部活の沖縄遠征での思い出

bokunonoumiso.hatenablog.com

 

以前この記事で書いたように高校のバスケ部が俺のいた年だけまあまあ強く、下手すれば県大会で優勝も狙えるゾという事でOBから寄付などを募り、3年生メンバーだけで沖縄に遠征に行った事がある。インターハイを2ヶ月後に控える春のことだった。

同じ九州に住んでいたとはいえ俺が沖縄へ行ったのは後にも先にもその時限り。記憶にあるのはこの遠征の思い出だけとはいえ今でも沖縄の風景は時々思い出し、次は旅行で再訪したいと願うばかり。

そんな遠征の中身と言えばとにかくしんどかった。春とは思えない暑さにも苦しんだが、何より沖縄バスケのレベルの高さに驚愕。行く先々で地元の強豪高と対戦してはボコボコにされ、むしろ我がチームは自信を失って帰ったようなものである。沖縄バスケは伝統的に速攻と個人技のアメリカン・スタイルに近い。チーム同士の相性もあるだろうが、今まで同じ県内で対戦した事のないプレイスタイルに戸惑い、県内ベスト4に入った我が校も20点差以上のスコアでことごとく敗れるわけである。

前に書いたように俺は補欠であったから、そんな中にあってもそこまで試合に出ることもなく基本的に心の傷は最小限で済んだのだが、その遠征の中でただの一度だけフルで試合に出ざるを得ない場面があった。

それは沖縄ベスト8クラスのそれなりに強い高校が集まる合同の練習試合に参加したときのこと、予定されていた全ての試合を消化した後、「せっかく遠方から来られたので」という配慮でベンチメンバーにも経験を積んでもらうためにBチーム同士の試合もやりましょう、と言うことになった。

確かにそうである。このバスケ激戦区の雰囲気を肌で感じたい、そして高い金払ってやってきたボクたちも元を取りたい!と願うのが真のバスケ人の心意気である。やりましょう、やりましょうと俺を含む我が高のベンチメンバーで構成されたBチームが急遽決まったこの試合に「ここで魅せればスタメンも見えてくる」という、インターハイ直前のアピールの場として急に闘志を燃やしはじめるのも無理は無いわけである。

いよいよ試合開始となってコートに整列したとき、我が高のベンチメンバー、すなわち普段のスターティングメンバーがスコアボードを見て何やら騒いでいる。そこには「○○高校一年チーム vs ○○高校一年チーム」と、そう書いてあるのである。冒頭に書いたように我々は全員3年生。補欠の3年生なのである。そうやって見てみると相手チームの顔は幼く、確かに高校1年生である。あれは4月であったから入学したての元中学生である。おいおい、勘弁してくれよと、ッタクようと、そういうやつである。

「ほう...ナメられたもんやな」

我々とて一応県内ではイわせている高校のメンバーである。補欠ではあるがベスト16までは補欠で勝ち上がって来れるレベルである。ようし、それならば一丁、高校バスケっちゅうもんを教えてやるか(ポキポキ)、ウェルカム・トゥー・ハイ・スクール(ポキポキ)とばかりに試合に挑んだ結果我々であったが(ちなみにポキポキというのは指を鳴らす音である)、しかしながら我々は皆様のご期待通り相手チームの”一年生”に普通に敗れ、試合終了後には全員沈黙。

そして当然のように我々の頭の中に浮かんだのが

「ボクたちが実は3年生だとバレたら恥ずかしいッ...!!」

という感情である。恥ずかしすぎる。

敗れたとはいえ実は結構な接戦であった。一進一退の好ゲームで最後の最後に試合が決まり、ちょっとした盛り上がりも見せたのであるがそれも「一年チーム vs 一年チーム」と会場の皆さんが思っているからこそである。これがボクらが高校3年生だとバレてごらんなさいよ。

「えーーー!!えッ!!えええええ??ハ、ハイ・スクールのことは、ハイ・スクールのことはですよ、こ、肛門のホクロの位置まで知りつくしたハズのこ、肛門3ね、じゃなくて、こ、高校3年生がァ??サッ、最近入学した元中学生にま、負けちゃったのォ~?!ワイジャパニーズピーポーーー!!!」

と皆々様がそのような道端に落ちたアナルでも見るような視線でもって我々を見てくるのは想像に難くなく、絶対にそれは避けねばと取った作戦が

「よし、1年生のフリをしよう」

という初歩的かつ最も効果的な作戦であった。試合後に駆け足で”センパイ”の元に駆け寄り、「ハイッ!」などとわかり易い返事で会場の皆さんにボクは高校の1年生ですよ、アイハブ・ノー・ガンですよと両手を挙げて1年生をアピール。

その後も高校1年生ぽいキビキビとした表情とムーブで試合後の後片付けを率先して行うなど、極めて高校1年生然としたアクティビティを行うことで世間体、そして自己を保つことに大成功。ただし残念だったのが、その練習試合に来ていたチームとは次の日も別の体育館で再び対面したことから、翌日も俺たちの高校1年生は続くこととなった事である。

最後になるがそんな我が高はこの遠征でポッキリ折られた自信にもめげず、むしろ危機感を抱き、巻き返すためのカンフル剤となったのかその後も近県への遠征を繰り返し、2ヵ月後のインターハイでは県3位になったことは一応お伝えしておきたい。