。会社を代表し、日本を代表して祖国を離れアメリカで孤独に戦うその辺にどこでもいそうなオッサンばかり。英語も出来ないのに派遣され、片言の英語で欧米人相手に熱心にプレゼンをし商談を成功させるそんなオッサンの姿には妙な感動を覚える。我々が普段街で見かけるとてもインターナショナルには見えない普通のリーマンのオッサン。そんな人にも海外で戦うまでのドラマがある。

俺もみんなと一緒で本当はサラリーマンではない何かになりたかったけれども、なりたかったものが今より楽しかったものかは今となってはもはや分からないし、ただそう思うしかないのかもしれないしとにかく今は働く理由があるので日常に僅かなドラマを見出しながら日々やるだけである。

福岡の乾電池

俺の故郷は佐賀県唐津市。中学、高校生の頃、本気で買い物するとしたら隣県福岡の天神に行くしかなかった。幸い唐津は福岡・天神からは比較的近い場所にあり、ちょっと頑張れば行ける九州最大の大都会でもあった。

今でこそ便利な高速道路ができ、高速バスで50分、お値段1,000円以下で行ける身近な場所となっているが、あの頃は電車で1時間半、片道1,110円という距離・金額を掛けての一大イベントであった。中にはそんな電車代を浮かすために片道4時間ぐらいかけてチャリで行く猛者も居たほど。まるで巡礼、佐賀県民憧れの町福岡、天神。

中学のときは小遣いゼロであった。高校二年で小遣い1,000円、高校三年で3,000円貰ったときは「俺の家は大丈夫か」と不安になったほど。そんな俺がお年玉や日々の弁当代を節約しお釣りを溜め込んで得た1万数千円を握り締めて向かうのが福岡、天神。

だから往復2,220円の交通費は高いハードルに思え、そんな高い交通費を払ってまで来たのだからというプレッシャーで天神ではロクな買い物ができたためしがない。

中学時代、初めて行った天神で俺が買ったのは乾電池だった。友達と色々と回ったものの、都会に来た緊張感で天性の消極性が本領を発揮し、行く先々でほとんど何もせず、黙って友達の買い物を眺めるのみ。

帰る直前のこと、岩田屋というデパートで「乾電池はあっても邪魔にならない」と閃き、俺は汎用性の高い単3の乾電池をおもむろに12個も買った。別に地元でも買えるシナモノだが、せっかくフクオカに来たのだからという気持ちが最後ギリギリで俺に乾電池を買わせたのであろう。往復2,220円払って福岡で乾電池を買う中学生は、帰りの電車、袋から乾電池を取り出し「フクオカのカンデンチ...」とブツを眺める。

親に「何を買ったの?」と聞かれて「乾電池」とぶっきらぼうに答えて、それ以上の質問はNoとばかりに俺は部屋へ消えていった。フクオカのカンデンチはさすがの高性能。佐賀県の乾電池より確か30%ほど長持ちしたはずである。

2019年のインターネット

アメリカ生活も3年目、会社から駐在延長の連絡が入りこの春ビザも更新し5年はいそうな予感。冗談抜きで職場と家の往復で同僚か家族としか接しない非常にシンプルな生活を送っている。そして仕事が忙しい。

仕事と家族を除くとインターネットしかしていない。ゴルフを始めたり、サッカーチームに入ったりなどもしたがその比率は数%、というわけで結局俺は自分の時間というと殆どインターネットしかしていない。そんな2019年のインターネットで印象に残ったものや自分の活動のまとめ。

 

面白かったブログ note.mu

日本が夜中の時にアメリカが昼なので夜中に活動している人のツイッターを見ることが多くなった。夜中ツイッターにいる人を見ているときは自分も日本時間に戻り深夜に活動しているような気持ちになる。あこゑさんは深夜のタイムライン越しでしかしらなかったが最近たまたまnoteで書かれている記事を拝見しビートの効いた文章がすごくてとても印象に残りました。

 

gameboyz.hatenablog.com

話題になったのでタイトルだけは知っていたこの記事を後追いで読んでみてとてもよかった。面白おかしくブログに書かれているいろんな人の過去の辛い話を読むたび、自分には本当に辛かった思い出はさすがに書けないなと思ってしまう。本当に辛かった話というのは例えばよせばいいのにやったこともないDJをやってめちゃくちゃスベって家に帰った話などです。辛くて書けない。俺が書いているのは自分で受け入れて消化しきったものだけである。

 

 

smdh.hatenablog.jp

 この記事を挙げたけど、これが特に面白かったというわけではなくこの方のブログが全体的にとても好きだなと思いました。普通の日記っていうのがきれいに書けるのはいいなと最近思うけど、いや俺にもまあ普通の日常があって、そこにはなんかジジイなりの悩みなどがあるのだからテメエも日記はかけるじゃないかと、けどなんか人にそれを普通の日記として読ませられるかというと自信がなく、例えばソテーにしたり塩で味付けしたりお好みでソースいっちゃってくださいみたいに、よんでもらえるような体裁にしないと店に出せないみたいななんかそういうことを思ってしまう。

 

 

toukonakajima.hatenadiary.jp

 正直、この記事が今年一番良くて、最近まで非公開になっていたのでもしこういう形で紹介されるのがよろしくなかったら申し訳ないです。まあこれもさっき書いたとおり自分が本当にキツかった思い出などをそれでもネタにできるかという話。

 

 

silossowski.hatenablog.com

 文体が好きだなあと思いました。勝手な解釈ですが頭の中には、思い出話しって最初こういう感じで出てくる気がする。自分による自分へのツッコミが入ったり。この記事の事を指しているんではないけど、よく「頭の中で整理して書け」とか「整理してから言え」みたいなこと言われるけど、本当に思い出しながら出てくる一番最初の話って整理されてなくて一人称とか時制もめちゃくちゃだったりするんだけど、そういう「生データ」みたいな文章が好きだなと思う。整理するとどこかでかっこつけたり自分に都合よく書いたりするなあと思う。

 

 

omocoro.jp

 本当にどうでもいい話をしているんだけど、子供のころに起こったこういうどうでもいい事がずっと、何十年も残り続けるなあと。この歳になってもぼんやりしていると仕事中とかに昔しらないジジイからエアガンで打たれたときのこととかいきなり思い出すからね。

  

gram2.hatenablog.com

 大したこと書いてないのになんか面白いっていうのが最強だと思うんだけど、大したこと書いてないというと失礼だけど、そういうのが本当に好きだな。 まあグラム2さんは実際に会ったことあるけど良くわからない面白さが本人からもにじみ出ている。

 

satomiconcon.hatenablog.jp

 この話は良くわかるんですよね、語弊はあるとおもうがなんか「家族を持ったら終わり」みたいなのってあると思う。お前の代はもうおわりみたいな終了宣言を下されるっていうか、何かはハッキリ言えないが自分が若いうちに何かになってやろうみたいな良くわからない漠然とした目標において家族ってその真逆にあるっていうか、家族ってそういう意味ではなんか生活感の塊で「かっこ悪い」んですよね。勿論この記事はそれがシメではなくて救いがあるのだけど。

 

k-hirosuke.hatenablog.com

 こちらのブログもこの記事が特に面白いというわけではなく、全体の雰囲気が好きでご紹介。

 

note.mu

 オモコロのリックエさんのnoteは面白くて、この記事はわかり易くてよいです。実はあまりゆっくり話した事がないのだけど多分結構気が合うんじゃないかと勝手に思っている。

 

shirotodotei.hatenablog.com

 最近noteに活動を移され最近文学のような迫力すら感じられるけれども、俺はこの記事の続きが知りたくてブログにも戻っていてほしい。(続きはなく完結なのだろうか)

  

www.shortnote.jp

 かつてのmixiを思い出すとなぜみんなあれほどの長文できちんとした日記を書けていたのかと不思議になるが、今のShort Noteがそれに近くここには長文の面白い日記が日々流れてくるのだけど、この方の日記もたまたま拝見し読ませる内容で特に印象に残りました。

 

 食べたものの話を中心にご自身のこと、それに絵を添えた孤独のグルメ方式の日記。絵がとても良いのと読みやすい内容なので皆さんにも読んでいただきたい。

 

 

面白かったツイート

画像につけられたタイトルが秀逸ですね 

 

 

 

俺は学生のころ「甘いものが食えない」をかっこいいことと思って連呼していた。

 

アイコンとこのセリフ、とても素敵です。

 

これは言いたいことが本当に良くわかる。解説は加えないが。

気持ちはわかる。新宮霊園のCMを見ていた者としては。

 

見たことないが想像できる。

 

 

 

 そうですね。

 

これらメニューの力関係を考えた上で「チャーハンが呼んだ」とする江ノ島先生の判断は流石です。色々考えたけど、呼んだのはチャーハンでしょうね。(単純にチャーハン○○セットだったんでしょうが。)

 

よいです。 

 

違和感がないね

 

 短い文で架空の世界を端的に表現していてすごい。 

 

 

 

こういうのインターネットの宝石を見つけた気持ちになりますよね。

 

長渕も店で絶対スラックスのすそ上げとかしてもらっているわけじゃないですか。

 

ゴリラ・ミル、ゴリラ・テープ、ゴリラ・ボンド、、、目的は違えど、アメリカはゴリラの名のつく製品がめちゃくちゃ多いですね。

 

 清野とおるの作風を「『ボクはダメなんだ』みたいな感じ」とめちゃくちゃ雑に表現しているところがとてもウケました

 

 わかります。

 

  よいです。

 

 シャブを処方という言葉がとても素晴らしいです

 

 高野さんの観察眼とコメント力は本当に素晴らしい

 

 何を考えているんだ

 

 素敵です

 

 そうかもしれないと納得してしまった。

 

 

 

 

 

 

 

俺の子供も目指しているが10年以上ずっとブログやるより稼げるからいいかもしれない

 

 

 

 楽なんだろうね実際のところ

 

野球部に許された唯一のオシャレ

 

 

 

運営って言う言葉が身近になったものですね。 

 

 女性グループに一人だけ図抜けて性経験の豊富な友達がいるのに全くそのアクティビティが周囲とは切りはされているパターンがよくあると思うけど、あれはすごいなと思う。男は性経験に格差があると真の友情が生まれにくい気が。

 

 ニコニコ動画みたいですね

 

見たときめちゃくちゃ笑いました

 

これは本当に笑ってしまう。窓から逃げるところ見てほしい。

 

 今年の1月に日本で十数年ぶりに公衆電話を使って1分ぐらいで10円なくなって衝撃でした 50円では何の話も出来なかった 人と待ち合わせの約束するのに100円使うことへの衝撃

 

 似たような皿がうちにある

 

 

 

ローマ字はかっこいいから選ばれる

 

本当に怖いよ

 

 発生のプロセスが知りたい

 

 

 

 

山口さんは本当にこういう人です

 

 

 

 めちゃくちゃかわいい...

 

 見せた時点でツイートしたのと同じなんだけど下書きに入っているというのはなぜ面白いのだろう

 

 

 

 

 

 リプライ欄に画数の多いことで有名なタイトとビャンを作ってる人がいてウケます

 

 直訳しているのとフォントがよい

 

これ本当にわかります ホテルもそうですね。

 

 すべてが面白いんだけど、まあ紛らわしいですね

 

 俺はハラミ以外の肉がわからない そしてハラミの味を認識したのは30台半ばになってからである

 

 盛岡さんの長男はとても美形である

 

コメント王

 

 2019年一番笑ったツイートこれです 

 

 まだこの言葉が輸入されてない時代に出来たんでしょうかね

 

 俺もです

 

 

 中島が野球好きなようなルックスには見えないのでいつも彼が野球をやりたがるのが理解できない

 

 

2019年に書いた記事など

オモコロ

文字そばが終了してまた表舞台から姿を消すことに。皆さんまた何かで会いましょう...。

omocoro.jp

 

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素人の研究社

ものすごいスローペースで更新中。

shirouto-kenkyu.com

 

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ハイエナズクラブ

ハイエナズクラブでは設立者ゆえ会長みたいなポジションでいるが遠方ということもあり実質活動休止しており赤ソファさんに運営をお任せが数年続き、また引き続き海外生活が続きそうなことも考慮するとずっとこうも中途半端な状態にしてられないので来年はどのようにかかわっていくかをちゃんと考えます。

来年もよろしくお願いします。

俺はただ親切心で

まだ日本にいた頃、本社のある都内のオフィス街を外れたところで一人、いつもの店で昼飯を食べていた。それはオフィス街では割と当たり前になりつつあった居酒屋などがランチタイムは店の前で弁当を売っているパターンで、唯一その店が珍しいのは買った弁当をそのまま店内で食べて行けることであった。

弁当を購入し「店内で」と言うと店内へ案内されあとは座席に座り電子レンジや調味料の類、お冷にいたるまでセルフサービスで利用できるこの店、まだあまり知られていないのか、広くない店内だがランチ激戦区のこの界隈では信じられないほどの空き具合。席を争い駆け足で飲食店に向かう必要もなく、またがら空きの店内は非常に落ち着くためこうしてすっかり通うようになっていたわけである。

おまけにである、店内で食べる人限定で豚汁が150円、ランチコーヒーが100円、ランチビールは180円とくれば店内で食べない選択肢はなく、就業中にしか来ることの出来ない人が多いであろうこの店でランチビールを頼んで羨望の眼差しを受けたい気持ちは高まるばかり。

その日はピラフとスクランブルエッグの上に、コロッケと白身魚とあとは何の肉かよく分からない揚げ物がタルタルソースまみれで乗るという、男子学生のバイキング一巡目と見まごうばかりの弁当。にもかかわらず俺はそれでも足りないと不安なのでと、プラス100円でから揚げと赤ウインナーが入ったお得なパックを追加。足りるか足りないかは幼稚園のときに先生に「おなかと相談」というケーススタディを通じた高度な情操教育を完了しているものですから、瞬時に計算が出来るのである。

こうしていつものようにこの店のカウンター席に座り、与えられた電子レンジも使わず冷えたそいつを頬張っていたところ、この男子向けの店には珍しく20代後半と思しき4人組の女性客が現れる。早速その安さに心を奪われたらしく「アイスコーヒー下さい」と言う女性グループは、購入してきた弁当を電子レンジに投入するとすかさずタバコを取り出し、孤食を楽しむ男たちに混じってひときわ賑やかに雑談を響かせるわけである。

その女性グループの近くに居た俺はというと、こうなると天性の被害妄想が開花し三十ウン歳にもなって赤ウインナー3つも食べているのが妙に恥ずかしく感じられ、やや隠し気味にそれをいち早く口にかっ込むと、今度は俺の弁当がパセリを除けば茶色が支配する荒野の世界と化していてそれにも心が沈む。

程なくして隣の女性グループにアイスコーヒーが運ばれ、それに対する「えっ、アイスコーヒーは3つでよかったんですけど」とそんな声が聞こえてきた頃、俺は楽しみに最後まで取っておいた謎の揚げ物がチクワであることに愕然としていた。

隣の女性、テーブルに届けられた4つのアイスコーヒーが1つ多かったようだ。1人はコーヒーが飲めないらしく「飲んでくださって結構です」という店員のサービスも実らない。

食べ終わり、そのやり取りを背中で聞いている俺はというと、自分の弁当を平らげ、いつでも店を出られるという開放的な気持ちがそうさせたのか、ふと、妙な勇気が芽生えてきたのである。

≪「それ僕が飲みましょうか?」なんて言ってみるのも、これは粋じゃないか≫

粋とは何か。俺には漠然としたイメージがある。粋とは馴れ馴れしさ、しかしそれはさりげなさも帯びていなければならない。全然馴染んでないが一応俺も常連ではあるしそういうのっていいんじゃないだろうか。「ヨッ!」みたいな掛け声の一つぐらいくれるんじゃないだろうか。そういう前向きな気持ちが沸々とこう、なんか沸いてくるわけなんだね...。

でまあ、ひとつ言ってみたわけである。爪楊枝をシーシーなどしながら、言ってみたわけである。

「おやッ、それ余りなんだったら俺がもらいましょうか~?」

こういう具合だった。気さくでいて小粋だった。ヨッという声がしてもよかった。

だけど≪言った!≫と思った次の瞬間、愚かで間の悪い別の店員が遠くから俺の声に重ねるように言うワケ、「コーヒーそれ、1つは8番さんのだからねーー!」

突然話しかけた俺の声に一度はパッとこちらを見た女性グループとそのテーブルにいた店員だったが「それは8番の」という別の店員の声に反応し、次にまたこちらを振り返るときには「つーわけなんで、お引取り願いますか」的な迷惑さを帯びた視線で振り返る。隣の席から急に声を発したかと思ったらコーヒーくれだのという男を憐れみの目で見る女性たち。そしてあわやコーヒーを取られそうになった8番テーブルのジジイも遠方よりミーアキャットのように俺を警戒のまなざしで見ている。最低である。いつかライオンなどに襲われてほしい。

元は完全な親切心である。それがこのざまとはどうだろう。逃げるように店を出た俺に落ち度があったとすれば、そんなに気さくな感じのルックスではないという点である。あとは何も無い。

かくのごとき次第である。なんでもないランチタイムが、ちょっとした出来心でこのザマ。極力目立たず、必要最低限のことだけをしてやり過ごしていきたいものだと思ったものである。