検尿の時だけなぜか尿の発色がすさまじい

汚い話なので俺のこと全てを愛する人以外は読む必要はないのだが、昔から検尿の時だけションベンの色がやけに発色のよいデカビタCのような鮮やかなイエローでいつも困惑している。「おまえどうしたよ…」と河原でちょっとしたBBQをするというその集合場所に一人だけ雪山登山フル装備級のアウトドアウェアで現れた友人に語り掛けるようにその時はそうつぶやいたほどであるが、実際には俺は河原でBBQをしたこともなくそのような形で待ち合わせ集合する友人もイベント経験もないためあいにくこれは完全に虚言だったとしても、ともかく今言える事実として俺の検尿時のションベンは頼まれてもいないのに通常の2倍は発色のよいイエローであるということである。

検尿容器に入れたから発色よく見えるだとか朝イチだからとかそういう理由もあるのかもしれないが、それは普段のションベンを見る俺にしてみればそういうものでは説明できない明らかに黄色すぎるションベン。昔なら教卓におもむろに置かれた検尿回収箱、今であれば病院の検尿回収係の人に、ぐるぐる巻きのビニール袋の中からそんなまぶしいばかりの尿を取り出し提出するその一瞬、その一瞬だけでも人の目に触れるのが恥ずかしくてたまらない。ではどんなションベンならいいのかと言われるとそんな理想のションベンなどないのだがとにかく大人しくしていてほしい、普通にし、人と同じようにいて欲しいというのが出し主としての願いである。出る尿は打たれるからである。

しかしションベンの気持ちになってみるとどうだろう。検尿は年に一回の外出のようなものかもしれない。「外出」とは自宅トレイかそれ以外かという意味ではなく、便所かそれ以外という意味になるのだが、つまり検尿は己を検査、品評する年に一回の晴れの舞台なのかもしれないということである。そう考えるとションベンがその日だけは輝こうと張り切るのも無理はなく、アニキなんでしたらちょっと糖の一つでも足しときましょうかなどせんでいいことも考えているかもしれないし、あの発色は余所行きの一張羅と捉えると迷惑に感じるのも少しかわいそうな話なのかもしれない。

皆さんはどうだろうか。俺みたいに働きすぎて尿というか頭のほうがおかしくなっていませんでしょうか。

一時帰国、マン太、マン子

散々振り回され続けたビザの更新が様々な手続きを経てようやく出来るようになり、9月からまるまる1か月間日本に一時帰国、先日ようやくアメリカに戻ってくることが出来た。この半年間ずっと感じていたある種の緊張感が解けたためか、或いはただのキツめの時差ボケなのかもしれないが、この数日は自分がいる場所や何日何時を生きているかも曖昧な妙にぼんやりとした日々を過ごしていた。

母国を離れ異国アメリカの家に戻ってきたのにホッとしている自分に若干の戸惑いも感じるが、可能性は極めて低いながらも心のどこかでビザ更新が何かの理由で失敗し日本に戻る可能性を考えていたこともあったので2025年まで延長されたビザの期限を眺めながらまたここでの生活が続くのかと、それは今のところ良いとも悪いとも言えない、あまり深く考えたくないテーマである。

1か月前の日本に出発する前日、ビザの更新手続きに必要な大使館面接が突然キャンセルになったというメールが入った。今度は大丈夫だろうと言われたがこれで3度目である。キャンセルされた事情は様々あるが、元々はコロナで今は大統領選が影響しているとされる。外国人への特定ビザ発給を制限しアメリカの雇用を守るという話である。朝起きるとそのメールは入っており日本は金曜日の夜、日本側の関係者には連絡もつけられず、その困った事実だけを突き付けられて呆然、アメリカの会社から取り合えず日本で再開を待った方が良いから一旦日本へ帰れと言われるまで出発準備の整った荷物の前でワーワー騒ぎながら、俺のストレスはマックスになっていた。

面接再開時期は不明だが俺のビザもすでに切れており、特殊手続きでアメリカに滞在していた俺の期限にも限界がある。「いつ戻ってこれるか分からないから」と、近所に住む大家さんに事情を話しとりあえず家賃3か月分を小切手で渡し、子供の学校はどうなるだろう、ガレージに残した車はバッテリーが上がるなとか色々思いつつ、泥棒入ってくること想定して貴重品は宝探しゲームのように家の色んな所に隠し、帰ってくるときには真冬かもしれないと荷物にコートやジャケットを追加し、長男にはニンテンドースイッチを持参することを許可し、ぬいぐるみが大好きな次男には長くなるから好きなぬいぐるみを2つだけもって来なさいというと昔子供たちにマン太、マン子と名付けられた、マンタのぬいぐるみ2体をそっと手に取ろうとしたのでこんなもんお前、飛行機や電車、日本のあらゆるシーンで「マン子」の名前を連呼されてはたまらんばいと慌てて「スヌーピーにしよう!スヌーピーがいいよ!スヌーピーのTシャツ持ってるもんね!ね!」と、説得しながら俺のストレスはマックスになっていた。次男は自分は最初からスヌーピーミッフィーちゃんを選ぶつもりだったからと不服そうにいい、ああ、そうだったかのかい、悪かったお父さんが何かあらぬ勘違いをしてしまったよ、ほんとうに何か忙しさに心がよどんでいたのかもしれないね、、と自分の中でこれを猛省した次第であった。

しかしそんな慌ただしいやり取りがあった出発前日の事も遥か昔の懐かしい思い出、我々家族がすべての用事を済ませ帰りの飛行機で日本へ向けた12時間のフライトでのこと。機内は9月に乗った日本行き便の貸し切り状態と比べると幾らか乗客も増え、それでも空席率は90%であったが、ああちょっとずつ状況も良くなってきたのかななど思いながらそれを眺めていたものである。家族4人、映画を見たりゲームをしたり思い思いに過ごす機内、子供と一緒にディズニー映画「ファインディング・ドリー」を観ていると、突然画面上にエイのキャラが出てくるではありませんか!油断している家族のもとにアノ危険な魚が泳いできたのである。危ないゾっ!

次男はそれを見て明らかに「あッ!」と反応、俺はそれを確認したその刹那、家で留守番しているマン太、マン子のことを急に思い出しマン太はともかく、周りにCAさんや日本人乗客もわずかばかりいるこの機内でマン子の連呼を始められてはたまらないと咄嗟に緊急名づけをし子供のヘッドフォンを外してまで「これはエイくんだからねッ!ネッ、エイくーん!エイくん!エイくん頑張れー!」と声を荒げてしまい子供にうるさいよと怪訝そうな顔で見られてしまった。本当に俺の心はよどんでいるのかもしれない。

子供たちよ、アメリカでは幾らでもマン子の名前を連呼するといい。また一緒にこの国で暮らしていこう。

 

bokunonoumiso.hatenablog.com

コロナにより全世界の男性の髪型がガタガタになる中、俺は

男性はどうしても月に一回、少なくとも二か月に一回は髪を切らないといけない。髪の生え方、男性によしとされる髪型や社会的なルールによるものである。あまりクローズアップされていない気がするがコロナで男性を直撃したのは髪を切りに行けないという深刻な問題。アメリカにおいてもコロナでの外出自粛や理容店の休業などもあり3月以降、普段は短髪が多く常に短く整えている人も多いアメリカ人でも段々と髪が伸びていく人は増え、3か月も過ぎたころには奥さんに切ってもらったりセルフカットに挑むもの、坊主にするものなどが増えてきて、若干ガタガタの髪をした人が周囲には一時的に増えたものの、6月からは理容店が営業再開、現在は普段のアメリカ人の頭髪が戻ってきたというのが今の状況である。

セルフカットや妻カットが拙かろうと、アメリカ人はまだいいのである。黒人男性は元からセルフカットが多く何ら問題はなさそう、白人男性とて彼らの髪は柔らかく、また肌の色とのコントラストが小さく若干バランスが悪かろうと何となく頭上に馴染み、ガタガタなりに数日もすれば整ってしまう。問題は我々アジア人である。アジア人の髪は硬く黒く、肌の色と明暗クッキリ、きちんと切らないと失敗があからさまに頭髪に出てしまう悲しい人々なのであるから。コロナ以降、初めての妻カット、セルフカットに挑戦し失敗した日本人を何人か見てきた。これは仕方がないことで、日本人男性の髪は難しい。プロであるアメリカの理容店でもアジア人の髪は上手く切れない人ばかりである。地元のアメリカ人理容店に挑戦し無残に頭髪だけマイクラになって帰還してきた人を俺も見てきたものである。

我が社にも日本人が何人かおり、彼らが5月ごろになり耐えきれず初の妻カットに挑戦し突然失敗田植えアートのようになってきたのを見た。それぞれ頭がこうなった経緯を必死に、恥ずかしそうに説明していたが、そこで聞いていた全員が頭がガタガタだったので、うんうんと我が事のように皆厳粛な面持ちで頷き、この辛い時期を頑張って乗り越えよう、コロナ許すまじと、まるでコロナは頭髪がガタガタになる病気であるかのような低いトーンで改めてこの恐ろしいウイルスとの闘いに頭ガタガタのまま燃えていたアツい光景であった。

俺はというと2年前に日本人の髪に慣れているはずのアジア人経営の理容院でまさかの、裏切りの角刈りにされて以降、当時は口ひげを生やしていたこともありフレディマーキュリーさんなどと親族にバカにされたこともあり心に深い傷を負うなどしてその後はもともと子供の髪を切っていた妻に俺も頼むと頭髪を委ね今に至る次第。妻カットでいうと大ベテランである。

3人の男子を切り続けた妻の腕前は素晴らしく今ではお任せで切って頂くほどなのだが、弱点としては完全に息子2名と全く同じ坊ちゃん刈りなので割と奥様方が集う場に俺が行くと「あら、お子さんと髪型が同じなんですね、かわいい」などと結構その場にいられないご指摘を受けるなどしたり、同じ髪型の息子にまで「お父さんの髪型ウナギみたい」とめちゃくちゃ聞いたことのないカッケェ表現でディスを受けては「お父さんがウナギならお前はウナギの稚魚のレプトケファルスだね」などとアカデミックに返しつつも俺の心の中ではかつて中学生の頃にビートルズみたいにしてくださいと近所の床屋に頼んだら髪が亀頭みたいになり「タートルズやないか~い」とセルフツッコミをしながら自転車で菜の花畑をHelp!と泣きながら帰宅した苦い記憶などがよみがえると徐々に俺の背後にWe will rock youが流れるのを感じながらも、それでも、それでも、、髪がガタガタよりは遥かにマシだと、マーキュリー・オブ・フレディよりはレノン・マッカートニーの亜種の方がイイと拳を握りしめ、この辛い時期を頑張って乗り越えよう、コロナ許すまじと、まるでコロナは頭髪が亀頭になる病気であるかのような低いトーンで改めてこの恐ろしいウイルスとの闘いに燃えている次第である。

思えば学生時代の就職活動はひどいもので

結局その年は留年してしまったので結果的には意味がなかったし、むしろ下手に就職していたら面倒なことになってしたかもしれないのだが、大学4年時の就職活動は今思い返すと大変ひどいものであった。

そもそも就職活動のことを微塵も理解していないばかりか、親が公務員だったから!というと人のせいにしすぎだが、会社で働くとか利潤を追求するという競争社会の原理、資本主義、ネクタイの結び方などの一切について全く興味もなく理解も出来なかったようで、会社というものをアニメや漫画に出てくる一般的なイメージ、サザエさん美味しんぼなどによりぼんやりとした概念で理解していたが、そこに自分の身を置いてみるということは到底できず、結果として就職活動は何の準備もされず自己流の、成り行き任せのアルバイト面接に限りなく近いノリで取り組んでいたように思う。だからすごく、ひどかった。

学生時代に何をしたか。アルバイトを通じて学んだことは俺は友達でもない人と接するのが嫌いだなあということぐらいで、仕事中に酒を飲んだり店長の目薬に酒を入れたりなどおよそ学生時代の経験として人に話せるものは何もなかった。授業を受け、バイトをし、酒を飲んでインターネットをしていた。CDを沢山持っていたという自然な理由で自己PRに「CDを沢山持っています」と書いたこともあったし、Aamazonでレビューを書きまくっていたので「アマゾンのトップレビュアー1000です」など、企業の皆様には何ら関係のない上別にすごくないことを臆面もなく書き連ねていたものである。

その様なずさんな書類でも審査を通過し面接に呼ばれれば大学入学式の時に買ったスーツをまとい、やべえカバンがないぞと面接当日コンビニで黒い布製のトートバッグを買って面接に行ったのも今思うとあの当時そのような話題を共有する友達が大学に居なかったことにほかならず、いかに手探りで孤独のうちに自己流の就職活動をしていたかということがうかがい知れる。

面接に呼ばれることも多々あったが、あの書類が通過するということは一次面接は書類もほとんど見なかったのかもしれない。あるとき控室から面接部屋に呼ばれ廊下を歩いていく途中、歩くたびにシャンシャン、シャンシャンと祭事に出てくる神聖な馬であるかのように俺の体からシャンシャンと鈴の音がすることに気づきポケットに手を入れると鈴付きの家の鍵を発見、とっさの機転で面接部屋の入口ドア横にあった観葉植物の鉢植えに入出直前にそっと鍵を隠して面接室へ。我ながら好判断!と思うと声も弾み「失礼します!」と中へ入るも、面接中は鍵のことが気になったというか、機転を利かせて鍵を隠した自分に半ば満足してしまった俺は何だこの会社は、早く終わらんかなと何をしに来たのか分からない状態で面接を終わらせると鍵を無事回収、再びシャンシャンと神聖な馬のような厳粛な足取りで帰宅したものであった。

俺の就職活動は終始そんな具合、その後も就職活動のことが全く分からず、落ちるべくして落ちた様々な企業。どこを受けたか名前も覚えておらずその後留年し唯一決まったのが築地市場の青果部門だったのも頷ける。度々書いている通り築地市場の仕事はそれなりに過酷なものだったが「ちゃんとやらないとつらい目にあう」という世の中の当たり前を失敗を通じて学ぶしかない俺には痛い目に遭いながら正しさを追求して転職活動を繰り返すのが合っていたということで、人が自分の将来のことを考える、いわゆるちゃんとするまでの時間や必要な経験には当然個人差があり、俺は就活の失敗と転職二回が必要だったと思うことにしている。

何の縁か今駐在員としてアメリカの会社に出向し働いているが、これは俺の大学卒業後数年を想うと全く想像も出来なかった状況、それだけを考えれば大学4年時の就職活動が俺の人生に及ぼした影響は一切なくて、就職活動や新卒として入った会社で人生はそんなに決まらないと思う。ここに書かれているのはひと時代前のダメな学生の姿ですから、ちゃんとした大学生活を過ごしきちんとした人生設計をした方が方が本人や社会にとっても有益なのは疑いようのない事実だけど、そうできない人もいるし、その人の参考になると嬉しく思う。

お盆、伝説の離島ギグ

母方の祖父母は市内の端の方にある港から船で10分ほどの島に住んでいた。玄界灘に浮かぶ人口500人程度の小さな島。盆正月に帰省すれば必ず船に乗り祖父母に会いに行ったものだがアメリカに来てからそれも随分ご無沙汰になってしまった。

祖父は健在、祖母はアメリカに居る間に亡くなってしまった。アメリカに行くときにこういうことも何となく覚悟をしていたので出発前に祖父母に会った時には自分なりに仮のお別れをしたつもりだったが、昨年帰省した際に仏壇に手を合わせたときに何となくホッとしたのを思い出す。

祖父母の住む島へ行く定期船は大きくはなく、この船が高波で揺れるのが子供のころから苦手で、明らかに海が荒れているときはこれから自分のみに起こる10分間の恐怖体験を想像しては憂うつになったものだった。そして思い出すのが船内放送。観光島でもなければ、遠い船旅でもない島民かその関係者しか乗らない小さな定期船なのに、録音された船内アナウンスはご丁寧に日本語のあとに英語で繰り返される。

「レディスエン、ジェンテルマン…」

地元の女性だろうか、プロではなさそう。棒読みで片言、船内の誰も聴いていやしないのに妙に緊張しているのがほほえましい。

「センキュ…」

日本語と英語のアナウンスがようやく終わる頃、船は10分程度の短い航路の半分以上を過ぎており、「間もなく出発します」という旨のアナウンスが終わって30秒後ぐらいにはもう「間もなく到着します」というアナウンスが始まる。実に忙しない。

今は日英二ヶ国語だからいいが、ここに中国語か韓国語が入ってきたら10分では終わりきれないだろう。アナウンスを全うするためにわざわざ島を一周するつもりだろうか。望むところですが。船が港に着くと、別に頼まれたわけでも無いのに船に乗っていた島の若者が勝手に船を岸壁につなぐロープを巻き始める。島の伝統なのだ。船着場では、用も無いのにたむろする不良じいさんが船をぼんやりと迎える。停めてある車にはどれもナンバープレートが無い。

当時社会人になってすぐの頃だっただろうか、いつの盆休みか忘れたが弟と二人で祖父母の家を訪ねていったとき、先ほどまで居たらしい伯父家族は帰ったばかりで、築100年、元保育園だったという広い木造住宅にいたのは祖父母二人だけであった。いつもは大勢の親戚か、少なくとも家族でやってくる祖父母の家にその日は弟と二人だけである。

半年振りに会った二人は前回正月に会ったときより元気に見えた。あの当時、話す機会があると結婚の話になったもので会って1時間、積もる話もそっちのけ、ひたすら「早く結婚しろ」といわれ続けた。この手の話は面倒なので何とか話題を変えようとして、ふと目に入った謎の機械に話題を向けた。「あれは何か」と聞くと、それは先ほど帰ったばかりの伯父からプレゼントされたというカラオケマシーン。娯楽の無い島生活だから二人で歌でも、ということだったようだが、よりによってこのカラオケマシーンにふれたのがまちがいだった。話題を変えることには成功したものの、今度は「お前の歌を聴かせてくれ」とのことである。時間は昼の2時ぐらいだったか、酒も飲まず弟と祖父母を前にしてこの小さな島でカラオケを歌えというのである。

「900曲もはいっとるけん、何でもあるよ」

900曲。薄っぺらい歌本には、ところどころばあちゃんが「歌えます」という目印につけた梅干のような赤丸がつけられている。倖田來未のところにこっそり赤丸つけて騙してやろうかと思ったが、俺はばあちゃんが好きなのでそういうひどいことはやめた。ざっと見て分かったが、900曲中700曲程度は中高年向けの曲だ。となると残りの200曲から探さねばならないのだが、あらゆる世代の曲を無理やり900曲にまとめた歌本なので、入っているのは本当に売れたようなヒット曲だけである。

売れてる曲には背を向ける反逆の田舎者、残念ながらそこまでJ-Popに詳しくない俺はというとこういう最近のヒット曲集だと余計に分からない。サビぐらいは分かる歌はいくつかあるのだが、サビだけではカラオケにならないのがつらいところ。

「早く聞かせて」という二人の声にページをめくるスピードは上がるのだが、一向に俺の歌える歌が出てこない。もうあきらめて何となくサビ以外はハミングで歌えそうな「ズンドコ節」にでもしようかと心が揺らいだその瞬間、目の前に救世主が現れた。全く知らない歌手の山の中で、ようやく目の前に現れた見慣れたアーティスト。その名も誉れな「John Lennon」。かれこれ小六から付き合っている、俺の友達だ。

探しても見つからないはずである。洋楽は全て「海外民謡」のところに収められているのだ。即決だ。歌は「イマジン」、名曲である。だがこの海外辺境の地で突然日本人にあったかのような安堵感、高揚感により、カラオケで歌う「イマジン」がどれほどの危険をはらんでいるかを、その時の俺はすっかり忘れてしまっていた。

イントロが始まると祖父母は「誰の歌かね」と尋ねてきたが、すでに余裕の無い俺がシカトすると「ぱらぱらぱら」と拍手をしてくれた。昼の12時、玄界灘に浮かぶ小島にて、24歳が祖父母の前で歌うイマジン・・・・ 

「イマ~ズン…」

自分の中途半端な英語の発音を聴きながら、さっき馬鹿にしていた船内放送を思い出していた。この島には片言の英語が良く似合う。

俺のイマジンをかき消すように、タイミングよく外では老人の耳にチューニングされた爆音の島内放送が流れ出す。その中で俺は祖父母、そして初めて歌を披露する実の弟の前で一体どういう声で、どのようなノリでこのイマジンを歌っていいのかわからず、それが迷いとなり、恥じらいになり声が全く定まらなかった。このいまいち波に乗れないイライラ感を何とか打開しようと、場当たり的に「ユウメイセイッ!(あなたがたは言うかもしれないっ!)」と突然シャウトするように強めに歌ってみたが、すぐにそれが失敗だと悟ると、何事も無かったかのようにまた元のつぶやくような歌い方に戻した。
それはまるで詩の朗読のようだった。もしくはベテラン歌手が自分のヒット曲をやりたい放題アレンジするかのように、終始イマジンは落ち着かなかった。

弟には「伝説の離島ギグだ!」と大好評だったが、祖父母には「どういう歌ね?」と聞かれ「いや、『想像してごらん』という風な。」と答えるのが精一杯。「ふうん…そう」とすこぶる反応が悪かった。確かに、何を想像すればいいんでしょうね。

その日はたまたま終戦記念日だった。帰りの船で海を眺めながら今日のことを思い出すと、なんだか平和のために活動した気分だった。メッセージは言葉として通じなくてもいい。そこに心があれば。例え片言でも。

「レディスエン、ジェンテルマン…」

故郷では色々あったけど、とにかく故郷は最高なのである。今アメリカから思うのはだたそれだけである。

「センキュ…」