「ウケたい」と「面白いことをしたい」の違いなどについて

幼稚園のときのことだが、悔しくて今でも忘れはしない、あれは参観日に廊下に飾る絵を描いていた時のことだ。

絵が得意好きだった俺は一人一枚描けばよいモノを一人で張り切って3枚も描いたわけだが、まあこれが今でも信じられないのだが、先生はそれを見て「絵が苦手で描けなかった人に分けてあげなさい」と言うわけだ。

「またまたご冗談を!」つってもそれはご冗談ではなく、俺の絵には他の子の名前が付けられて幼稚園の廊下に飾られることになり、「はいみんな描けたねー」でシャンシャン、シャシャシャンの一本締めである。

さっきまで俺の絵だったのに、自分の名前が付けられたとたん「やったー描けたあ」などと、ご冗談もほどほどにしてほしいくらいの能天気さで、まるで記憶でも書き換えられたとしか思えないほどに無邪気に喜んでいる俺の絵の譲渡先の二人のバカ野郎。俺はというと「よかったね」「ありがとね」で一件落着したとあらば、到底返せなどと言えようはずもなく、何より残念なのはこの事態に対して的確に不満を述べる知能がなかったのである。

「アナタの絵が上手だからよ!」なんて言われても全く嬉しくなかったし、あの時の言い表せないモヤモヤした気持ち、今思えば絵を奪われた悔しさではなく、他人の絵を与えられて悔しさも感じるどころかむしろ喜んでいた二人への嫌悪感だったように思う。

 

もう一つ昔の話をするが、小学生の頃は親が厳しくバラエティ番組はおろかアニメもろくに観せてもらえない家庭だった為、テレビ番組で仕入れたネタをそのまま真似するだけでクラスの笑いをかっさらって行くコスパの良い連中を羨ましくも軽蔑のまなざしで眺めていた俺である。

《そっ、その笑いに、キサマ自身は1ミクロンでも入っているのか...!どうなんヤッ!》

スクールカーストの下のほうで、そんな負け惜しみにも似た静かな怒りを燃え上がらせたのが俺の悲しい小学生時代だった。俺は俺の考えた自作のネタで笑いを作り出すゼ!そんなカッケー意気込みを抱き、無口なままで迎えた卒業式。チーン。

長々とジジイの暗い思い出話、一体何が言いたいかというと、この世には自分で作ったとか自分で考えたという事実などは全く重要ではなく、とりあえず「結果」だけが欲しい人々がいるという事である。「ウケたい」と「面白いことをしたい」は似ているようで微妙に違ってて、前者は真似っこでもパクりでも何でも良く、とにかく自分がウケればいいって思っているのではないだろうか。あくまで主役は自分で、ウケたらそれでいい。それは別に悪いことではなく、ただ自前で何かを作りたい、やりたいという事の優先度が低いだけのことだと思う。反面、後者はどちらかと言うと作品を通じて自分を愛でて欲しいタイプではないだろうか。だから人とは違うことをしなければならないし、パクってる場合ではないのだ。

 

最近までネット上のパクり問題に関する「人のネタでウケて何が嬉しいのか」と言う単純な疑問があったのだが、昔のことを振り返ってみて、ひょっとしたらこういうことなのかもしれないと思い、一人で納得しようと試みた次第である。

それにしても、34歳になった今でも幼稚園時代の悔しい思い出を日記にするなんて、幸せに生きているのは何も考えずにシンプルに「ウケたい」と思っている側だと思う。俺はそう思っちゃうね!涙