俺たちの中にあるそれぞれの"仏の道"…

オリンピックの開会式を家族でぼんやり眺めていたときのこと。東北のお盆の映像が流れたときにチラっと映った人の顔を見て子供が「昔の祭りをやっているのに眼鏡をかけている人がいるのが変だ」という反応をしたのを聞いて≪フフフ、その気持ちを大事にしなさい≫と父親は目を閉じコクリと頷き聞いていた。

そう、これはいわゆるお盆のスクーター僧侶現象である。第三者が勝手に〇〇はこうあるべきと決めつけ、こうあってほしいと願う気持ちから勝手に違和感を抱く現象。僧侶にはどんなに遠くても徒歩で移動してほしい、僧侶は目が悪くなっても眼鏡などかけず我慢して裸眼で過ごしてほしい。

「いやあ、だってそれが”仏の道"ってもんでしょうがい?」

知らないくせに勝手にこうであるに違いないと決めつける俺たちの考える仏の道。禁欲、俗世離れを期待してしまうのは世界まる見えテレビ特捜部で見た小乗仏教の僧侶の影響か。あの番組で形成される俺たちの僧侶観。

若いころは日本の仏教より何となくいろいろ厳しそうな、つまり厳しさの最高峰と思っていたチベット仏教ダライ・ラマがなんとあの”眼鏡”をかけて来日してきたときは何かしらんがエッとなってしまったし、更にダライ・ラマがあの”飛行機”に乗って来たのだという追加情報を聞いたときは「エエっ?!”仏の道”的にそれって大丈夫なん?」と勝手に作ったホトケ・ロードからのコースアウトを心配してしまったものである。何となくダライ・ラマは帆船とかで風にのって乗ってやってくるのではと思ったのは遥か昔の社会の授業で習った鑑真の影響かもしれない。

さかのぼれば俺も自分の子供と同じぐらいの頃、祖先の墓参りに行ったとき、僧侶からのお言葉的なやつで出てきた茶菓子がチーズおかきだった時に何かわからんが≪罰当たりなのでは≫という子供なりの大胆かつザックリとした罰当たり判定が出たものである。決して食いたくはないが野草などで出来た饅頭などが出てほしかったからである。

時代は変わり、最近では僧侶もPC、スマホを操りインターネットで発信する時代。

「僧侶なら紙に筆で書いたものを街頭にて配布するもんでしょうがい?」

SNSで見るが、寺の掲示板で競うようにポップソングの歌詞や若者にも身近な名言などを引用した「おもしろお言葉」を掲示してことごとくおバズりになる住職が多いのも、結局人々の中にスクーター僧侶的な感覚があってそのギャップから生まれるおもしろさかもしれず(身近にあるはずなのに存在するその距離を埋めるためにああいった身近な言葉がピックアップされているのかもしれないが)、しかし案の定おバズりになったツイートなどを喜び味を占めてガンガン他人の歌詞などを無断引用する僧侶を見て≪罰当たりなのでは≫と思うのはそれは確実に正しいので皆さんその気持ちは忘れずにどうかそういうバズに魅せられし掲示板芸人などは甘やかさんように厳しい目でみてあげてください。それが俺たちを正しい仏の道(ホトケ・ロード)へ導くものだから…。