たった一人で避難訓練をやったときの話です

前の会社にいたとき僅か一年程度だったが、新しく作られた出張所を一人で任されたことがあった。今日お話するのは新規開拓の使命を受け、小さな雑居ビルの中で一人孤独な新規開拓に勤しんでいた20代半ばのころの話だ。

いつものように誰もいない事務所に一人で出勤し、独り言をいいながらブラインドを上げたり観葉植物に水をあげたりしていたところに一本の電話がかかってくるところからこの話は始まる。電話は本社の総務からで内容は避難訓練のお知らせだった。

 《今週末避難訓練をやってもらうから。近日中に防災ヘルメットと、防災に関する書類が届くからそのつもりで。》

 「分かりました。」と言って受話器を置いたものの正直悩んだ。ここは俺一人なのである。本社の総務もそれはご存知のはずである。

避難訓練といったって、俺が一人でここから脱出するのだろうか。そうだとしたらなんたる茶番。いや、まて当日になるとさすがにその為のメンバーとして本社から何人か助っ人としてやって来てくれるんだろう、それで盛大にぱーっと避難するんだろう、きっとそうだろう。

 

「・・・・。」

しかし当日出勤してきたのはやはり俺だけだった。

いつものように一人でブラインドを上げ、無言で丁寧に観葉植物に水を与える。二日前に届いた「防災セット」と書かれた段ボールを開けると、中から「防災ヘルメット」という名の黄色い工事現場向けヘルメットがなぜか4つ出て来た。

そういえばこの出張所、元々の計画では四人でがんばるはずだったのだがなぜかずっと俺一人なのである。その計画は全く進まず、かれこれ1年近く俺は一人で頑張っているのである。

そんなことを思いつつ、送られてきたヘルメットをまじまじと眺めると、正面にはとって着けたように無理矢理テプラで「防災」と書かれている。情けなくて泣けてくる。

それを丁寧に一つずつ段ボールから取り出すととりあえずテーブルの上に並べてみる。ひとりしか居ない事務所に4つのヘルメットが寂しく並ぶ。今は亡き戦友を偲んでいるようで無性に悲しい。

この避難訓練、俺以外どこからも誰も来ないが一体どうすれば良いのやらと困り果て、同じ段ボールに入っていたISOに準じたとされる小難しい書類を眺めているとタイミングを見計らったように固定電話が鳴った。

 

《すまんけど、避難訓練は一人でやってくれな。訓練をやる上での確認事項を書いた書類が届いてるはずだからそれを見て、やった内容は後日報告書を書いてくれればそれでいいので。》

 

「・・・・。」

言葉が出なかった。何が悲しくて一人で避難訓練を。

しかしそうと決まればのんびりしてもいられず、取りあえず一人で黄色いヘルメットを装着。便所の鏡でヘルメットを装着した自分を見るとあまりの情けなさにくすくす笑った。

とはいえ、しょうがないので送られてきた書類に従い、ヘルメットを被ったまま手際良く避難経路や緊急脱出口の確認、防災器具類のチェック他を「避難経路ヨシッ」と一応小声で唱えながら、厳粛な面持ちでこなす。

事務所内をヘルメットを被ってウロウロし、「窓ヨシッ」と言いながら振り返り窓を見ると、実は今までずっと窓に設置したブラインドが全開であったことに気付き、「うわあ」と慌ててこれを下ろす。窓は全然よくなかった。

窓の外にはマンションやビルが建っており、特に向かいのビルからこちらの様子は丸見え。いつもと違いこの日は一人避難訓練の日、黄色いヘルメット被ったスーツ姿の男性なんて、こんなもの見られたら「過激派です!過激派が何かの準備中です!」と一発で通報ものだ。

そんなこんなで手順に従い粛々と進められた俺の避難訓練もここからクライマックス、「頑張って出口を見つけましょう!」的な書類の指示に従いヘルメットを被ったまま「出口ヨシッ!」と、ついに事務所から脱出である。そこは避難訓練ということで一応ルール通りエレベーターを使わずにコソコソと、しかし一気に屋外の階段を駆け下りる。この辺の真面目さは誰かに見てもらいたいところなのだが残念、一人っきりの避難訓練である。

とにかくクライマックスとあって、この格好で他の人に会わないかとスゲーどきどきした。スーツ姿でコソコソ逃げ回るその姿。火なのか人の目なのか、この頃自分が一体何から逃れているのか分からなくなっていた。

 

「そ、外ヨシッ・・・!」


無事外に出て、物陰から外が良いことを確認するとそこで避難訓練終了である。

「ふうっ」と妙な達成感の中で「防災」と書かれたヘルメットを外し、雑居ビルの三階にある事務所に戻るとタイミングを見計らったように再び電話が鳴る。再び本社総務である。

 《避難訓練だけど、やっぱり後日ちゃんと人を揃えてやろう。ちゃんとやってないとISOの監査で何言われるか分からないし。》

あまりのショックに無言でその声を聞いていると、電話の向こうのおっさんがこう言った。

《どうせちゃんとやってないだろ。》