クラクションは無表情で鳴らせ

20代の前半。2年ほど狭い築地市場内をターレットやフォークリフトに乗って荷物の回収などをしていた。

行きかうフォークリフトの大半はガス式で、セリも終わったころに清掃が入ってくれば更に長年蓄積したホコリが舞い上がる。すべての荷物が引き上げられる頃には、排ガスとホコリで空気は最悪。昔はアスベストが使われており、撤去はされたものの粉塵は市場のあちこちに蓄積されていたのではないかと思えてならない。

このように移転する前の築地市場は狭く汚く危険も伴う昔でいう3K職場に近いものがあり、その実冬になると乾燥もあいまって俺もほぼ毎年長期に渡って風邪を引くなどしており、そこで働く人間の健康面でも怪しいものがあったので個人的には移転してよかったと思っている。

そのような環境面の理由もあってガス式のフォークリフトターレットはクリーンで騒音も少ない電動式へと変える動きが盛んになったのだが、電動式は音が静かなことが災いし、うるさい市場内ではその接近を人に気づかれないというデメリットもあり、クラクションなどを鳴らす場面がかえって増えることで騒音面ではあまり改善されたようには思えなかったものである。

そして、またそのクラクションであるが、働いている人々の中には皆様のご想像通りテヤンデエテイストの荒っぽい人も相当数いるものだから、歩いている知らない人にマシンの上からいたずらにプップードケドケなど、特に若い者が変に鳴らすと「ナンダテメエ」と怒らせるという事もままあり、先輩からはクラクションを鳴らすときは努めて無表情に、目線は合わせず無表情で、笑顔でもダメ、当然迷惑そうな顔など絶対にしてはダメという指導を受けたものである。これはただの合図、「道を空けて欲しい」という記号でありそれ以上でもそれ以下でもないことを無の表情で示すのだと。

「これは一般道運転するときも同じだけど」

そういう前置きで言われたのはクラクションをするときはできれば変なまばたきもするなと、変な意味が入るからと、たかがフォークリフトのクラクションでありながら、さながら俳優への演技指導のようにそう言われたものである。何の話をしていたのだろうかと今でも思う。

築地から豊洲市場へ一斉に移動するターレットの列をニュースで見た。その中にガス式のターレットがまだ残っていたのか分からなかったが、豊洲新市場はクリーンで清潔な最新鋭の市場になるらしいからもしまだあったとしても早い段階でガス式の車両は一掃されるだろう。クラクションをまばたきするな、無表情でやれなどど後輩に演技指導する先輩もいなくなるだろう。

「ガス車は重心が低いので片輪走行ができる」

そういって電動の連中に見せ付けるように、仲卸の若い連中が築地市場の立体駐車場から市場へ繋がるスロープをガス式ターレットで高速で下ってきてはカーブを急ハンドルし片輪走行する築地のダイナミックな朝を見るのが俺は好きだった。