ひとの成長について

漫画「魁!男塾」の有名な1コマがある。身長180cmを超える男子高校生の奥にはその2倍の身長を有するこれまた学生服の巨大な男子生徒、更に彼らの奥にはそんな彼らすら小人にしてしまうほどのこれまた巨大な学生服の男子生徒が。この男子学生があまりに巨大すぎて彼の顔は遠くに見ることができず、その身長は50mには達するかもしれない。繰り返すが、彼らは全員学生服をまとった高校生である。

手前から奥に行くに従いむしろ男子学生巨大になっていく遠近法をあざ笑うこの演出、このコマをバカだなあと笑うのは簡単である。しかし、ここにはキッズ達がかつて抱いていた「すごい=デカい」の原理がそのまま持ち込まれており、当時少年ジャンプにハマっていたピュアーなキッズたちにとっては、とにかくこれを見たら一発で手前から奥に行くに従い強いのだろう、きっとケンカに勝つたびに体がデカくなったに違いないのだろう!と理解する仕組みになっている。

ドラゴンボールフリーザが出てきて第3形態でいきなりツルンとした形状になったのは、だから画期的だったのであろうが、しかしそれ以前はこのひと強敵ですよ、ヤバいですよと、一発で印象付けるには大きく描くというのがある時代までは適切な表現であったのかもしれない。

このような「サイズ=強さ」の原理はほかの漫画でも見られる現象で「ジョジョの奇妙な冒険」ではそれをサイズの「変化」によって描いた漫画である。たとえば小林玉美というキャラクターがいて、彼はもともと街のどこにでもいるゴロツキの風貌、出たての頃は6頭身ほどできちんと描かれていた彼は戦いに負けたあとは急に3頭身になりゴロツキのテイストは消え極めてキャッチーになってしまった。ジョジョに関して言えば間田というキャラも同じで、彼らは一度戦いに負け、小さくなるとこれ以降元のサイズに戻ることはないばかりかさも最初からそうであったかのようになんら作中で説明がないほどである。

門外漢の漫画論について語るのはこの辺にして、伝えたかったのはサイズと能力の関係。強いとデカくなり、弱いと小さくなる。このように男子の世界においてはしばしば、物事の評価基準はこうして安直にそのサイズで表現される事がかつては極めて多かった。

前も言及したが、小学校の低学年の頃、脱ぎ捨てられていた6年生の上履きがとてつもなく巨大なものに感じられた。小6の上履きがまるでバスタブのように見えて驚嘆した記憶がある。小学6年生ですらそれであるから、街で見かける中学生など話にならない。当時の俺にはヒゲの生えたオッサンのように映り、その先に待つ高校生に至ってはどんな巨大生物なのか検討もつかなかった。

近所に居た中学生の足のサイズが25cmだと聞いたとき、「高校生ぐらいになると足のサイズは30cmだろうか...」と驚愕し、さらにその上には「大学生」なるものが存在すると知るや「足のサイズはきっと50cmぐらいだろう!」などの大胆予測。

「すごい=デカい」

まるで成長リミッターなしの巨大魚のように、年月に比例して無限に巨大化する前提で、大学生の巨大さについて色々と思いを巡らせる日々を過ごした俺である。

ともかく、未熟な小学生として、何かの凄さであるとか、成長したその先を想像するには単純にサイズ的進歩で想像するしかなく、また「サイズ」は時に「量」にも置き換わることもあり、当時田舎の小学校でひと学年6クラスだった俺は「東京の小学校はひと学年100クラスぐらいあるのだろう!」などと本気で思っていた。

人間の成長過程について、あの当時、かろうじて想像できる範囲が大学生であったがそれ以上の存在である「大学院生」なるものを知っていたら、それは全身から眩い光を放ちながら街から街へ、ゆったり歩く身長100mの何かだと考えたかもしれない。(ではその後急に小さくなる大人って一体...!という疑問は余裕でガン無視である)

非常にバカバカしい話だが、あのとき俺は本気だったし、そう思っていたのが俺だけではないと信じたい。