面白い話はふざければ誰でも書けるといわれ

小学生のときの確か国語の時間だったと思う。なんかのきっかけで「面白い話と悲しい話では面白い話を考えるほうが難しい」と言ったらクラスの大半からそれは違うと反論された。

「面白い話はふざければ誰でも書けるから」というクラス内で口の達者な女子生徒の意見が反論側で一番支持を集めた理由だったのを覚えている。面白いことは変なことを言ってふざければ誰でもいつでもできる。どうせウンコとかチンコとか言えばいいんでしょう。端的に言えばそういう意見が出て皆がそれにそうだそうだと賛同したのだ。

俺は面白いことを言うのが好きだったし人より面白いと思っていたのでその言われようは衝撃だった。俺もその程度だと思われていた、少年にとってはショックである。

残念ながら俺はそれには反論できなかった。「いや、お前全然面白くないやん」と言えばよかったのだろうが、あまりに堂々と「ウチらもおもしろできるし」と言われた時にそれは出てこず、なにより、確かに言われるとおり悲しい話のほうが何となく面白い話よりも高尚でテクニックも要りそうだし、笑いより悲しみのほうが何となく人の感情の中でもランクが上のようなそんな気がすると、他ならぬ自分の中にもそうした思いがあったのだろう。それを打破する筋の通った反論が出せる筈も無く、そのままその場では孤立無援のまま「面白い<悲しい」が通った。

「面白い=ふざければ誰でも出来る」という意見に負けた経験はトラウマとなり、以降子供ながらに単にふざけて笑いを取る連中に素直に笑えなくなり、子供ながらボクはキミたちとはちがうと、そういう連中とも距離を置きたかったし、お笑い番組ではオーバーアクションでふざける笑い、人が叩かれたり、水に落とされたり、大声で騒いだり、皆が笑うべきとりあえず明るくふざける演出にも冷めた気持ちを抱くようになってしまった。

そこまで引きずりますかという感じだが、ただふざけてれば面白いなんてそんなことはないだろと、10代、20代、何と闘っているのか分からない時代が続き30代で父親になり子供が出来、最近子供はウンコ、チンコと言いリビングでよくチンコを出してふざけている。バカだなあと一緒に笑っている。

「レベルの低い笑いは...」

結局そんな意地を張ったところで何者にもなれなかった人間としては人と同じく同じようなノリで友達を増やしたほうがマシであることも分かっている。でも俺は言いたい。

「リビングでチンコを出すにしても、一工夫して出しなさい、たとえばこのように...」

親の仇を子に取らすつもりはないが、でも俺は言いたい。何でもいいから、そんなの誰にでも出来るなんてことを言われないようになってほしい。