有楽町で眼鏡を買う

去年の夏出張で日本に帰った時にたまたま予算内でとれたビジネスホテルが銀座と有楽町の間ぐらいのやけに栄えた場所だったものだから、周囲にあるものを調べて事前に買い物リストを作って行ったものであるが、そのリストの中にあったものの一つが眼鏡である。

アメリカで眼鏡を買うのは大変です。米国眼鏡シーンに疎い中で一度トライするも眼鏡屋さんに電話口でよく分からないことを言われ心が折れて以降、日本に帰ったら絶対に眼鏡を買うぞと心に決めていた俺は、眼鏡チェーンのJinsが有楽町のマルイの中にあることを知るや、限られた日本滞在のその着いた初日に安く早く眼鏡が作れるこのJinsには必ず行くぞと誓って、13時間のフライトを経てホテルに大荷物を持って歩いてチェックインしたその夕方に時差ボケのまま、寝ないぞ、頑張るぞとヨレヨレのアディダスとだけ書かれたTシャツにピタピタの短パン、そこに合わすはサンダルという完全に近くのコンビニにでも行くような恰好で「めがねめがね…」と外に出たのであった。

完全に忘れていたのだがその日は日曜日、しかも有楽町というと日本でも有数のよそ行きの人がやってくる場所の一つなのである。その街を歩いていた人々は完全に武装した状態で俺のような部屋着の者など一人としておらず、見わたすと有楽町にいる全員がものの見事にちゃんとした格好、そのシーズンで正とされている流行などを抑えたハズレのない恰好をしている中、俺だけがですね、Tシャツに短パン、サンダルときたもんだ。しばらく日本に帰らぬうちに日本の若者全員の服が妙にデカくなっていく中、俺だけがジャストサイズのシャツと短パンをまとっているときたもんだよ。何がアディダス!だってんだ。

しかもその恰好で入っていくのが更によそ行き濃度の濃いマルイ有楽町店。被害妄想かもしれないが、「めがねめがね…」と俺がマルイのガラスの扉を押し開けて入って来るやぬるい視線を浴びせられたような気がしてたまんない。早く眼鏡を買ってこんな街から逃げ出さないと目が泳いで乱視が更に進んじゃうというものである。

さて、マルイ有楽町店の3階か4階かへエスカレーターで上る間も、この隠しきれぬ場違い感から盗撮魔かなにかと思われぬようとにかく手は横に、きをつけの姿勢で視線は前に、そんな直立不動の姿勢から一つの無駄もない動きで眼鏡チェーンのJinsに来てみて気づいたがたかが眼鏡を買うごときで客の全員がまた妙に洒落ているのである。また言うけどとにかく全員の服がデカい。ピタピタの服は俺だけである。服にアディダス!!と、何か文字が書いてあるのも俺だけである。

一度自信を失うと挙動不審になってしまう性質なので、店員に話しかけるのが片言になり、「めがね、買いたい」と眼鏡屋側にしては基本にして至極当たり前のリクエストからスタートするところから徐々に先方も俺の事を外国人か何かだと思い始め、「日本の電話番号、ない」と伝えたところから日本の店員の宝というべき丁寧な接客はナリをひそめ、俺に対応したシソンヌのじろうによく似たJinsの店員ときたらほぼ無言で接客するようになってしまった。

眼鏡をなんとかオーダーし45分後に来るよう言われたもののこの俺がこの建物で、この街でゆっくり落ち着いて待てる場所などありはせず、どこにも行かずJinsの前でずっと立ち、アディダス!!!とばかりに、眼鏡が出来るのをきをつけの姿勢でただ待っていた。

プレッシャーを与えてしまっていたら申し訳なかったが、俺の眼鏡は30分ほどで完成した。眼鏡を受け取ると有楽町の雑踏をよけながら、駆け足でホテルへ戻っていった。

ケンタッキー・フライドチキン1号店への旅

ケンタッキー・フライドチキンがケンタッキー州の創業した当時の場所にまだ1号店を構えている、そんな当たり前なようで驚きの話を聞いたので行ってみる事にした。住んでいるデトロイトから車で6時間半。微妙な距離であるが、今しか行けるチャンスがない、行くしかない。

 

ケンタッキーといえば思い出す。

大学生の時分、貧を極めし頃、同じクラスで実家暮らしの斎藤君がバイト先で貰ったケンタッキー・フライドチキンを恵んでくれたこと。大学生協の電子レンジで斎藤君のチキンを温めてたらいつからか「生協で買ったものだけしか温めないでください」の張り紙が張られてしまったこと。ケンタッキーと言えば今でも冷えたチキンを食べ続けた冬のことを思い出す。冷えていても食い物が美味い、それが貧乏という極上のスパイス。

 

ケンタッキーついてチキン以外で知っているのは学生の頃に観た「ケンタッキー・フライドチキン・ムービー」というB級映画のみである。ストーリーは殆ど覚えていないが、ヘマをした敵のモブキャラたちがボスから処刑されるシーンだけははっきり覚えている。

他の者ども同様に首を切られるかと思われた最後の一人が「お前はデトロイト行きだ!」と宣告されるや「デトロイトだけは嫌だ!」と騒ぎながら連行される場面。7年前、俺がデトロイトへ駐在するよう言われたときに真っ先に思い出した悲しいワンシーンである。

事実俺の会社のモブキャラ達もデトロイトだけは嫌だと誰もがみな敬遠しおかげで俺は7年ここにいる。

 

というわけで、私のケンタッキーにまつわるハートフルなストーリーを幾つかご紹介する間に現場に着きました。

こちらがケンタッキー・フライドチキン1号店。世界に広がるKFC生誕の地。あの世界企業も静かで本当に何の変哲もないアメリカのド田舎の一角から生まれたのである。

最初に創業したガソリンスタンドは倒産、二度目のチャレンジでカフェを併設したら大当たりしたのが現在のケンタッキー・フライドチキン。というわけでガソリンスタンドの形跡も。

 

「ハーランド・サンダース?」

貴様誰やと警戒。知ってるおじさんと名前が違って目もなんか鋭い。ビジネス!という顔をしている。

ミュージアムの中で知ることになるが、カーネル・サンダースの「カーネル」は本名ではないのだそうだ。しからば、いわゆるHNみたいなものであろうかと思ったが、ケンタッキー州で使われている名誉称号のようなものらしい。つまり我々が言う「カーネルおじさん」という人物はケンタッキー州には何人かいるという事である。

 

1号店は今でも店舗として営業しており、そのメニューも1号店だからといって特別というわけでもなく1号店だからといって店員のサービスや愛想が良かったりするわけでもない。基本は雑談の合間にしぶしぶ接客のアメリカンスタイルである。

 

入口のところにはささやかながらグッズの販売コーナーがあり、店舗の奥にはミュージアム兼食事スペースも。

 

食事スペースは広くとられていてなかなか清潔でいい感じ。

 

男子トイレは胸元に、

 

女子トイレでは髪飾りとして、カーネルおじさんのトレードマークのあのヒモみてえなやつがつけられている小粋な演出も。

 

敷地の半分以上は食事スペースも併設されたミュージアムのコーナー。

 

昔のケンタッキー・フライドチキンのキッチンを再現したエリア。ここから全てが始まったのだとニワトリは目をそむけたくなる場所かもしれないね。

 

当時のキッチンでチキンを揚げているカーネルおじさんの貴重な実写映像も放送中。

よそ行きの一張羅かと思われたおじさんのあのホワイト服が実は作業着として常用されており、あの格好で割と自らガンガンチキンを揚げまくっていたことをムービーで知る。

(社長あるあるのカメラが来たから突然現場入って張り切っただけかもしれませんが…)

 

世界中で愛されるケンタッキー・フライドチキン。日本のKFCが斎藤君をバイトに雇ってくれたおかげで学生の時は余りチキンに沢山ありつけることができました。

 

普段から見慣れているカーネルおじさんのロゴの数々。こうして見ると年代と共に顔が変わっているというか、少しずつ簡素化されている感じが。

 

学生の時はお世話になりましたの気持ちを込めて。感謝のオジポーズ。

チキンを広めしチキンの伝道師も、かつては州内に建立されたカーネルおじさん銅像に対し動物愛護団体の活動家がニワトリ虐殺の象徴だと痛烈な批判運動を展開したというニュースもあった模様。

(未熟な俺は焼き鳥屋ハツで食べる時だけしかニワトリの命の事を考えることが出来ない。。)

 

記念に頂く1号店の味。日本で最後に食べたのは恐らく10年以上前だが、味は日本と大体一緒ですね。(すいません、味音痴なので正直分かりません!)

 

チキンをオーダーする列に並んで同じレジで最後にお土産を購入。ポストカードと、マグネット。

 

お土産用の袋は特に用意していないらしくポテトなどを入れる袋に入れてくれた。いい加減だな。だが、そこがいい…。

これがケンタッキー・フライドチキン1号店。1号店はあんなところなんだと、日本でKFCに行くときには思い出してあげて欲しい。

 

 

蜂への恐怖

我々の蜂という虫への恐怖心は一体何なのだろうか。蜂とひとくくりにしているが、実際には何もしなければほぼ刺さない蜂の方が多かったりする中、似たようなアクティビティをなさる虫の中でも実は蜂よりもよりアグレッシブに刺してくるアブや、刺されると蜂より厄介なブヨといった虫は蜂ほどその恐怖が周知されてないように思われる。俺も蜂は怖い。子供の頃に手を刺された思い出が今も記憶に残っているほどに。

20代の頃、午前中の外回りから帰って来た俺が会社の駐車場に車を停め、車内に散らかした書類をかき集めてバッグに仕舞いさあ外へ、というとき、出口ドアのすぐ向こうには楽しそうに飛び回る一匹の蜂の姿があった。サイズはなかなかのもので、さすがにギョッとした俺は外へ出るのを少し待つ事にした。

素人の観察の結果、手足が長いので安直にアシナガバチだろうと思った。≪アシナガバチは刺す≫Eテレの番組で渡辺徹のナレーションがそう言っていた気がする。実際何の蜂だったかはともかく蜂は怖い。なんせスタイルのいい生き物は全般的に人を見下しており、大体怖い。

よく見ると一匹だけではなかった。正面にもう二匹仲良く飛んでおり俺は三匹のアシナガバチに包囲されていた。さらに辺りを見れば、駐車場のもっと遠くのほうにも同じナリをしたアシナガバチの姿が沢山。この駐車場、巣が近くにでもあるのか、いつのまにかアシナガバチの社交場になっていた。とんだ蜂鳴館だったというわけなんですね。

アシナガバチは相変わらず車の周りを離れようとせずなかなか車から出られる気配がない。俺が出てくるのを狙ったかのように運転席側のドアで完全なる出待ち状態。

窓ガラスに何度も接触を試み、隙あらば入って来そうな雰囲気を醸し出す恐怖のアシナガバチ。一回開けようものならすぐさまナイス・タイミングで中に押し入りろうとする怒りのアシナガバチ!それからなんと30分ほど、俺は車内で悲しみのアシナガバチの退散を待ったが彼らの執拗な妨害活動はそれでも終わらず。

時間は正午、訪れる空腹に「これは兵糧攻めやも…」。あいにく今この車の中に食糧と言えるようなものは俺の荒れた唇の皮ぐらいしかなく、グルメな俺にこの長期戦は圧倒的に不利。イチかバチかの脱出を決意。(蜂だけに…)

《リーチの長い相手には手数で闘え》かつて日テレでファイティング原田さんの解説がそう言っていた気がする。脇を締め、腰をかがめると後は出来るだけ多くジャブを打つだけである。ついつい漏れる俺の中のボクシング・ヴォイス「セイッセイッ」の奇声とともに、おや、打たれたのはシャブの方でしたかと言われかねないムーブ、奇声と共に片手をブンブン振り回しながら勢いで脱出!

蜂がいようがいまいが一心不乱に、腰をかがめ腕をブンブンしたまま、ここなら安全と見た場所まで行ったところで振り返り、キーリモコンで華麗に施錠。恐怖で軽くジャンプしてしまった。

「こんにちは~?」

その刹那、背後からふいに挨拶の声。同じ駐車場を使っている会社近くの不動産の女の人に俺の脱出からの一部始終を見られていたみたいだけど、アシナガバチに刺されることに比べたら全然痛くございません。

「この駐車場、手足の長い蜂がいますから気を付けてください」

平和な一日は今日も守られた。

子供の頃アダルトの意味をスケベだと勘違いしていた

バイオレンスのイメージに引っ張られて一緒に使われるドメスティックという単語自体に何かネガティブなイメージがついているような、そういう単語は割と多い。同じケースで、これは完全にアダルトビデオという言葉の影響なのだが、子供の頃、当初アダルトという言葉を極めて安直に「スケベ」という意味なのかと思っていた。子供にありがちな基礎知識の前に応用がドカンと入って来て認識がおかしくなった不幸なケースである。

アダルトビデオはスケベビデオなのだからその発想はごく自然であるし、そもそもそういうスケベなエブリシングは俺たちヤングの憧れであって、自分の親、学校の先生、市役所の人など、世の大人各位がよもや、平素あのような大人然とした態度でおりながら夜はというとスケベなビデオを見たがる特異な習性があるなどとは思いもしなかったからである。つまりこの誤解の別の要因として、エッチなビデオと大人というイコール関係がそもそも出来ていなかったこともあると思われる。

思い出すのはあの当時家族でよく観ていた「クイズ!年の差なんて」というクイズ番組。「ヤングチーム」と「アダルトチーム」が世代間の常識を問題として出し合い競い合う80年後半から90年前半まで続いた当時の人気クイズ番組だった。ヤングチームに中山秀征、坂上忍島崎和歌子国分太一などが出ていたことからいつの時代の出来事か皆さんには大体分かると思うが、問題は「アダルトチーム」である。

「アダルトチーム?!けしからんッ…」

ヤングが若いという事は当時チャイルドの俺でも知っていたのだが、その相手がアダルト、スケベチームというわけである。子供の俺だって感じますわい、まあ何てはしたないチームだと。しかしながら、加とちゃんケンちゃん、とんねるずウッチャンナンチャンといったバラエティ番組を「下品!」と一刀両断し、バラエティと言えば当時NHKがやっていた「連想ゲーム」なる娯楽性で言うともちつきと同レベルぐらいの番組しか見せてくれなかったうちの父親がクイズ歳の差なんてはOKというのである。

従い、数少ない家族で見てよいバラエティ番組の一つとして黙ってこれを観ていたのだが、子供からするとアダルトチームに所属させられてしまったかわいそうなベテラン俳優の面々、藤村俊二高島忠夫朝丘雪路岡田真澄などについては、どうしても全員をそういう目で見てしまい、アダルトチームの高島忠夫が持ちネタのようにたびたび繰り出す「イエーイ」というムーブは何か子供の知らないスケベのメタファーなのではとか、藤村俊二の事をオヒョイさんと呼ぶことなどにも、も、もしや女性器のことか?!などいちいち過剰に勘ぐってした次第。

アダルトをスケベの意味だと勘違いしていた人、皆さんの中にもいてほしい。

フェロモンさん

フェロモンさんという友人が一年前にこの世を去った。フェロモンさんとは元々はネット経由で知り合ったが、東京にいたときには一番会っていた飲み友達でもあったと思う。そしてハイエナズクラブを最初に作った仲間でもあった。プライベートでの結びつきが少ないこうしたネット経由の友人が亡くなったのは初めての事だが、結局自分で確かめたわけではなくその関係者の方にそう伝えられただけであるからいまだに信じられないでいる。フェロモンさんのブログはまだ残っているし、更新しなくなったTwitterはXになる前から止まっているが今も残っているからである。

主にネットで繋がっていた自分のような人間が今回の事を知ることが出来たというのは改めて思えばかなり幸運なこと。つまり俺がすぐに知れたのは関係の方がわざわざこちらに教えてくれたからこそである。そうでもないと我々のような繋がり方をしている人間がそれを知ることはほぼ不可能だったと思う。教えて頂いた方には本当に感謝している。

重苦しくなるはずの記事でも当人の名前がフェロモンなことで妙に締まりが悪いが、このフェロモンさんという名前も元はカウパーさんだったし、彼がカウパーのままじゃなかったということ、本当に良かったと思う。でもこの投げやりな名前はネット活動をしていること自体への照れもあったのではないかと思う。フェロモンさんは常々ネット活動というものにある程度距離を取っているように見え、興味が無くなればいつでもやめてしまいそうなそんな雰囲気をいつも漂わせていた。飲み屋では彼が俺のインターネットネームを毎回若干バカにした調子で「のうみそさん」と呼び、俺は旧姓の「カウパーさん」で応じるのも懐かしい思い出。

一年間特にフェロモンさんの事について触れなかったのは彼のそんな性格を考えると何となくネットでは取り上げずにいてほしいのではと考えたことが一つ。あとはそれを記事にして少なからず注目を集めることがインターネットばち当たり的な感覚で捉えていた部分も多少。事件だ事件だと大声で叫んで回り注目を集めるようなことがしたくなかったという自分の中のよく分からないモラルみたいな、そんな感じである。

それでなぜ一年経った今になりモソモソと書き始めたかというと、冒頭にも書いたようにネット上の知人との別れというものは我々には全く見えないものだとこの一年間それを痛感したことから。インターネットの人って、亡くなったことを誰かが言わないと本当に誰にも分からないものなんだなって。そして誰にも気づかれずにフェロモンさんやフェロモンさんが書いた記事、Twitterに綴られた彼の日常(ほぼ飲んでただけのオッサン録ですが)が忘れ去られていくのは友人として大変さびしいものがあったし、フェロモンさんとのネット上の真の知り合いであるこの俺とその周りだけが知ればそれでヨシ!というのも思い上がりだなと考えたからであります。

既にフェロモンさんはこの世にいないし、この記事を書くにあたり誰に許可をとっていいか迷ったけれども彼の最期に立ち会った方に相談すると、「その方が嬉しい」ということだったのでこの場に書くこととした。この記事を読んだフェロモンさんのネット繋がりの皆さん、どうかまた思い出してあげてください。(もしもう少し詳しいことがお聞きになりたい方は個別に連絡ください)

正直なところこれを書くことにしたのが10月で、彼の事を偲んで色んな思い出を書こうと何度も試みた。最初に川名でとめさんと三人で飲んでからのこと、善福寺川でのガリガリ相撲、エルモさん、石井君、赤ソファさん、柴田さん、沢山の出会った人々。ハイエナズクラブを作った1か月後に揉めて一回閉鎖した話とか、団らん、大将、24時間営業をワンオペで始めて3日目につぶれたもつ鍋屋のこととか、あの当時あった色んな飲み屋の話、ハイエナズクラブが阿佐ヶ谷ロフトでやったイベントにフェロモンが来なくて寂しかった俺のお気持ち、そして今回のお別れまでについて、いい歳したオッサンがシンミリとしつついい話に仕立て上げるのはキモいよのうみそさんと彼も本望ではなかろうとその辺にはあまり触れずに終わりたいと思う。

一つ言いたいのは、こちらの転勤などもあって久しく会わなくなってしまったばかりか連絡もあまり取らずにいたにも関わらず、亡くなる少し前にも俺のことやハイエナズクラブの皆さんの話を時々していたという事を後から聞いたのはとても嬉しかった。

最後になるけれども俺が愛してやまないフェロモンさんの最高の記事を紹介してこの記事の締めとしたいと思う。

hyenasclubs.org