人と人、そこにある慣性の法則

それを習ったのが中学か高校かも覚えていないことから俺の理系科目への関心の低さが知れるが「慣性の法則」という言葉だけは覚えている。

「物体がその運動をそのまま続けようとする性質」という程度の簡単な理解である。動いているものはそれを続けようとし、静止しているものは静止し続けようとする。理解の浅い事柄についてそれっぽく説明してもボロが出るだけなので深く突っ込まないが、とにかく覚えているのは電車の中の急加速、急ブレーキのくだりである。慣性の働いているものに急にそれとは異なる力を加えるとヤバいすよ、とそこだけハッキリ覚えている。

その後慣性の法則を本来の物理的な用途で用いたことは皆無であったのだが、俺の場合はこれを人と人の関係の中で度々この慣性に似た現象を見出してしまい、その度に「慣性に抗ってはならない」と思う次第。

例えばどういうことか。

知り合ってそんなに日が経っていない、そこまで親しくない人とそれなりに気を使った言葉遣いで話しているときに突然

「ずっと気になってたんだけど、敬語は使わなくて良いよ

などと言われることはないだろうか。

これは非常に困るご提案である。今まで敬語で喋っていた相手に急にタメ口になれるはずがない。そこには「さん付け」「丁寧語」という類の慣性が働いているのであり、急に「呼び捨て」「タメ口」などという急ブレーキを加えると絶対に電車の中の皆が転んじゃうじゃんなどとは思わないだろうか。

もちろんずっとよそよそしい態度を続けるのは、それはそれで不自然であろうし長い付き合いになるのであればいつしか丁寧語も変だという事にもなるだろう。俺とて勿論どこかでその時がとは考えているのだが、それは知り合った俺たち二人が徐々に色んな経験、エピソードを通じ、時に困難などを乗り越えるなどして育んでいくべきものであって、このように急に「敬語はやめてよ」などと雑に提案を受けるべきではないと思うのである。電車は徐々に減速して停止すべきなのである。

100歩譲るとして、もしそれを言うのでならばまだ電車のスピードが出ていない頃、出会って一番最初に言って欲しいと俺は思う。

 

もっとも、敬語かタメ口という言葉の問題だけであればマシなのかもしれない。それは日々の習慣的なことであるから「敬語やめて」などという無理な提案さえなければ相手との関係が変わり行く中で徐々に親しみを表明する方向へチューニング出来るものだと思う。しかし相手の呼び名に関してはそうもいかない。皆さんはどうか知らないが俺は無理である。

例えば「山田太郎」という人と知り合ったとして、最初に山田君と呼んでしまったらどんなに仲良くなろうとも太郎君とか、太郎、ターくんなどと途中で変更するのは困難である。

その実俺は高校のときに特に仲のよかった友達を最初に苗字で呼んでしまったがために高校三年間は当然のこと、今でも苗字で呼ぶハメになっている。今更変えられないのである。逆も然りで、前まで俺のことを苗字で呼んでいた人がいきなり下の名前で呼び捨てにしてくると何かこっちがオドオドしてしまう。皆さんはどうだろうか。

例外的に、ある人のニックネーム誕生の瞬間に居合わせた場合のみ、俺はその人の名前を変えることが出来る。いわゆるバイトのオープニングスタッフのようなやつである。

皆が同じタイミングで「太郎!」と呼び出した時に「この波に乗ろう」と一緒に山田君を「ォイ、太郎!」と急になれなれしく呼び始めるのであるがそれが出来なかった場合、ふと気付くといつの間にか俺だけが頑なにある人物を苗字で呼んでいるという事例はかなり多い。本当に多いのである。

 

高校の時、同じクラスの友達がそのときに好意を寄せていたやはり同じクラスの女子生徒のことを、もっとお近づきになりたいという一心からか、大胆にもいきなりの下の名前呼び捨てに変えた瞬間に偶然立ち会ったことがある。

仮にその女子生徒の名前を山田春子さんとしよう。ディテールは割愛するが端的に説明するとこうである。それまで「山田さん、山田さん」と言っていた彼であるが、ある日の昼下がり突然目を見開き、とても普通とはいえない圧力で接近し「やま...やッ、は、はる...春子...ねえ、春子ォさあ!」と開眼したのである。ビックリしたのはその後である。彼は話しかけた目的までは考えていなかったのかその春子に「えっ...なに」と返されて「今日、暑いね」という程度のどうでも良い事を言ったことである。アツいのはお前だけだばかやろう。

その惨劇を見て俺は改めて確認した。

「慣性に、逆らってはならない」

 

人と人の関係にも慣性に近いようなものが存在していると思う。それを見誤り、間違った力、ベクトルでこれを強引に変えようとするとそこにはギクシャクした現象が起こるのではないだろうか。俺はそれが非常に苦手である。