「セックスが上手い」とは何か

「○○は車の運転がうまい」「××は下手だ」という、車の運転に関する評価があるが、残念ながらその運転の上手い、下手という概念がいまだにハッキリとよくわかっていない。

MT車のギアチェンジなんて今や趣味の世界、各種センサー、カメラに守られた現在の車において、人間の技術、判断が運転に入り込む余地は昔より減ってきているがそれでもまだ我々は運転の上手、下手という話題から逃れることはできない。

しかしそれは単純にギアチェンジ、ハンドル捌きのことだけを指している様でもなく、助手席に座っていて安心感があるとか、判断力があるとか、多少無理な運転をしても目的地に早く着くとか、マナーがいいとか、判断する人によってその評価基準も様々であるように見える。抽象的で主観的な評価なのではないか。

その評価のベースに関しては、車の技能を明確に判断する場としての車の教習所を思い出して見ると、あの場では持ち点に対する減点方式で人間の運転技能をジャッジしており、それから判断すると運転の上手い、下手は少なくとも加点ではなく概ね減点方式で各人が判断していると思われる。

その上手い下手を判断する人の中にある「これをやったら減点」ポイントが何かを知らずして、評価を自分でコントロールする事は出来ないように見える。

 

「△△はセックスが上手い」

もう一つ理解できない表現がこれである。セックスが上手いか下手クソかを当たり前のように論じる人がいる。"する"か"しない"かの2つしかないと思っていたやんごとない御セックスになんと内容を問おうと言うのである。バチがあたる。居ていただいているだけでいいじゃないか、お前たちは象徴セックスという言葉をしらないのだろうか。

したらガッツポーズ、しなかったら滝行、それでいいじゃないかと思っていた俺に突きつけられる「勝ったが内容には満足していない」というサッカー日本代表のような次に繋げる姿勢。もう一度いうけどバチがあたりますよ。

ここで言う上手さというのも、自動車の運転同様、共通の判断基準もない抽象的で主観的な概念のような気がしてならず、こうした風潮に対しては警戒感を強めている。しかもどうやら車と同じく、その評価は概ね減点方式らしいのである。「良い」の状態から始まり、やらかすたびに減点されて「普通」か「悪い」になる、例えば真珠の入ったチンポなどのスペシャルな事例を除けばほぼ加点されることはなく、持ち点を守り切ったものが勝つ、そういうイメージである。

先ほど、同じくその上手い下手を論じるのに主観が蔓延っていると記述した車には自動車学校があり、ここでは最低限の共通認識として技能、ルール、マナーは全国同じ法律の下に定められたカリキュラムに準じ等しく学ぶ場所がある。セックスにそれがあるでしょうか。何が正しさを決めるのか車の運転以上に不透明な、濃霧が覆うセックスハイウェイを無灯火で進む我々にどんなカリキュラムに準じて減点をカマしてくれるというのか。

減点方式の社会は人から挑戦する気持ちを奪う社会でもある。ヤリチンほどセックスがヘタクソである、という話をよく聞くが、彼らは挑戦した結果、いろんな教官の基準により減点を受けただけなのかもしれない。その理論で話を進めれば、童貞は数字の上ではセックスが上手いことになり、持ち点をたくさんもっている「理論上の床上手」なのである。

これの皮肉なことは、そんな理論上の床上手である童貞期間が長くなればなるほど、初めてのセックスでめちゃくちゃエグいプレイをカマした結果持ち点ゼロ、一発免停になるケースである。それが礼儀と思って初体験でいきなり顔射とかするヤツのことである。