家に居ながらにして「教室のみんな、元気?」と言われ

小学生のとき病気などで学校を休むととりあえず何もすることがないので大体午前中は寝るか、それ以外はぼんやりとテレビを観ていたように思う。

いつもより遅く起きると兄弟や父親は既におらずいつも散らかっている部屋は母親により片付けられている。いつもは飲めないリンゴジュースも病気を理由に簡単に出てくるといった平日の午前中によこたわる非日常。

大体9時か10時ぐらいまではワイドショーが放送され、子供ながらにこのワイドショーというものになんとも言いようのない俗っぽさというか、負のオーラのようなものを感じとり、それを洗濯物を畳みながら一人でぼんやりと眺める母親の背中には大人の闇の部分を感じたものだ。

そうした、午前中本来であれば自分がいない間に日々行われている母親の、大人の知られざる日常というかルーチンを垣間見ることで、世の中には二つ以上の世界が実は同時進行で動いているのだななどと妙な気持ちにもなったものであった。

そしてワイドショーの時間帯が終わるとお待ちかねの教育テレビ、もはや死語であるが今でいうEテレで放送されるお勉強番組が始まるのである。ここから先は15分刻みで算数や国語や理科といった学校教育に即したテレビ番組が目白押し。

これらの番組には必ず頭の悪い役をする若い大人の男性が現れる。彼が色んな初歩的なミスや無知を露呈し、それを棒などで動く人形のキャラなどに時にやさしく、時に手厳しく指摘されたり、正されたりして賢くなっていくのが定番の流れである。

それにしてもこの時間帯にこのような番組が存在する意義はよくわからなかった。不運にも体の都合で学校を休んでしまったが、幸い教育テレビを観ることで学校の授業に遅れをとることはない、そんなことを考えながら見る子供は果たして何人いるのだろうか。

あの時間、教育テレビを観る機会としては病欠時を除けば、あとはごく稀に授業中に教師が「では教育テレビを見ましょう」などと半ば息抜きというか休憩タイム代わりにこれを唐突に差し込んでは何事もなかったように授業に進むことがあったくらいで、甚だその存在は謎であり続けたのである。

おそらく日本中の病欠の子供たちがそうであったように俺もただ単に一種のバラエティ番組という捉えかたでこれを見ていた。学ぶべきことは何も無く、娯楽として眺めるのみなのである。であるにも関わらず、登場人物である若い大人の男性が番組の冒頭に言うのが「教室のみんな、元気?」という台詞。平日のこの時間、この番組を子供たちはみな学校で見ているという前提の、お決まりの台詞。

実際観ているのは俺たちのような病欠の子供たちばかりであろう。子供とて皆そんなに暇ではないのだ。「教室のみんな、元気か」という問いかけは教室にほとんど届かず、毎日空虚に消費されていく。病気のうつろな目の子供たちに届けられていく。

ただ、間違いなく言えることは自宅で聞く「教室のみんな、元気?!」という響きが病欠の子供たちにとってある種、教室にいて日常を過ごす皆とは違うという優越感を感じさせる言葉であり、それと同時にそこに居ないことを思い知らさせ、病気で学校を休んでいる小学生の心を揺さぶる、病欠を象徴する一言でもあったということでもあったように思えてなからない。