思い出のフェアレディ・ゼット

度々書いている通り、昔築地市場で働いていた。築地も豊洲に移転し、最近何かと思い出す事も多い。この年末久しぶりに休暇で日本へ帰るが、5日間は東京にいることだし時間があれば立ち寄ってみたいものである。

今でも思い出すのはあの当時自分の上司だった「課長」のこと。上手くいかなかった大学生活で心身ともに疲弊し、何も成し遂げていないのに大人になり、これから待ち受ける社会人という更に期待の持てない暗闇へ虚ろな目で歩き出した俺にとって、この課長の存在は救いであったといっても過言ではない。

どう表現するか迷うと思い浮かぶのは両津勘吉ルパン3世かもしれない。とにかく破天荒な人であったが、その魅力は課長の放った数々のセリフ、エピソードによってしか説明できないであろう。会ったこともない人に第三者の魅力を分からせようとするのは難しい事かもしれないが、それでも俺は愛すべきこの課長のエピソードを紹介してみたいと思う。

 

課長の愛車は「ゼット」――日産のフェアレディ・ゼットだった。今回の話の主役である。課長との思い出は色々あれど、このゼットには特に印象深いエピソードがある。カッコいい車が好きだという課長は元々スカイラインを所有していたのだが、曰く、ある朝目を覚まし、さあ仕事だとあくびをした瞬間(とき)...

《いやあ、突然だったね、朝起きたら無性に"ゼット"が欲しくなったんだ》

後日談として皆の前で嬉しそうに、まるで突然湧き上がった食欲か性欲のように簡単に語られた世にも奇妙なゼット欲。

課長はその日の仕事を急遽休み、「すいません。"ゼット"を1台ください」と、朝からゼット屋さんにゼットを買いに行ったという。この購買意欲。日本全国課長だらけだったら景気Z字回復である。

 

作業着であろうと常にリーゼント、元々が男前であるのに加え、その破天荒な生き様が災いしとうの昔に家庭が崩壊していた課長。当然のように愛人が居て、俺は何度となくその愛人と課長の逢瀬に付き合わされた。そしてそのデートに使うのは勝負の"ゼット"――。

「おい、行くぞ」と助手席に俺を乗せ、オンナの元へ必ずお気に入りのイニシャルZで向かうのであった。

同じく課長の逢瀬に付き合わされていた先輩に聞くと、これはその当時既にルーチンとなっていた3ヶ月に1度の課長のバイアグラを買う係と並んで、信頼され、気に入られた限られた若手だけが経験出来るスペシャル・イベンツなのだいうが、先輩は「発情した中年を見るのが耐えられず」という正直な理由で執拗なお誘いを断り続け、その付き人役から引退、全ての業務は晴れて俺に回ってきたという訳である。

愛人と会うその一番最初、「今日は特別に、お前にいいオンナとうまい酒を教えてやるよ」と誘われた俺だが、「浮気発覚時のアリバイでは」とも考えつつ、その後もとにかくタダで酒が飲める嬉しさだけで、そうでもないオンナのいる魚民でのデートに5回も立ち会うことになった。

課長の"ゼット"は残念ながら、これが厄介なことにイカした2シーターでいらして、一軒目のデートが終わるや、そこから先はまるでスネオのように「悪いけどこの"ゼット"はツーシーターなんだ」と、自宅から電車で1時間の全く知らない街に俺を置き去りに、課長と愛人だけを乗せた"ゼット"が夜の街へ去っていくのが常。性欲の赴くまま、自由に向かって走り去るあの後姿はいつも、まぶしかった。

 

 

職場である築地は車通勤が禁止されていた。駐車場はあったが、それは出入りの業者用。言うまでもないが、課長は当然のように車で通勤していて、それは大体スカイライン。ただし愛人と会うときはご存知の"ゼット"――。フォークリフトとトラックをすり抜けながら早朝の築地に現れる場違いな白い"ゼット"を見て「今日はヤるんだな」と皆が眺めていたものである。

禁止されている自家用車で出社してきた課長は堂々と役員用の駐車場に停めていた。そこが常に1台分あけてあることを知っていた課長は、そこを自分の駐車場として利用していたのであるが、あまりに堂々と停めるので数年間ずっと不問であったという。

役員用駐車場が空いていないときが圧巻であり、築地市場の門の真横、運送業者やフォークリフトが行き交う200%交通の妨げになる門の入り口付近に堂々とヤクザ停めしては渋滞を引き起こし、築地市場の場内放送で《門の真横に停めてあるねずみ色のスカイライン、至急移動してください》と呼ばれていたものである。

課長はこの放送で度々「ねずみ色の」スカイラインと呼ばれるのを「ねずみって言うんじゃねえよッ!!」などと大変嫌っていたのだが、オメーはそんなことを言える立場か。

そして課長のしもべだった俺は「キーは挿しっぱなしだからお前いってこい」と言われ、それを移動させにいくのである。警備員、周囲の八百屋、フォークの運転手からも罵声を浴びせられながら、もはや築地市場内のどこにも停める場所も無いねずみ色のスカイラインを操り、当時ペーパードライバーの俺は半泣きになりながら雑然とした市場内をオロオロとさまようのであったが、この車移動係りもスカイラインではなく"ゼット"だったときは更に大変。

「絶対にこするなよ」という厳重な注意を何度も受けたあと、引き取った"ゼット"を運転する最中もひっきりなしに電話が掛かってきては「こするんじゃねえぞ!」「邪魔なヤツがいたらクラクション鳴らしまくれ!」などといった心配の電話が掛かってくる訳である。

 

こうしてみると課長のゼットは俺にとって若干迷惑な存在だったように思えるのだが、一度ゼットに、ゼットに乗った課長に助けられた思い出があり、それを紹介してこの話を終わりにしたい。

ある日のこと、午後過ぎになって発覚した取引先への商品の出荷漏れ。新人にありがちな単純ミス。よくある話である。しかし向け先は築地から車で1時間はかかるであろう千葉方面のスーパー。本来ならばついていなければいけない時間はもう目の前。たった1つの荷物に運送屋をチャーターするのも現実的ではない。

「俺は一体どうしたら...。」

新社会人の俺を襲うちょっとしたトラブル、パニックだった。しかしみなさん、もうお察しはついているでしょう、そこで登場したのが...課長の、、ゼェェット!

「俺の"ゼット"で運んでやるよ」

話を聞きつけ颯爽と現れた白いゼット、性欲の象徴。そしてそこから降りてきたリーゼントの課長。ツーシーターのゼットの助手席に荷物を乗せ、「悪いけどこの車は2人用なんだ」と映画版のスネオのような好感度で一人配達に行った課長。あの時のゼットの後姿...。

あまりに格好の良すぎる課長であったが、なぜだか分からないがその日の自分の仕事は全く手付かずのまま。おやおやおやっ、て思ってたら、さらにどういうわけかそのまま課長はゼットくんと一緒におうちに直帰しちゃってて、モリモリ残された大量の仕事の処理のために、俺を含めた部下の3人は遅くまで会社に残ったのであった。