エクセルと俺

大半の社会人の皆さまと同じく、仕事ではマイクロソフトのエクセルを使わない日はほとんどなくエクセルなくして仕事は成り立たずエクセルを発明してくれた神様ありがとうとエクセルに日々感謝する俺ですが、根が説明書を全く読まないタイプということもありエクセルの事をきちんと理解しているわけでもなく、エクセルと心が通じ合っているとはいいがたい。

それでもワードと比べたときのエクセルの従順さ、コントロールのしやすさは明らかであり、ワードときたら全く人の言う事を聞かんしちょいちょい反抗的でどうにもいけ好かない。だから俺はエクセルの事が大好きで何でも間でもエクセルで済ませてしまいたいのだが、かつて月報をエクセルで出したら当時の上司に「月報をエクセル出すのは失礼」などと聞いたこともないアサッテの商習慣を引き合いに失礼と断罪されたものであるがこのジジイはメールを自動発信したことも「上司に対してメールを自動発信するのは失礼」とか休日会社関係者で集まったBBQにサンダルで行った時も「プライベートとはいえ上司の前でサンダルで現れるのは失礼」などとにかく様々な角度から失礼を創造する失礼クリエイターなので置いておくとして、とにかく言いたいのは俺はこの上司のジジイとワードの事が大嫌いなのでエクセルで何でもやってしまいたいという事である。

エクセルの好きなところは幾つかあるがやっぱりカラフルなところである。例えばセルを黄色にしてごらんなさい、何かと堅苦しくて華やかさもないオフィスワークが楽しい気持ちになります。ワードではそうはいかんでしょう。せいぜい太字にするか、最近ではようやく文字を赤にするなども出来るようになったとか聞きます。ワードはとても遅れている。そしてセルの色を何色に塗りたいですかという質問をジジイにすると秒で「黄色!」という元気なお返事が返ってくること間違いなしだが、セルに塗りたい色ナンバーワンは黄色。ジジイは黄色が大好き、ジジイもジジイが長くなると黄色い声援を浴びたことがないからかもしんないですね。色占いでは黄色を好む人は天才肌らしいが職場に天才が多いのは実に良いこと。

そんな天才肌の我々ジジイが行うセルの色付け行為でよくみられるのが範囲選択が面倒ゆえに列を無限指定して黄色にする行為である。

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自分の書いた表が分かりづらく目的の数字がどこにあるのか見失う為とりあえず目立たせておきたいそういうモノグサな動機が生んだ愚かな行為である。

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そしてそんな表、仕事中にふと自分が色付けしたセルのイエロー・ベルトがエクセルの地平線のずっと向こう側まで無限に続いていることには「宇宙だな」などふと不安な気持ちになるものである。宇宙の事を考えると自分たちは小さな存在、仕事をしても無駄というラディカルな気持ちになり業務効率が著しく下がるのでやめよう。

不安な気持ちと言えば、先日エクセルで作った表をパワーポイントに埋め込むというジジイの業務難易度でいうとSクラスの特殊ミッションを行ったときのこと、この作業は範囲指定の繊細さや貼り付け時にどのような書式でいくかといった判断力が求められる極めて難しいオペレーションなのだが、先日気合いでパワポに埋め込んだ渾身のエクセルをみていると突然そのセルを黄色に塗りたくなってよせばいいのにパワポ上でセルをダブルかトリプルぐらいクリックして編集してしまったのだが、その時になぜか埋め込まれたエクセルが突然痙攣を起こして10分ぐらいエクセルの震えが止まらなくなり大変驚いたものであった。今まで見たことのないエクセルの姿には百戦錬磨の俺も「大人の男の人を呼ばないと」とてんやわんやであれは非常に驚いたエクセルワンシーン。ともかくパワポにエクセルを埋め込むとファイルサイズが10MBとかになるしクリックのしどころが悪いと痙攣もするしで業務効率が著しく下がるのでやめよう。

基本的には全面的に好きだしビジネスのパートナーとしても関係が良好な俺とエクセルであるが、最後にエクセルの嫌いなところにも言及しておく必要がある。皆さんもご経験があられるかとは思うが手入力で頑張って入れた計算式を間違った時のエクセルのうろたえようというか、騒ぎよう、こちらの詰められ具合はどうでしょうか。俺はあれがめちゃくちゃ気に入らない。入力した計算式がちょっと違うだけでエクセルときたら「お?えええええ?!あ、何事ですぅぅ?何が起きたんですぅ?!えっ、えっとォ(汗)この計算式は???」みたいにめちゃくちゃ騒ぐじゃないですか。繰り返すけどあれが俺は本当に嫌い。嫌なところ見せられた気がして目をつぶるし耳も塞いでしまう。辛い気持ちになって業務効率が著しく下がるし計算式の誤入力はやめよう。

暗闇の中俺たちはただ手探りで

男子高校生においては男女交際のルールやノウハウといったものは殆ど教育、または継承、さらに共有などもされることがなく特に情報を得る手段が年長者の口承、説話以外では書籍、雑誌からしかでしかありえなかった俺の高校時代においては各自が数少ない情報の中から選択したよかれと思う事を自己流で試みるしかないという有様で、それはときに失敗や悲劇の温床と化していた。

今であればネットで調べればこうすべきああすべきと情報はインターネットを介して現れることであろうし、SNSには今日も男子が犯した男女間での失笑モノのミステイクがまるでアマゾンレビューのように利用者の生の声としてシェアされ目についてしまう時代。むしろ情報が多いことで男女交際はこうあるべきというよりこれはやるなの減点方式化が進み現代の若者は身動きが取れないかもしれない。

自分が男子高校生だった時には女性との付き合い方を知るには殆ど雑誌しかなかった。立ち読みしたファッション雑誌の白黒ページには「女の子が好きなファッションはこれだ!」というファッションに絡めた話から派生し「女は男のこういう仕草に弱い!」といった応用テクから「初エッチではこうしろ」というその一歩先のガンダーラまでを見据えた男女交際の様々な教材が俺たちを導き、煽り、時に悩ませたものである。しかし情報の少なさはある意味可能性を無限大にし、またあらゆる事象はその当事者である男女の間に留まり、広められるべき成功談も共有されなければ失敗談もまたクローズドなままであり、したがって各地では珍プレイが度々発生したものである。

俺の友人は「女性は車道側を歩かせてはならない」という神の教えを胸にデートに挑み、本来であれば「女子がキュンとなる気遣い」のはずのものを強く意識するあまり完全に捉え違いし、車道を歩く女子を睨みつけ「車道をあるくんじゃない!」など激しく叱り飛ばしたことで有名だが、彼の中で車道側を歩くのは失礼という形で何かマナーの類に昇華されたかして勘違いがあったことは確かで、このようにあの頃の我々の視野は狭くまた視界は限りなく不明瞭、それは真っ暗な洞窟の中を不安な気持ちで進む探検隊なのであって僅かに漏れ出てくる光や音を自分なりに解釈し前に進むしかなかったのである。

僭越ながらおマセでならしていたボクも高校1年生の時に彼女が出来、その2回目ぐらいのデートで図書館に来館している折、忘れもしない不意に「息スッキリ」と書かれたガムを彼女に渡されときのことである。今思えば先方には特になんら意図はなかったのであろうが関連する文献を読み漁りすぎてすっかり頭でっかちとなっていた俺は、そもそも待ち合わせの時に彼女が履いてきた靴がコンバースの青だったことから地元に伝わる説話「デートに青いアイテムを入れてくる女は内に秘めた性欲を青で抑えようとしている」という極めて不安定かつ無責任なインフォメーションで動揺し、彼女のすべての行動を性に結び付けパニックになっていたところに「息スッキリ」ときたもんだ。

「女性からガムを受け取った男性がそれを噛んだのにキスをしなければ大変な失礼にあたる」

そんなルールがあったかどうかは知らないが何となくそれっぽい事が経典には、説明書には書いてあったような気がしてならなかった。小道具に秘められた女の子の気持ちについてもっとしっかり学習すべきだったと後悔し、異なる文化を持つ異民族を見るような手探りの状態で完全なる深読みをした結果、ガムを貰って以降は急激に口数を減らし汗まみれの手のひらでグッとガムを掴み最後まで食べずに図書館を後にしたのであった。

帰りの自転車にはその日の出来事を思い出して恥ずかしくなり「アー、セックスセックス」と大声で叫ぶ高校生の俺が乗っていた。

正しい情報しか見たくない

人間は全体の中から都合の良い情報しか見ようとしなかったり出来るだけ都合よく解釈して自分を安心させようとするところがある。

最近聞いてあ、いいなあと感じた言葉に「太古の昔からコメを食ってきた日本人はほかの人種と比べコメを食いすぎても太らない」というものがある。本当かどうかは分からない。でもコメが好きでコメをより多く食いたいと常日頃願っていた俺にはまぶしすぎる言葉であった。ビビっていた俺をあざ笑うかのような神の言葉。信じたい、信じよう。食いすぎると太るという後ろめたさを感じおかわりをためらう俺に「もう考えるな」と手を引き炊飯ジャーまで引っ張って行ってくれた魔法の言葉だったが、不思議なことになぜか腹は出ているのである。信仰が足りないのかもしれない。

昔同じような言葉に勇気づけられたことがある。あれは何かの本で読んだと思うがそこにはこう書いてあった。

「日本人は世界の平均と比べて肉を食べる量が少なすぎる、肉不足とも言えよう」

ウチら肉がたんないよと、そんなに肉を我慢して死にてえのかとも取れるとても素敵な言葉だった。その日の晩に牛角に行ったのは当たり前、同じ週の昼飯にも焼肉屋のランチへ行き世界と比べ圧倒的に不足しているとされる肉を摂りに行ったものである。野菜は正義、必需品、それに対し肉は娯楽、肉は本来不要な贅沢品で肉は悪である。なぜ肉に対してそのような後ろめたさを感じていたのだろう。しかし俺が読んだその本ではむしろ「肉が足りぬ」とお叱りになるわけである。怒られてしまっては仕方がない。俺たちは幾つになっても出来れば怒られたくないわけであるから。

飯の話をするならば、独身の頃は面倒なのでよく無洗米を使っていた。無洗米は楽であるが楽がゆえに値段はちょっとだけ高いし割とランクの低い米にだったり、何より根がトラディショナルな俺なのでお米を研ぐという我々日本人に受け継がれる伝統的所作をすっとばしなんかズルしてサボっているようなそんな明後日の方向を向いた後ろめたさを感じていたものである。

そんな中、ある時見た無洗米には「プロが研いだお米を楽しむ」というめちゃくちゃ刺激的なコピーが書いてあり絶対プロなんかが研いでいるはずはないしそもそもプロってなんなんですかという話なのに「そう、俺はプロの研いだ米が食べたいから無洗米を買っている」と自分に嘘をつき、無洗米に急遽舞い降りたポジティブ面に納得したふりをしそれ以降ずっとプロが研いだ米は美味いと無洗米を買い続けたことがある。

俺はこれからもずっと正しい情報しか見たくない。きっとみんなもそうでしょう。

不良のおばちゃん

新年早々書くことでもないが子供のころからみんなが妙に懐いている近所の不良のおばちゃんを囲む輪に俺だけ上手く入ることが出来なかった。「不良のおばちゃん」とは俺が子供の頃に感じたまま直球で名付けたもので何故か全員共通点して飲食店を自分一人でやっていた。例えば下校途中に小さなプレハブ小屋で店を出していた焼き鳥屋のおばちゃんとか、近所に時々やってくるライトバンたこ焼き屋のおばちゃん、中学の時に部活帰りに一部の友達が通っていた小汚いお好み焼き屋の店主のおばちゃんなどである。

男子児童、学生相手にも下ネタをカマしてきたり、ワルいことにも寛容というか推奨すらしかねないトガッたおばちゃんをみんなは大人なのにカタいことを言わない「俺たちの理解者」として親しみを持って接していたが、俺だけがそれに馴染むことが出来ず不良のおばちゃんを囲む楽しそうな輪には若干の距離を置いて参加するのが常であった。とはいっても斜に構えていたわけでは決してなく、輪には入りたかったし一応疎外感もあったと思う。

友人連中、少ない小遣いで帰りに割り勘でおばちゃんの店で買い食いしたり1本だけの焼き鳥をセコセコ買ったりなどしておばちゃんの店にタムロしては煙草をフカすおばちゃんとの会話を楽しむのであったが、例えば親や教師への悪態に対する大人のおばちゃんからの「大人は悪い」的な分かりやすい扇動に耳を傾けているのを横目に、俺だけはみんながおばちゃんに感じている魅力が一ミリも分からず、そんな俺の「なんかいやだな」の気持ちが顔に出てしまっていたのかおばちゃん側も完全に俺にだけよそよそしかった。

ボクだけがほかのキッズと違って敏感で早熟でマセておりましたといいたいのではない。むしろその逆で単純にその当時自分が「悪い人と付き合ってはいけない」を従順に守る世間を知らない子供だったことによる警戒心の強さも多分に影響したと思う。大人の範囲が親か教師ぐらいの頃、自分の親と話している姿を想像できない自分基準のメインストリームから外れたインディーズ大人をどう理解していいのか分からず心が開けなかっただけ、理由の8割はそうであったかもしれないがそれ以外に自分の直感として何となくおばちゃん側は子供に理解を示すわけでも心を開いているわけではないという事は一応は感じられたこともあったかもしれない。

子供ウケしそうな、大人らしからぬラディカルでフランクでオープンな言葉の端々の嘘っぽさにこの人は実際にはほとんどの時間を大人の世界で生きていて別に子供の仲間でもなんでもないんじゃないか。いざというとき別に力になってもくれないし親身になって相談してくれないのではと。そんな無責任な人になぜ友人たちが一方的に心を開き惹きつけられるのか、全員の分まで俺が一人でおばちゃんに対して警戒心を示していたのかもしれないと、今はそう思うことにしている。

全然別の次元の話ながら、大人になった今でも何が魅力かは分からないが店主がやたら客全員に愛されていて店と客の一体感が半端ないものの何故か俺だけがどんなに努力しても一切その場に馴染むことのできない悲しい飲み屋の中でいつも思い出す子供の頃の記憶である。

サンタクロースが居ないと知らされた後のこと

サンタクロースの事を小学5年かそこらの、結構な年齢まで信じていたピュアな子供だったので確か最後は親の方が心配になってヒントをだしたかダイレクトにカミングアウトしたような、そんな感じで急に「いない」ことを知った気がする。4歳下の弟がまだサンタクロースを信じているから言わないようにと釘を刺され、それが人生最後になるのであろうと思われた枕元のプレゼントを開けながら、そこには多少の喪失感があった。

「へえ、まあそうだよな」

先に気づいていた兄にお前もようやく知ったかというような顔をされ、その後は弟のクリスマスを盛り立てる役を与えられることで一気にクリスマスへのアプローチが変わってしまった。とてもあっけない終わりだった。

まだ信じていた頃でも、周りにはそういうことをやらないご家庭の友人もおり、そんな友人の家に遊びに行ったときにはサンタクロースがいると力説すると友人本人ばかりか親からもバカにされたものである。

「お父さんとお母さんが夜中コッソリ置いてるんだよ」

半笑いで、今思うと信じている子供相手にとる態度ではなくロクな大人じゃねえんだけど、そんなはずはないと友達のお父さん相手にムキになって今まで教えられてきたサンタクロースの知識を披露すると、その家がやっていた書道教室の上級生の生徒まで集められ寄ってたかってこの子は真剣にサンタ信じてて面白いねとことごとくバカにされた。

反論は笑われ打ちのめされトボトボと家に帰り母親に言うと一言二言その家の悪口を独り言のように言い、「信じていない家にサンタは来ない」という俺も先ほどあの家で笑われたときに必死に反論として絞り出した文言で説明してくれた。

結論としてはあの家の人たちが正しかった。サンタは親であった。親が近所で買ってきてコッソリ置いていた。騙されていたのかもしれない。

「信じていない家にサンタは来ない…」

確かに信じなくなったら本当に翌年から急に来なくなってしまった。一応何かくれるのかと期待したが翌年から枕元には何もなかった。そうしてサンタクロースはなかったこととして消化し、翌年から何か必要以上にクリスマスに白けた態度をとるようになった俺であったが、それでも今親になり子供の枕元にはサンタさんから来た体でプレゼントを置いている。仕組みは分からないが寝て起きたらプレゼントがある。何年もの間クリスマスの朝が楽しかったのは間違いなかったから。

今年のアメリカはコロナもありクリスマスのプレゼントをオンラインで買う人による12月の物流の大混乱が過去例をみないほどとニュースになった。それも見越してだいぶ前に買ったはずのクリスマスプレゼントの到着予定日は何の嫌がらせか12/26と表示され、そして更に遅れそうな雰囲気が漂っていた。仕事で散々納期の遅延理由をでっちあげてきた俺だがこればかりは説明が出来ない。三密を避けトナカイが1匹にとか、コロナでサンタが…などと夢のない話しか思いつかず、いよいよクリスマスが近づいてきてプレゼントが来ない理由をどういうストーリーで子供に説明しようかと思案していたとき、トラッキングではまだ配送中のはずの荷物がアメリカの郵便局ならではの放り投げるような置き方でクリスマスの前に突然家の玄関前に置かれていた。

こうでも思わないと子供の頃の俺が浮かばれないから思うことにしたが、子供の頃あの家での弾圧にもめげず頑なにサンタクロース信仰を曲げなかった俺へのささやかなご褒美みたいなもんじゃないだろうか。