どういうゴキブリなら俺たちは許せるのか

アメリカの俺の住む地域は緯度が北海道とほぼ同じ。冬はマイナス20度にもなり、ゴキブリもいない。ゴキブリが大嫌いな者にとってはそれだけで永住したくなるというもの。そう、俺も皆様と同じくゴキブリが大嫌いである。

かつて職場にて「なぜゴキブリはあんなに気持ち悪いのか」について話していた。大嫌いだから真剣だ。まずゴキブリという名前に関してである。一介の虫のくせになぜあんなに特殊な名前がつけられているのだろうかという疑問が生じ、そこからゴキブリの気持ち悪さのヒミツを分析した。元々は「御器被り(ごきかぶり)」、皿にもかぶりつくほどなんでも食べることから命名されたらしいのだが、だからってその俗称をそのまま正式名称にすることもあるまいとは思ったが、そもそもこの「御器被り」という漢字のまま、和風で中世日本を思わせるようないささか雅なネーミングでさえあれば、非日本語的で虫を超越したような現在の「ゴキブリ」という名前より何万倍もマシだったかもしれないと今では思えてくる。

まあ、そこまでは求めないにしても、最低でもその名前をゴキブリ以外、ただただシンプルに「○○ムシ」などというおあつらえ向きなものにしてくれさえすれば、『ヒトにとっては取るに足らないムシの一種』という、人対虫という圧倒的な力の差、パワーの違いを持ち込めるし、現代、ますます高まるゴキブリの”超虫的”別格の扱いも、あの気持ち悪さも幾分かは薄らぐのではなかろうか。

では仮に「クロムシ」という名前にしよう。そしてある家族のすむ家にクロムシが出たとしよう。

「あっ、お父さん、クロムシが出たよ」
「ああ、クロムシか。クロムシね。クロムシとて取るに足らないムシの一種。網で捕まえて捨てなさい」
「お父さん、クロムシなんか気持ち悪いね」
「うーん、でもただのムシの一種なんだぞ。捕まえて捨てなさい。」
「えー、クロムシなんかすばしっこいよ。お父さんがクロムシ捕まえてよ 何か気持ち悪いんだ」
「よーし、しょうがない、クロムシは別格にキモいからクロムシホイホイを買ってこよう」

結局ゴキブリの気持ち悪さっていうのは名前の問題ではないのだ。今更いうまでもないか。

この親子の会話の中で使われている「クロムシ」という言葉が連呼されるにつれ次第にあの虫をイメージさせる独特の気持ち悪さが加わっていったのを感じたのは俺だけだろうか。結局生き物の名前というのは、その生き物の存在自体が強烈だった場合は生き物それ自体の印象や性質を表現する「媒体」でしかなく、いくら他の言葉で表現したってどんな名前だって、最後には同じ印象を与えるものに戻っていくのだと俺は思う。

ならばと、仮に「ミッキー」という名前に改称されたとしても、やはり同じなのである。「ミニー」も残念ながらあの虫の気持ち悪さを薄めることはできない。むしろ何かあの触覚の長い感じをより的確に表現したような名前で、「ゴキブリ」とは別の気持ち悪さを出す可能性もある。ならばもうわざわざ見当違いの名前や、そのムシの印象をあえて薄めるような名前にしたって無駄だといういことだ。どうせ気持ち悪いのが変わらないのであれば、出現時にその名前を出すだけで警鐘を鳴らせるような強烈な名前にしたほうがかえって良いのかもしれない。

世の中にいる虫の名前が最初は全て「○○ムシ」だったとしよう。昔の人はそれら「○○ムシ」を見るうちに次第にそこに嘘っぽさを感じたのかもしれない。ゲジゲジに名前をつけた人はやはりそこにゲジゲジ感を見たのだろうし、蚊の小ささ、そして人に叩かれる彼らの儚さを「か」という一文字で表現した人もいたのかもしれない。御器被りが例えばゴキカブリムシではなく、そこからさらに非日本語的で超虫的な気持ち悪い「ゴキブリ」になったのも、仮説の中での話しだがなんだか頷ける。やはりゴキブリはなるべくしてゴキブリになったのであろう。普通の虫を超越した、そういう生き物なのだ。

こうして俺の脳みその中でまず、なぜあんなに気持ち悪い名前にするのかという疑問にある程度理由をつけることができてしまった。

名前はもういい、ゴキブリが気持ち悪いのはその動き、色形、性格、枚挙にいとまがなさすぎる。この中にゴキブリの関係者がいたら申し訳ないが簡単に言うと存在全てが気持ち悪いわけである。もうこれはゴキブリが人間に忌み嫌われるために生まれてきたとしか言いようが無いのではないだろうか。

だがいくら嫌ってもゴキブリは居なくならない。頭のいい、偉い人がいうには、人間が居なくなってもゴキブリは生き続けると言われているからもう絶望的である。かといってゴキブリと共生するのはやはり不可能。我々が高度な知能を持ってしまった以上、相容れぬ生物であると考えざるを得ないのである。

こうなったらもう空想の世界に逃げ込むしか道は無いじゃあないか。日本は今まさにゴキブリの季節の只中であろう。そんなこのハイシーズンに、一体どういうゴキブリだったら許せるのかという想像の世界を楽しもうではないか。それしかない。

まずあの茶黒い色を何とかしたいものですね。あれがなければひょっとすると全く別の生き物に見えるかもしれない。仮に白だったとしよう。白くて大きな虫がカサカサカサ...おおおおおおおお、なんと言うことっすかね、余計気持ち悪い。むしろ茶黒でよかったとさえ思える別の不気味さ。それに気付かせてくれた今回の白色。白さんありがとう。ゴキブリが出たときは「白よりはマシかー!」と軽くかわせるくらいになりたいものだ。

では、あまり刺激の強そうではないカーキはどうだろう。カーキの大きな虫がカサカサカサ...あららら、白と比べて衝撃は少ない。しかも茶黒よりはマシかもしれない。だけどもなんだか彼らに「擬態」というの更なる特殊能力を与えてしまったようであり、今までのブラックの自己主張が無い分より生物としての狡猾さ、能力を増されてしまったようなそんな脅威を感じる。いよいよイルカを越えたかと言う感じだ。越えられてたまるかよバカ野郎!

そもそもゴキブリという生き物の不思議な点は、発見したくは無いがかといって音などによって一度その存在を確認してしまうとスグに発見して殺さないと気が済まない。見たく無いけど居るのならすぐに発見したい、そんな難しい生き物だ。よって発見がされにくいカーキ・茶色・灰色などの地味な色はだめだ。

じゃあ逆にということで赤は考えるまでもない。ショック死する人続出だ。

頭の中では他にも色々考えてみたがどれもそれぞれの色でものすごく恐ろしかった。みんな違ってみんなキモい。NIKE IDのように頭の中で色を変えてみて分かったのだが、どうもオリジナルの茶黒が一番マシかもしれないとも思い始めた。おかしい。ひょっとするとこれは我々の諦めを含んだ「慣れ」というやつが作用しているのかもしれない。悲しい。

では色はもう諦めよう。次はルックスだ。あの変にテカった背中に無駄に長い触覚。触覚と言う単語を聞くとまずはゴキブリのそれを想像してしまうほどに彼らのトレードマークでもある。じゃあこれを何とかすればどうにかなるかもしれない。思い切って全て変えてしまおう。ちょこちょこ変えてもらちがあかない。ルックスに対して我々が抱くマイナスイメージを根本から変えるには、いささか乱暴だが完全に他の虫のルックスを借りてくるしかない。

ではボクらが大好きなカブトムシにしてみましょう。家の中にカブトムシが突然カサカサカサカサ....うーん、全くつかまえる気にもならない。出て行ってほしい。そもそもカブトムシもまあまあキモくないでしょうか。とんだとばっちりではあるがそういう事も思い始めてきた。

大体、カブトムシは山に分け入り、蜂の襲撃、農家の説教、カナブンとカブトムシのメスを間違えてしまうなどの幾多の苦労を越えてつかまえるからこそのカブトムシであって、冷静に考えてあいつだってちょっとルックスは気持ち悪いと思う。あれだって家の中に何匹も居たら相当嫌ですよね。

トキが群れで飛んでるのを見て一匹一匹にトントンだかキンキンだか名前をつけるやつなどいようか。日本に二匹しか居なくてこそのトキだったのだ。俺はそう思う。なんか話が違いますか。

結局ルックスの考察から分かったことは、ゴキブリは勿論それ自体図抜けて気持ち悪いのだが、「家の中に居る」という状況下、そして人間の生活圏にガンガン入ってくるという設定では多少の衝撃の度合いは違えどルックス如何に関わらず大体の虫は気持ち悪いということだ。

昆虫の中でも人気者のカブトムシでこれなのだからそれ以下の動物で代用しても結果は分かったものだろう。ゴキブリのもともとのルックスから少しだけマイナーチェンジするなんて試すまでもない。こうして色んなゴキブリの形体を空想の世界で試してみたものの、やはりどれも気持ち悪い。

こうなったら完全に動物の様子から離れなければならない。毛糸やプラスチック、紙、粘土など色々試した結果、それまでの想像からは格段に薄らいだもののまだどれもやはりどこかに気持ち悪さを持っていた。

そして頭の中での孤独な協議の結果、「もう完全に機械でなければどうしようもない」という結論に至った。これはもう生物としてのゴキブリ、全否定である。

こうして空想の世界でとことん歩み寄りを試みた俺なんですが、ごらんの通りゴキブリという生き物は人間にとって完全に相容れぬ輩なのだということを認識した次第であります。残念です。