以前紹介した前職で上司であった耳の悪い支店長の話である。
この支店長、耳も悪いが実は競い合うようにカツゼツも相当に悪くインもアウトもろくにプット出来ないというコミュニケーションに大きなハンデを背負いながらも営業で支店長にまで上り詰めた奇跡の男。彼とは何かと忘れらない思い出がある。
前職では毎週月曜日は朝礼があり、その最初には持ち回りで3分ほどのスピーチをすることになっている。この日の当番である支店長がスピーチの冒頭に突然「じゃ、君」と俺を指差し、クイズを出してきた。
「君は”ドエス”って知っているかい」
神聖なビジネスシーンでチミはいきなり何をいうかと一瞬面食らったが相手はカツゼツの悪い支店長である。いやいや待てよと、こちらも慣れたもので脳内で推測し正しい文字列に変換するとそれはどうも「ゴエス」すなわち「5S」のことかと思われた。
5S、皆さんも一度は聞いたことがあるだろう。それは5つのS、つまり整理整頓など礼儀、マナーに関する「さ行」の言葉が5つ並んだ徳の高い標語のようなものである。俺もおぼろげに記憶していたが、どうにも整理、整頓以外が全く思い出せない。格闘ゲームで言うとまだ整理と整頓以外の面はクリアしてないのであとの3つは額にイニシャルの「S」とだけ書かれ黒いベールに包まれたままである。
無理して答えても良かったのだがそれっぽく「せ、正義!」とか「それも大事だけど違います」みたいな事を言ってハズれるとめちゃくちゃ格好が悪いしそれよりも何よりも月曜の朝でもの凄く眠かったのがあって、さっさとこのどうでもよいクイズを終わらせたいがために、ぶっきらぼうに「ちょっと、分からないです」と答えてしまった。これが失敗である。
「ん~?毎朝見ていて知らないとは、これは不思議なことだなあ」
答えられなかったことよりも俺の答える意思の感じられない投げやりな感じが伝わってしまったのか、支店長は若干の不快感を表に出しつつ
「整理」「整頓」「しつけ」「清掃」「清潔」
と書かれたA4大の紙切れを俺につき付け、「これはあそこにいつも貼ってあるんだけどなあ」と事務所の壁をノールックで指差しそう言う。指差したその先には「3ない運動」と違うのが貼られていたのだが、こういうときにはなるべく間違わないで欲しいものである。
無理もなかった、あの当時リーマンショックの後遺症から抜けきれず業績は落ちたまま思うように回復し切れていないかった。そういう会社状況を反映してか、意識を高めるべく気づくとスローガン、標語の類が増えていた時期であったのである。まったく見ていなかったので気づかなかったが「5S」はそんな中で支店長によって新たに貼られたものだったようだ。
その後が大変だった。俺が「5S」をきちんと答えられなかったのがよほどのことだったのか、その後のミーティングは支店長から何度も「5S」の話が出てくる空前の5S特集であった。
ただ、残念ながら支店長のかつぜつはあまりよい方ではなく、その大半は冒頭申し上げましたとおり「ドエス」にしか聞こえず「ドエスの徹底」「ドエスを意識して」「ドエスで乗り切ろう」などと何度も言われ、我々は再び困惑した。ドSにしか聞こえないのである。
「しつけ」「しつけ」「しつけ」「しつけ」「しつけ」
ドSを徹底した場合、事務所の壁にはそんな張り紙が貼られるのだろうか。ドエスの中でも調教モンとはさすが支店長、お目が高いです。終わりの見えないミーティングの中、俺はそんなことを考えていた。
※イラスト:盛岡