JR神田駅でメガネのオッサン同士のケンカを見た

東京に住んでいたとき、JR神田駅で見たオッサン同士のケンカが忘れられない。

時間は朝の8時丁度。通勤時の乗り換えのためにいつも使っていたJR神田駅の1、2番ホームの一角で、オッサン同士の静かな戦いは行われていた。

双方スーツをまとったサラリーマン。細身の体にメガネ、気の弱そうなルックス、年齢もおそらく同じ40代後半くらいに見え、とにかく二人とも似ている。
「静かな戦い」と表現したのはその迫力の無さからだ。繰り広げられていたのは「ムキュッ」「ピィッ」という、動作時につい漏れ出た声以外、お互いが一言も言葉を発さずにただ双方の服をつかみペタペタくっ付きながら小刻みに引っ張り合うという玄人好みのアツい接近戦。

ケンカの効果音としては異例の「ペタペタ」というスピード感、緊張感の無さはどうだ。

素人が見たらじゃれ合いにしか見えないこの迫力ゼロのバトルに気づく人は残念ながら誰もおらず、ホーム中央さらに「ムキュッ」「ピィッ」といいながら服を引っ張り合うオッサン二人とそのすぐ脇で黙って見守る俺という謎の構図。通勤中なのでそんなものを眺める余裕など本当は無かったのだけど「俺しか見てない」という興奮から、乗るべき電車を二本もやり過ごし貴重な朝の時間を浪費する。

しばしのこう着状態ののち、ついに事態が急転したがそれも実に地味だった。片方のオッサンがもう片方のメガネをサッと奪ったのである。

地味な戦いの中で唯一キラリと光った、ハイライトともいえるその場面。緊迫の攻防をスローで解説するとこうである。

力士がまわしを取りに行くがごとく、組み合った状態からメガネに手を伸ばそうとするオッサンに対し、もう片方は苦悶の表情で「ピィ」と小さく声を漏らし必死で顔を背けかわそうとしたが、「ムキュッ」と小さなフェイントを二回使ったもう片方が一枚上手、抵抗の甲斐無くメガネは奪われ、奪ったほうが自分の上着のポケットにサッと仕舞ったのである。決まり手が何かありそうな、妙になれた一連の動きであった。


そして「なんでメガネを仕舞ったんだ」と思う間もなくさらに予想外の展開へ。

メガネを奪われた側、奪われると同時に「へなへな...」という効果音がこうも適切に当てはまるかというくらいに急速に全身から力を失っていったのである。

あからさまな戦意の喪失が見て取れる。その後メガネを奪ったほうにしっかりと体をつかまれ、無言のままホーム中央からどこか別の方向、おそらく駅員室だと思われるところへ連行されていった。

ロボットが動力を奪われたかのようなあのヘタり様。極度の近視だったとしてもメガネを取られただけでああもダメになるもいのなのか。低レベルながらもそれまでがっぷり四つで均衡していたパワーバランスは片方のメガネがはずされた瞬間途端に崩れた。何が起きたのか。非常に気になる一幕であった。

さすがに三本目の電車までスルーというわけにもいかず完全に事の顛末を知ることは出来なかったが、同じく日ごろメガネをかけて生活する者として何か言い知れぬ不安を感じた朝だった。