先輩から引き継いだ名刺の裏に書かれていた「ハゲ」というメモ

前職、商社務めだった頃の話だ。

よくある話だが、同じ部署の先輩が担当する取引先にいわゆるヘッドハンティングされる形で急遽会社を去ることになった。急な退職だったこともあり十分な引き継ぎもしないまま、先輩は半ば逃げるように去っていったのである。

礼儀正しく清潔な身なりで人当たりが良く、俺も色々相談に乗ってもらったり食事に誘ってもらったりと社内でも人望の厚い人だったのだが、その辞め際はこのようにドタバタとしたもので結構揉めた記憶がある。立つ鳥跡を濁さず言うが、在職中に評価が高くとも残された者の記憶に残るのは最後の姿。少し残念であった。

そんな訳で引継ぎ損ねた案件を見直してみると、話を半ばでフォローもせずに去った案件も幾つかあったし、残された者はしばらくの間その対応に追われた。

退職というもの、社会のルールでもそのときの会社の就業規則でも一ヶ月前に申告すれば良しとされているが、そうもいかないのが現実。その先輩がカバーしていた範囲、案件はそれでは足りるものではなく、もっとも、それほど仕事が出来たからこそ今回のヘッドハンティングに繋がったのだろうが、とにかく一ヶ月程度では到底足りるものではなかったのである。 

拠点としては純粋な減員であるから、残されたものに仕事が割り振られ、俺のところへも全体の2、3割が回って来た。先輩が辞めてから一ヶ月は「辞めた跡もしばらくは相談にのるから」というお言葉に甘えて、俺も何度か電話で仕事の相談をさせてもらっていたものだが、それ以降はさすがに気が引けて、渡された資料や過去の履歴などを見ながら何とか手探りで後を引き継ぐ日々。

増えた仕事に苦労しつつも半年経って何とか慣れてきた頃。前任の処理を終えてようやく本格的に、本腰入れて自分の仕事に取りかかれるぞ、と思っていたときだった。
それは上司から連絡。件の先輩の資料の中から、報告もされていない良くわからない取引先の名刺が大量に出てきたというのである。その中から俺の仕事に関係しそうな会社をピックアップしたから、ちょっと行けそうなところをあたってみてくれ、ということだった。

それは多分残された時間に鑑みて、先輩が引き継ぎをするまでもないと判断したものなのだろう。ピックアップされた割には、与えられた名刺の数は結構多かった。一枚一枚見て行くと結構大きな会社が多い。そして同じ会社で複数の名刺があり、そこそこの訪問回数で接触も多そうであった。「大手企業の中でいかに広い人脈を持つか」先輩の効果的な営業活動の一端をそこから感じることが出来た。

気付いた事があった。名刺の裏面をよく見てみると、そこにはどれにも全て何かメモ書きがしてあったのだ。メモの内容は《07.12/3 ○○打合せ》という風に、会ったときの日付や目的などが簡易的に書いてあるのが大半。その時の事を記録するのは名刺を貰ったときの基本でもある。

だが、そのとき裏面で発見したメモ書きはそれだけではないものもあった。それは会ったその人の特徴を忘れない為に書かれたのだと思われるプラスアルファのメモ書き、それを見て俺は凄く驚いた。

 

《08.×/× ○○納品  ハゲ

 

「ハゲ」と。

それに限らずまあ、見て行けばその他にも「チビ」だの「ハゲ」だの「デブ」だのといった悪口としか思えない言葉の多い事。もっと他に、何かこう、褒めてあげられるところがあるやろ・・・!と言いたくなるほど、延々続く「背が低い」「息がクサかった」「チンポみたいな髪型」といったネガティブワード・・・

「チビ」とか「眼鏡」なんて外見的な特徴で済ませて頂ければまだマシである。

中には「オタクっぽい 作業着汚い デブ」なんて、身体的特徴に加えて、主観、先入観などがさらに+アルファされて一気に畳み掛けるヴァージョンも散見され、いつしか俺は延々続くその悪口SHOWに、すっかり魅了されていた。

とある会社など例に挙げれば、同じ部署の担当者の名刺が3枚あったのだが、その3枚の名刺の人物全てに「ハゲ」と書いてあって、そのハゲ率の高さに一体そこの部署の何が彼らをハゲさせるのかと俄然この会社に興味津々となったものだ。

別の名刺に書かれていた「態度が悪い よく席外す ハゲ」に至っては、最後にとってつけられたような殴り書きの「ハゲ」がもはや《態度が悪い》事と《よく席外す》事への報復というか、ただの誹謗中傷にしか見えなかった。

きっとこの人は全くハゲてなどいないのに、態度が悪かったがために先輩の逆鱗に触れてしまったのだろう。触れてはならない闇の部分を彼が刺激し、その結果押されたのが「ハゲ」の刻印。これはきっとそうなのだ。そういう意味では、実際の容姿とは全く関係が無いのに、先輩の怒りを買った事で言われのない「負のキャッチコピー」をつけられた可哀想な人が混ざっている可能性も十分ある。

そう思うと先ほど紹介した同じ会社で担当者三人とも「ハゲ」だったところなんて、ひょっとするとただ何か先輩とトラブルがあっただけなのかもしれない。「てめえら若くしてハゲろ!」という願いだったのかもしれない!

見れば見るほど、何て魅力的な名刺達・・・、それにしても、礼儀正しく人当たりも良いあの先輩が、である。

最初は純粋に特徴を覚えておこうという動機で始めたこのメモ書きもいつしか先輩の心の奥底に潜むサムシングを刺激したのだろうか。徐々に嬉々として人の悪口を書く場と化したとしか思えないような惨状がそこにはあった。

 

「書かれていることが本当になのか確認してみよう」

 

そういう訳で、俺は趣味と実益の一致した、この気になるメモの書かれた人達へのアプローチを行った。

勿論全部に対して行った訳ではないし、実際に行けたのは、仕事として行くべきだと判断したのは全体の中の3割程度だ。あくまで実益が、仕事が優先なのでささやかな活動しか出来ないのだが、それでも趣味にならない限界ギリギリで俺は頑張ってみた。

汚名ではないかと思っていた文言の多くは、実際に会ってみると先輩のメモ書き通り、そのままの特徴を捉えていたことが分かった。

「ハゲ」はハゲていたし、「デブ」は相変わらずデブで、「チンポのような髪型」の人は、書かれていた日付から一年以上経って居たが、まだまだチンポのような髪型だった。徐々に晴れて行く疑念...。

中には「デブ」としか書かれていないのにハゲでデブだったケースもあり、「ハゲ&デブ」という「ラブ&ピース」のようなダブルキャッチコピーを避ける辺りに先輩の最後の優しさが垣間見えた。ビジネスマンではない、人間・先輩に触れた心暖まる瞬間だ。

会いたくても会えない人もいた。ただの私怨で汚名を着せられた可能性の非常に高い「態度が悪い よく席外す ハゲ」の人には残念ながら最後まで会うことが出来なかった。電話をしても書かれていた通り「席をはずしております」と言われて取り次いでくれなかったからだ。だからは俺は聞いてみたかった。「あのう、その方はハゲてますか」と。「態度はわるうございますでしょうか」と!

そのかわり、別で「ブツブツ」とだけ書かれた、恐らく若い頃のニキビで肌の荒れた人だろうとしか思っていなかった人が、実際に会ってみると「ぶつぶつ・・・」とブツブツ言う人だったことが明かになるなど、その後も想像を越えた幾つか新発見があり、その都度、先輩の底無しのセンスにはただただ驚かされるばかり。最高だった。

 

その後1年もしないうち、俺も部署を移動し、先輩が残した名刺の大半は未チェックのまま残った。大分たってしまい徐々に重要度は下がったものの、辞めた先輩の名刺は俺の後任にも一応引き継がれた。俺はその名刺を渡すとき後任にこう伝えた。

 

「『トカゲ』と書いてあるこの人にだけは会って、顔のことか飼ってるペットことか後で必ず教えてください。」