不良のおばちゃん

新年早々書くことでもないが子供のころからみんなが妙に懐いている近所の不良のおばちゃんを囲む輪に俺だけ上手く入ることが出来なかった。「不良のおばちゃん」とは俺が子供の頃に感じたまま直球で名付けたもので何故か全員共通点して飲食店を自分一人でやっていた。例えば下校途中に小さなプレハブ小屋で店を出していた焼き鳥屋のおばちゃんとか、近所に時々やってくるライトバンたこ焼き屋のおばちゃん、中学の時に部活帰りに一部の友達が通っていた小汚いお好み焼き屋の店主のおばちゃんなどである。

男子児童、学生相手にも下ネタをカマしてきたり、ワルいことにも寛容というか推奨すらしかねないトガッたおばちゃんをみんなは大人なのにカタいことを言わない「俺たちの理解者」として親しみを持って接していたが、俺だけがそれに馴染むことが出来ず不良のおばちゃんを囲む楽しそうな輪には若干の距離を置いて参加するのが常であった。とはいっても斜に構えていたわけでは決してなく、輪には入りたかったし一応疎外感もあったと思う。

友人連中、少ない小遣いで帰りに割り勘でおばちゃんの店で買い食いしたり1本だけの焼き鳥をセコセコ買ったりなどしておばちゃんの店にタムロしては煙草をフカすおばちゃんとの会話を楽しむのであったが、例えば親や教師への悪態に対する大人のおばちゃんからの「大人は悪い」的な分かりやすい扇動に耳を傾けているのを横目に、俺だけはみんながおばちゃんに感じている魅力が一ミリも分からず、そんな俺の「なんかいやだな」の気持ちが顔に出てしまっていたのかおばちゃん側も完全に俺にだけよそよそしかった。

ボクだけがほかのキッズと違って敏感で早熟でマセておりましたといいたいのではない。むしろその逆で単純にその当時自分が「悪い人と付き合ってはいけない」を従順に守る世間を知らない子供だったことによる警戒心の強さも多分に影響したと思う。大人の範囲が親か教師ぐらいの頃、自分の親と話している姿を想像できない自分基準のメインストリームから外れたインディーズ大人をどう理解していいのか分からず心が開けなかっただけ、理由の8割はそうであったかもしれないがそれ以外に自分の直感として何となくおばちゃん側は子供に理解を示すわけでも心を開いているわけではないという事は一応は感じられたこともあったかもしれない。

子供ウケしそうな、大人らしからぬラディカルでフランクでオープンな言葉の端々の嘘っぽさにこの人は実際にはほとんどの時間を大人の世界で生きていて別に子供の仲間でもなんでもないんじゃないか。いざというとき別に力になってもくれないし親身になって相談してくれないのではと。そんな無責任な人になぜ友人たちが一方的に心を開き惹きつけられるのか、全員の分まで俺が一人でおばちゃんに対して警戒心を示していたのかもしれないと、今はそう思うことにしている。

全然別の次元の話ながら、大人になった今でも何が魅力かは分からないが店主がやたら客全員に愛されていて店と客の一体感が半端ないものの何故か俺だけがどんなに努力しても一切その場に馴染むことのできない悲しい飲み屋の中でいつも思い出す子供の頃の記憶である。