人に自分の夢の話をするな/正月に夢精をしたI君 

俺がパジャマに使っている短パンにないはずのポケットがあった!

仕事で使っているPCのデスクトップのアイコンがきれいに整列していた・・・!

俺が最近みたどうでもいい夢である。この夢の話を笑いながら会社の女の子にしてみたが死んだように無反応だった。

「他人の夢の話なんてつまらない・・!」

聞く側に立てば容易に分かるこの当たり前の事実。だが、なぜか人は嬉々として他人に夢の話をしてしまう。他人の夢の話を聞かされることについて、厳しい言い方をすれば「無駄な時間」である。

「だってソレ、夢じゃん・・・」

全てがその一言で解決してしまうというのに、目の前の話しては「なぜか○○さんが出てきて!」「なぜか××してんの!」など、興奮ぎみに「なぜか」を繰り返す。なぜか、なぜか、なぜか。

ディティールを丁寧に説明されればされるほど、「それは夢だからだよアホ!!!!」というイラ立ちは募り、時間の無駄感に拍車がかかる。
実際に起こったことでもないため、我々が確認するすべも無い以上、「へえ」「はあ」と対応するしかないのである。

確認するすべがないとなると、夢の話というものは、もっと乱暴な話をすれば「だってソレ、アンタの作り話かもしれないじゃん・・・」という事も出来る。
俺の性格が悪いのも原因だが、夢の話を聞かされてもできの悪い作り話としか処理出来ないのが辛い。

だけど、よく考えてみてほしい。作り話ならもっとマシなのだ。そこにはクオリティが求められるからである。作り話、創作実話の類において、作り手は「相手を楽しませよう」「面白くしよう」という努力が加わり、嘘かホントかは別として純粋にストーリーとして楽しむ事ができるのである。

だが夢の話はどうだろう!

夢ゆえにシュールなストーリーが許されるという甘えがないだろうか。彼、彼女の深層心理と結びついた、ただチグハグなだけのオチ無しストーリーが広がるだけになってはいないだろうか!スピッツの歌詞の様なよくわかんねー世界観が許されてはいないだろうか・・・!!

人が夢の話をする場合、時系列に沿ってみたまま忠実に再現されるとこちらはお手上げである。ふわふわメルヘンワールドを第三者に対して、客観的な描写でもって「なぜか、なぜか」と熱っぽく語られたところでどうにも反応のしようがないのである。

この際、夢という甘えは捨て去り、「その話自体が面白いかどうか」それを冷静に見極めてから人に話してもらいたいのである。

みた夢のディティールではなく、夢を見た人の性質、そしてその夢、夢を見た前後のアクション・・・こうした一連の夢にまつわるサムシングが無いと夢の話はすべきではないと思うのだが、どうだろうか。

 

 

地元の友人のI君は、ある晩、どういうわけか『必死でカレンダーをめくる夢』を見ていたという。ディティールは割愛するが、このI君、その晩は激しいも切ない下半身の雄たけびに目を覚まし、その覚醒とともにまさに開放されんとする下半身の波うち具合に、

《夢精だ!》

と即座に判断、地域一帯には避難指示が出ていたもののとき既に遅く、それを受け止める覚悟をしたというのだが、その数秒後、覚悟をキめたI君の元にはお察しのとおり押し寄せる夢精の波。

彼はソレにジッと身を任せていたらしいのですが、なんとその事件の発生場所たるや、I君の部活の後輩の実家で、しかもそれはお正月。まさかの初夢だったというスペシャル仕様だったのである。(夢の中でカレンダーをめくっている間、I君がチンチンをめくっていた事は想像に難くない。)

翌朝、先輩として男らしく後輩に「夢精をした」と告白したI君も今や一児の父。娘さんにあったらこの男らしいエピソードをぜひとも話して聞かせようと思う俺だが、そんな話は後にして、後日彼の初夢・夢精を知った我々は夢精とカレンダーの相関についてアレコレと考察をしようと試みたものの、I君が「前の晩、カズノコを食べたからだ」と主張するのでその時はまあそういうことにしたが、ハッキリ言ってカズノコにそういう効能とか、不思議なパワーは無いことだけは正しくお伝えしておきたい。

最後になりますが、冒頭夢の話云々ぬかしといて、結局俺はI君が正月に夢精した話をしたかったわけです。ありがとうございました。