正しい情報しか見たくない

人間は全体の中から都合の良い情報しか見ようとしなかったり出来るだけ都合よく解釈して自分を安心させようとするところがある。

最近聞いてあ、いいなあと感じた言葉に「太古の昔からコメを食ってきた日本人はほかの人種と比べコメを食いすぎても太らない」というものがある。本当かどうかは分からない。でもコメが好きでコメをより多く食いたいと常日頃願っていた俺にはまぶしすぎる言葉であった。ビビっていた俺をあざ笑うかのような神の言葉。信じたい、信じよう。食いすぎると太るという後ろめたさを感じおかわりをためらう俺に「もう考えるな」と手を引き炊飯ジャーまで引っ張って行ってくれた魔法の言葉だったが、不思議なことになぜか腹は出ているのである。信仰が足りないのかもしれない。

昔同じような言葉に勇気づけられたことがある。あれは何かの本で読んだと思うがそこにはこう書いてあった。

「日本人は世界の平均と比べて肉を食べる量が少なすぎる、肉不足とも言えよう」

ウチら肉がたんないよと、そんなに肉を我慢して死にてえのかとも取れるとても素敵な言葉だった。その日の晩に牛角に行ったのは当たり前、同じ週の昼飯にも焼肉屋のランチへ行き世界と比べ圧倒的に不足しているとされる肉を摂りに行ったものである。野菜は正義、必需品、それに対し肉は娯楽、肉は本来不要な贅沢品で肉は悪である。なぜ肉に対してそのような後ろめたさを感じていたのだろう。しかし俺が読んだその本ではむしろ「肉が足りぬ」とお叱りになるわけである。怒られてしまっては仕方がない。俺たちは幾つになっても出来れば怒られたくないわけであるから。

飯の話をするならば、独身の頃は面倒なのでよく無洗米を使っていた。無洗米は楽であるが楽がゆえに値段はちょっとだけ高いし割とランクの低い米にだったり、何より根がトラディショナルな俺なのでお米を研ぐという我々日本人に受け継がれる伝統的所作をすっとばしなんかズルしてサボっているようなそんな明後日の方向を向いた後ろめたさを感じていたものである。

そんな中、ある時見た無洗米には「プロが研いだお米を楽しむ」というめちゃくちゃ刺激的なコピーが書いてあり絶対プロなんかが研いでいるはずはないしそもそもプロってなんなんですかという話なのに「そう、俺はプロの研いだ米が食べたいから無洗米を買っている」と自分に嘘をつき、無洗米に急遽舞い降りたポジティブ面に納得したふりをしそれ以降ずっとプロが研いだ米は美味いと無洗米を買い続けたことがある。

俺はこれからもずっと正しい情報しか見たくない。きっとみんなもそうでしょう。