居酒屋トイレ特有のピースフルな雰囲気について

居酒屋の男子トイレに漂う妙にピースフルなあの感じが前々から気になってしょうがない。

よほど変なお店に行かない限り、一般的な居酒屋のトイレではなぜか入ってくる男子が皆人当たりが良く、腰が低く、おしなべて愛想が良い。いい人だらけである。

いい人だらけというより、いい人になってしまうといったほうが適当かもしれない。同時のタイミングで入ってきたもの同士が「どうぞどうぞ」と互いに便器を譲り合い、狭いトイレ内、人とすれ違う際にちょっとでも相手を避けさせてしまえば「あ、すいません」なんて気遣いがあちこちで見られる。ときには足下のおぼつかない人を見るや「大丈夫ですか」なんて積極的に気遣う姿勢。日ごろ見られない助け合いの精神に溢れている。

トイレが混んで外で並んで待っているときなど、全く見知らぬ者同士が「いやあしかし、ションベンが漏れそうですなあ」「いやはやまったく1000%おっしゃる通り(シャー、トバドバドバ)」と、何を言っても全肯定されそうな、そんなゆるい空気が蔓延している。そこにあるのは必要以上に互いを思いやる、ラブ&ピースな雰囲気。

おかしい、変だ、やる必要がない、などと言っている訳ではない。相手を思いやる気持ち、俺はいいと思う。思いやりで発電できるぐらいに、国をあげてどんどんやればいいと思う。だけどやはりちょっと不自然ではないか。思いやりに溢れた社会は望むところだが、残念ながら街中ではそれを一切見かけない現状がある。

いかにも人の良さそうな人ならまだ理解も出来るが「青春時代、男子便所での思い出は?」との問いに「はい。ズバリ、カツアゲとリンチです。」 と即答してくれそうな見た目には反社会性をたくわえた皆々様でさえ、ひとたび居酒屋の男子トイレに来れば「カツアゲより、かき揚げが好きですね。えっリンチ?それってミンチより美味しいのでしょうか...?」という具合に皆様大変お行儀がよろしくなる。

居酒屋トイレのこのピースフルなムードの理由を「ただ酔っぱらっていて気分がいいから」という理由で説明することは出来るだろう。楽しい飲み会の席からちょっと席を立ち一人トイレへ。気の会う仲間と来ていようと、付き合いでやってきた会社の飲み会でも、お酒が好きな人であれば、結局お酒が入ればそこそこ楽しく、離れた席に戻るまでの少しの時間、先ほどまでの楽しい酒の席を思い出し噛み締めていれば、自ずと表情はほころび、普段は歯牙にもかけないような赤の他人にも寛容になれようものだ。寛容どころかそれが積極的なサービス精神にだって繋がることもあるだろう。そうした人々が集合した結果があの居酒屋トイレのピースフルな雰囲気を形成するというのは確かにあると思う。

だが、果たしてそれだけですべて説明できるのだろうか。例えば酔っぱらい方は人それぞれ、皆が皆、お酒が入って気分が良くなるはずもない。酒乱と呼ばれる人を知人の中に知っているし、そういう人を思い出したときにお酒とは決して楽しくなるだけのものではないことも分かっている。時にはそういう人によって、酒の席で俺も嫌な目に遭っている。酔っぱらってよい方向に変わる人ばかりではないわけだ。

だが振り返ってみると、こと居酒屋のトイレでいえば、そこで遭遇した酔っぱらいには「どうぞどうぞ」されたことはあっても、未だかつて「てめえこの」と嫌な目に遭わされた事がなぜか無い。たまたま運が良かったからだろうか。どうもそうとはおもえない。なぜだろうか。

居酒屋のトイレとは、それまで各々がテーブルでお酒の入った非日常を楽しむ間、一瞬だけ冷静になれる日常の場かもしれない。それはまるで息を飲むようなサスペンスドラマに急に割り込むCMのような息継ぎの時間。一人になり、はっと我に返ると先ほどまで各々がテーブルではしゃいでいた自分を省みる。その醜態、ラブ&ピースどころではない。サーチ&デストロイである。

酔った勢いで世に放ったご自身の歪んだ性癖の発表や、面白半分、酔っぱらった勢いで他人の悪口をシツコク連発したり、本能のおもむくままにセクハラまがいのハレンチなJOKEを披露したダメな自分を、この便所でようやく客観視するのだ。

≪俺は酔っぱらってない、俺は冷静...≫

冷静でいたいが体は正直、どうやってもお酒が入って気分は良い。下のお口は正直だなとは言いますが、飲み過ぎのションベンは止まらず、舞い上がっている自分を嫌でも感じる。そんな酒の席でのダメな自分を挽回する為に、彼は必死で意識のしっかりしている冷静な大人を装うのだ。僕は人に気をつかう余裕がありますよ、酔っぱらって取り乱すようなことはしない常識人ですよ、と。他人の為ではなく、自分の為に。

酔っぱらっているものだからそれを行動に移そうとするとやはり大げさで分かり易いものになる。その結果が「どうぞどうぞ」なのではないか。俺はそう考えてる。俺がそうだから...。

時には自分より酔っぱらっている人をわざわざ心配する、なんて行動も見られる。これも根元は同じ。自分は人を心配する余裕がある、という内外へ向けたアピールなのだ。
「大丈夫ですか?」なんて言ってるヤツの顔が全然大丈夫じゃない場面に俺は何度か遭遇している。そしてそれをさも冷静な傍観者のように眺める俺の顔だってベロンベロンである。

女子トイレが同じかどうかは知らないが、俺が今まで見て来た居酒屋男子トイレは概ねこのような状況である。アメリカはシラフの状態から常にこれであり、また人前でここまで酔っ払うことは宜しくないとされているので、日本のあの居酒屋トイレの独特な雰囲気を懐かしく思っている。