ご示唆いただきありがとうございます

人はビジネスメールでたまに、本当にごくたまに「ご示唆いただきありがとうございます」という返事が来ることがあるという。俺の社会人生活でわずかに1回、このお返事を頂いたことがある。示唆、つまり直接的ではなくともそれとなく伝え本人に分からせる行為である。

最初は聞きなれない返事に物珍しさだけを感じて「そんなお礼の文言もあるのだな」程度でスルーしかけたが、よくよく考えたときに「ご示唆」という言葉の持つ妙なムズ痒さ、示唆という行為自体のこっ恥ずかしさに軽く身悶えたりしたものである。

「示唆」と聞くとどういうものを想像するだろうか。すべてを知っているけれども答えははっきり言わない、回りくどい言い方で物事を伝える面倒くさい輩である。

ハットを被り、マントに身を包んだ謎の紳士。柱の影からそれとなくヒントを与えて去っていく物語の黒幕。または主人公に訪れる試練をそっと見守りころあいを見て「西へ行け...」など示唆して去っていくおっさんのことである。

「~されたほうがいいかもしれません」

そいう曖昧なアドバイスをした俺が悪かったのかもしれないが、それがしたつもりもない示唆をしたと断定されあの時はとても恥ずかしい思いをした。甘すぎる示唆判定。

逆に自分が上司や取引先にいきなり示唆されたらどういう気持ちになるだろうか。

「西へ行き、ノのつく書類にナのつくアレをされたほうがいいかもしれません」

よく分からないが西濃運輸のセンター止め荷物をとりに納品書に捺印したらいいのだろうかと一応考えてはみるが「ご示唆サンクス」と感謝はする気には到底ならない。お前のなぞなぞに付き合っている暇はなく普通にいえやという気持ちしか沸いてこない。

しかしご示唆いただきありがとうございます、という表現は決してレアではなく割とビジネスシーンでは登場するお礼のようである。実際問題、質問に質問で返すジジイや、なぞなぞ形式で答えにたどり着かせようとする輩は多い。あれも示唆だったのだろうか。

「ご示唆いただきありがとうございます。」

その一言で質問になぞなぞで返してくるジジイとの会話を「はいはいシャスシャス」と終わらせられる便利ツールなのかもしれないと思ったときに、俺もそういう意味で使われたのかなと過去の自分を省みるのであった。

昔はCD1枚買うのにめちゃくちゃ時間とお金が掛かっていたものですね

定額の音楽配信サービス、いわゆるサブスクリプションで音楽を聴くようになり一年以上経つが聴く音楽の幅が劇的に広がるかと思ったが実際にはそうでもなく、気にはなっていたがリリース当時金もなく買えなかったものをサブスクにモノを言わせて一気に大人聴きしてみたり、元々ベストアルバムをサラっと聴いた程度のアーティストをもう少ししっかり聴いてみるかといった確認作業のような状態で、ほぼ自分の興味の範疇の範囲内、従来の音楽知識から大きく逸脱することもなくほぼ元々の趣味の延長線上でやや厚みが増しただけというのが実際のところ。

人間、いくら自由に使える技術や情報の選択肢が増えたとて、それを活用するにはそれに足る素養が備わっていないと難しいのだなと思った次第である。情報が自由に選び放題になったとしても、人は等しくその恩恵にあやかられ、人を等しく高めてくれるものではなく、元々高い人をさらに高くさせるのなのかもしれない。

学生のころは金がなかったが毎月CD代に5、6,000円使っていたように思う。もちろん中古、それでもアルバムにして3、4枚。Spotifyなら1,000円以下で聞き放題であることを思うと何という情報の格差。サブスクリプション様に好きに選びなさいと選択肢を与えられたとしても、今でも1枚も売らずに(もはや買ってもくれないと思うが)家においてあるそれらCDの山の中で醸成された凝り固まった音楽趣味からは大きく逸脱することも出来ずにいるのが今の俺。今では聴かれることもなくなったCDたちからの呪いのようである。

 

CDの時代はよかった!1枚1枚、自分の所有物としてお金を払うからジックリ聴きこめて、作品と向きあえる!といいたいところだが、正直CDを買うのは大変だった。まず高いです。高いですね。1枚1枚、お金を払いすぎで中古でもジックリ1,000円~1,500円、国内盤でたまに1枚3,000円とかあって叙々苑ランチかと思いましたが、こうなるといやでも作品に向き合うしかなく、たとえ失敗してもそれを選んだ自分を否定されたくなくて何かしら良いところを探すしかなく!なのでCDは親に言われていやいや結婚したが結局子供はジックリ3人つくるみたいな昔の山村の結婚とほとんど同じである。

CDが購入前に視聴出来るようになったのはCDの時代の中では本当に晩年の出来事といってもよく、それもタワレコHMVといった大手販売チェーンにほぼ限定されるサービス。特に洋楽や昔の音楽を好んで聴こうとする人々はしばしば中身も素性も分からない1枚のCDになかばギャンブルのようなヤケクソの勢いで2、3,000円をつぎ込んでいたのであるが、結果内容がクソであった場合でもそれを認めるわけにはいかんものですから歌っている側もビックリの100回ぐらい聴いて挙句「この曲にも”いいところ”があるな」など、対人関係にも積極的に活用したい他人のいいところ探しにまい進するわけである。

そもそも、普通の人は音楽雑誌のレビューを見るし、古いものがほしければ名盤を紹介するガイドブックを買っただろう。もっといえば普通、テレビとかラジオで聴いて良かったなと思って購入すると思うのだけど、そういう情報も動機もなく男が手淫をするがごとく手癖でCDを買ってしまう輩が中にはいて俺もそれなのだけど、そういう輩はというと自分のなけなしの感性に従い、なけなしの1,500円を握り締め、時には”ジャケ”を眺め、”帯”を読み込み、目をばクワッと見開いて「これください」とレジにいき、家に帰っては「この曲にも”いいところ”があるな」と言って泣くのである。

しかしそうした苦い経験も時が経てば徐々に精度は高まるのも事実で、友達がいなかったため本来は交友関係に使われるはずだったエネルギーをCD購入に投入していた狂った俺は、本来は交友関係に使われてしかるべき時間をCDショップ滞在に投入し、毎日CDについた帯に書かれた文言の読み込みに充てた結果、帯に書かれているわずか数行、50文字にも満たない簡易的な紹介文から内容を推察するところまで精神を研ぎ澄ますことに成功した。

いやあ、小生もかつては散々騙されたものである。

「初期の佳作!」「次の高みへの可能性を感じさせる意欲作!」「逆回転テープを多用した実験的な作品!」

これらはダメCDあるある文言の最たるもの。恥ずかしながら村のみんなとは違ったカルチャーに憧れの強い田舎モノなのでとにかく「実験サウンド」とか「逆回転テープ」という”トガった”文言にめっぽう弱く、その挙句購入したCDが「ぼえ~、ぼえぼえぼえ~」みたいな消費者をバカにしているようなボエ音でよ、それでも当然100回ぐらい”いいところ”を探しましたが、結局「バカにしてんじゃねえよ!!!!!」とわかってようやく目が覚めた次第。

まあしかし結局研ぎ澄ましたのは精神だけだったのでその後も手を変え品を変え現れる「中期の問題作!」「その後の方向性を決定付けた意欲作!」「アート・ロックの金字塔!」みたいな文言に引き続き翻弄され続けた俺なのであった。

100mという距離がいまだによく分からない

アメリカに2年以上いるがいまだに今何月かを英語ですぐに答えることができない。たとえばエイプリルフールだから4月、メーデーは5月だったな、ジューンブライドは6月のことだったな、んでジューンの次がジュ繋がりでジュライだったな、などと何か分かりやすいものを思い出し、それを基点に順番に思い出していくしか手立てがない。

曜日も同じである。毎回あのサンデマンデチューズデーの歌を脳内で口ずさまないとマンデーすら出てこない有様。しかしこの歌とて後半の展開が今でも曖昧でサーズデイとサタデーの区別がいまいち微妙なものだから、結局サタデーナイトフィーバーのサタデーだなぁとやはり何か分かりやすいもので連想させないと怪しい始末。ひどい有様。

もっとも、月や曜日は実際のところ日常生活や仕事上ではさほど困るケースは少なく実際差し迫った問題としては数字に関することである。特に桁、なかでもハンドレッドとサウザンドはどうしても即座に出てこない。どちらにも強そうな語感があり両者優劣つけ難い感じがするのが原因であろう。

そうすると、サウザンドが何であったかを思い出すときには、聖闘士星矢に出てくる、実力が拮抗したもの同士が戦ったときに互いに一歩も動けず長く膠着状態が続くとされる「ワンサウザンドウォーズ(千日戦争)」を毎回頭の中に浮かび上がらせないとそれが「千」であることが連想されない。仕事中に毎回ワンサウザンドウォーズのコマを思い浮かべるのは結構辛い。

このように日常に溢れているにもかかわらず英語による基本的な時間や単位表現の理解をおろそかにしているのはひとえに俺の教養のなさと努力不足によるものといえるが、恐らくそれらはその気になればいつかは知識として覚えられるかもしれないという根拠のない自信があるため放置されているとも言える。

よく身の回りに登場する割には全く覚えられないものとして距離の認識というものがある。例えばカーナビに100m先を右ですといわれ、更にご丁寧に曲がるポイントを指し示されたとしても直前までどこで曲がっていいのかいつも自信がない。100mという距離が頻出の割にはいまいちどの程度の長さなのか分からない理由はその長さをあまり体験したことがないからかもしれない。

例えば50m先と言われると瞬間的に小中学校で散々走らされた50m送を思い出し、頭の中で少年に戻った俺は瞬間的に50m走を始めることで、何となく50mを理解するし、25mと言われればプールで泳ぐときのあの長さを思い出すだろう。俺の場合、100mを走ったのは高校の一、二年のときぐらいで、あの当時はもはや短距離走が人より早いとかどうでもよくなっていたのかほとんど印象に残っていない。小学校から何度も経験してきた25mプールや真面目に頑張っていた50m走と比べると記憶に残りづらいのかもしれない。

子供のころは50m走を真剣に走る意味など全く理解できなかったが大人になった今まさか子供の頃の50m走で距離を認識するなど思ってもみず。サンデマンデチューズデーの歌しかり、聖闘士星矢しかり、その中身はともかくモノは知らないでおくより知っておくほうが良いのかもしれない。それらが別の知らない何かを不恰好ながら頑張って補ってくれることだってあるから。100m走はもっと真剣に走ればよかったと今では思う。

何者かに自転車を鬼ハンにされた中尾くん

「うわああ、俺のチャリが...」

オラッ、オラァッ...なる小声の雄たけびとともに発揮される隣の自転車への攻撃性。

家までの帰り道、鬼ハンをを直すことなくそのままで帰った中尾君は正直まんざらでもない表情だったので心の中にコッチの世界への憧れめいたものがあったのかもしれない。

疑問形の屁との対話

最近屁が大体疑問形として出てくることが増えてきた。疑問形、つまり通常の屁を「ブッ」だとすれば疑問形は「ブー?」というもの。語尾が上がる。その判定は至極シンプルである。

放屁するたびに屁が俺に尋ねてくるように思えてきた。大丈夫か、ちゃんとやってんのか、つらくないか。わずらわしさを感じるときも、また屁に悩みを打ち明けたくなる朝もある。疑問形の屁との対話。

時を同じくして7歳の息子の語尾も上がるようになってきた。息子としてはそんなものと時を同じくしとうないと思うが、確かに息子の語尾が妙に上がるようになってきた。どうやら英語の上達と共に日本語もそれにつられて英語のアクセントが混ざって来たのではないかと思う。

俺の屁もそうなのだろうか。俺の英語はまだまだであるが、下の口は正直といいますしこれは俺の英会話上達のひとつの兆しなのかもしれない。

疑問形の屁がお前頭は大丈夫かと尋ねてくる。俺はもうダメだが息子にはいい人生を歩んでもらいたい。