最後の3分間スピーチ

前に働いていた会社には週の初めに3分間スピーチってやつがあって、自分のプライベートの話、ニュースについての感想など、何でもいいからとにかく前に出て3分間程度スピーチしなければならなかった。

対象は営業職のみで、順番に回していったとしても大体一ヶ月半ぐらいに一度のペースで自分の番がやってくる。「話を整理し、人前できちんと喋る訓練」とかそういう理由で始まったらしいのだが、ただこれ、やるのはいいのだが週初めの朝一で眠い中に誰も人の話を聞くものなどおらず、一般社員はもとより本来ならばこういうのはしっかりやるべきやんごとなき支店の長に至るまで皆一様に目が虚ろで伏し目がち、はっきり言って誰も前に立っている者の話など聞いていなかったのが実情なのである。ならばやめてしまえば良いのにと誰もが思っているはずなのだが誰も言い出さない。組織の悪しき部分である。

それを良い事に、俺はこのシステムが始まって半年ほど経った辺りから三回連続で「自転車を買おうとしているが高いので迷っている」という話をしたがやはり誰も気付かなかった。つまり無駄。そういうことなのである。

その一ヵ月半後にしたって、さすがにヤバいかなと思いつつも禁断の四回目にあたる「実は自転車を買おうとしているが高いので迷っている」という話を決行。スピーチを終え「バレちゃったかな...」とドキドキしていると、支店長が一ヶ月半前にこの話をしたときと同じ「幾らぐらいのを買おうとしてるの?」という質問をしてきたので、前回は「5万です。」と言ったがその時は「8万です。」と答えたが一ヵ月半前と同じく「へえ」という反応で事なきを得たものであった。

 

これはそんな3分間スピーチ最後の日の物語。前職の退職が決まり、最終出勤日となった朝のことである。そのときまでにすでに送別会や個別のご挨拶などを済ませていたが、最終日が奇しくも3分間スピーチのある月曜日。

「多分、最後の出勤ってことで朝礼で挨拶させられると思うから」

前日、先輩からそんな事を言われていたが俺もそのつもりであったし、所属部署の最後のお勤めとしてこの場でピシャリとご挨拶をさせていただく心づもりで事前に皆々様への感謝の言葉はバッチリと用意していた。

当日朝、厳粛な面持ちで出勤し、すでに片づけの大半が終わり何もなくなったデスク上で手持ち無沙汰にしていると8:30。朝礼の時間である。全員起立し、朝礼当番が立つお決まりの事務所中央に体を向けるいつもの状態で、恐らく今日は当番に関係なく、今日で最後となる俺が「お別れの挨拶を」と指名されるのだろうと考える皆の視線がうっすらと俺に向けられるのを感じる。望むところである。

ほどなくすると、奥のほうから支店長が現れ、事務所中央にゆっくり歩いてくる。
チラリと俺を一べつし、そして一言。

「今日は僕の当番なんで、ちょっと話を」

俺の最終出勤日の朝礼当番は支店長だった。新しい職場で挑戦したいという俺からの退職の意向を最初に聞き、そして最後に許可を出してくれた人だ。あとはワンサウンザンドウォーズを闘った相手でもある。

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退職に向けては色々と話をした支店長。こうした場を用いて俺に向けて別れの言葉をくれるつもりなのだろうか。だとするとヤバい、こうしたお膳立てというものは結構胸を打つものがある。あらかじめ考えてきた言葉はあったが、支店長からのメッセージを聞いたのち、それに素直な感謝の気持ちを伝えようと思った。飾らない、そのままの気持ちをである。「では」と始めた支店長の話は意外なものだった。

 

「日本に水族館は一体どれくらいあるとおもいますか?」

 

「○○くん、分かる?」「××くんは?」と、立ったままの社員数人に質問し、俺も同じように当てられたがやはり同じように「分かりません」と答えた。

俺の最後の出勤日になぜか水族館の数を問う。一体何の話なのだろう、とみんな聞き耳を立てている。だがこれはまさに営業トークの基本、まず最初に目的の分からない質問や、派手なキャッチコピーなどを投げかけ、注意を引くことで本題への入り口をスムーズにするのである。話に引き込まれる俺に「最後のレッスンだ」とばかりになおも水族館の話を続ける支店長。

「日本は人口当たりの水族館の数が世界一」
「日本には素晴らしい水族館がたくさんある」
「水族館に行くと色んな発見がある」

俺たちは魚、場所は違えど広い大海原で繋がる仲間だ――まさか俺の旅立ちを海ないしは何らかの海洋生物に例えようとしているのだろうか。3分間スピーチがどう締められるのか色々と勘を働かしてみるが何も思い浮かばない。その後も色々と日本の海または水族館の話題にふれた後、丁度3分ほど経とうとしたあたりで、最後に支店長はこう締めくくった。

「そんなわけで、楽しいのでみなさんも近くに水族館があれば是非行ってみてください」

「・・・・・・」

「以上。」

部下の最後の出勤日だというのになぜ彼は、その挨拶の時間も割かずに「水族館は楽しいよ。」という話をせねばならなかったのか、色々と考えをめぐらせては見るものの答えが出る気配は無い。もうあんな会社無かったことにして、新しい職場で頑張るしか手立ては無いと思った。