「電車」と呼ばれた人々

移転する前の築地市場は目の前に朝日新聞、三井商船、そして電通から見下ろされる場所にあり、そこで働く彼らとは、彼らが高層ビルから下界にある物珍しい観光地へ降り、ランチなどしにくるときにだけ時々遭遇するだけであった。

一応同じ会社勤めではありながらかたや汚れた作業着をまとい毎日フォークリフトに乗り倉庫からパレットを引っ張り出してはトラックに荷を詰め込む肉体労働の日々、彼らへのコンプレックスの高まりは1年目の冬、大量に各産地から出荷されてきたあふれんばかりのみかんのダンボールに囲まれ検品しているときにピークとなった。

辞めたいが若い以外に取り柄がない、などという絶望的な会話を12月の午後4時、うず高く積みあがったダンボールの奥で高卒のフォークリフト乗りとみかんの段ボールの中から拝借した一つを食べながら鬱々と話したものである。俺は大卒であり、あの当時24歳、彼よりはまだ未来はあったはずだったが目の前にそびえ立つ大企業の高層ビルに見下ろされながら屋外で汚れながら働くとその落差、現在位置の低さをまざまざと見せつけられ、一気にそこまで、その近くまで駆け上がろうなどという気力もそがれるというもので、思いつくのはせいぜい運よく仕事を変えられれば、30歳になった頃にそれなりに幸せだったらそれで満足しようとその程度の目標であった。

 

その年の冬。みかんの出荷量は例年比120%とかで、毎日押し寄せるみかんの段ボールが組まれたパレットが市場内の荷受所に収まらなかったのを覚えている。みかんの段ボールは築地市場をはみ出し、築地の横を流れる築地川の近くを走る運送業者用の道路にまで達し、時にみかん泥棒に段ボール100ケース丸ごと盗まれるなどしながら、汗水たらして一日中みかん、みかん、みかんとみかんの事ばかり、みかんの置き場所、みかんの売り先、みかんを取りにくるスーパーのトラックの時間だけを考えて生きていた。築地川からは電通ビルがよく見え、見ているはずもない電通社員の視線を気にして築地川での作業は早々に切り上げたものである。

その年はあふれかえるみかんの管理が追いつかず、とうとう会社が派遣社員を雇うことになった。5名の派遣社員に与えられた業務はひたすらに荷崩れした段ボールを積みなおし、出荷数量にあわせて段ボールをパレットの上に乗せ、トラックが来たら積荷を手伝う。工場内の単純作業の類であった。にもかかわらず、集められた5名は示し合わせたように全員華奢でメガネをかけており、そして完全なる偏見でいうところのいわゆる「オタク」と呼ばれる人々の風貌、挙動。殺伐とした築地市場にあって、常に5人で行動をともにし、1つの荷物を2人でヨイショヨイショとやる和気藹々とした光景などを披露し、というかその口調が完全にオタクであったというシンプルな特徴が決定打となって、いつしか周囲からは「電車」と呼ばれるようになっていた。

人に対して電車というのは奇妙に聞こえるが、これはその当時にわかに流行った「電車男」が由来で、それが縮まり「電車」、つまりオタク的なものを指した蔑称にも近いものであった。築地市場の労働者がオタクという概念を簡単に理解するにはわかり易い電車男が手っ取り早かったのか、彼らはこうして電車と呼ばれるに至ったわけである。

電車クンたちに今日はこの荷物運ばせといて、という形で俺のところに指示が入り彼らを集めてその日の作業を説明する。直接コミュニケーションを取るのは俺の仕事、時々仕事の進捗確認と次の指示をする為に集めるとき以外は会話はない。電車と呼ばれた人たちは皆俺より年上で、みたところ全員30代であった。20代の学卒1年目の自分の話をきをつけしてハイと素直に返事、頷きながら聞く彼らに偉そうに説明しながらも俺の視界にはなお高層ビル群が入ってくる。

「どうやったら社員になれるんでしょうね?」

作業中、彼らのうち1人が俺に突然話しかけてきた。何のことか確認すると彼は俺の会社の社員になりたいという。彼らと俺の間にあるのはほんの僅かな違いなのに、俺は努めて厳しく、冷たく突き放すように「なれるわけないでしょう」とだけ言い放ち、それぞれが無言でまた長く単調できついみかんの段ボールを片付ける作業に戻っていった。