行為、存在がある記号として認識される場合

shirouto-kenkyu.com

自分が運営しているサイトなので手前味噌という形で恐縮だが、最近読んだものの中でもかなりいいもん読んだなという気にさせられたweb記事である。

 

この記事に似た話を俺も持っている。

あれは小学生の時、図工の時間に色画用紙を使った工作をしていたときのことだったと思う。もう随分昔のことなので記憶の大半が曖昧な状態であるが、今でも鮮明に覚えていることがある。

隣の席にいた女の子が桃色の画用紙に黒ペンで何かを書いている途中、間違ったのであろう、突然手元の修正液でその文字をなぞるように消し始めたのである。修正液の色は当然白だ。消す対象が白地であることを想定して作られた、何の変哲もない白の修正液なのである。

当然、桃色の紙の上で白の修正液でなぞるように消された文字は、ただ色が白に変わっただけで元の文字はそのまま読める状態。しかし隣の女の子は「よし」という表情などして、その上に本来書きたかったはずの文字を再び黒ペンで上書きし始めたのである。

これを見て「バカだな」と一蹴するのは簡単だが、これには日本的な趣を感じずにはいられない。大人になってからのことであるが、NHKで視聴率が限りなくゼロに近いと思われる割といい時間の人形浄瑠璃放送を見ながら、俺は気づいたのである。

「あの子の修正液は黒衣(くろご)だったんだ」

黒衣そう、時に「くろこ」と呼ばれる舞台上で働く黒づくめのあの人たちである。実際にはめちゃくちゃ存在感があるのだけど「本来見えないことになっている」「そこには無いことになっている」という文化、共通認識、社会のルール、マニュアルなどといったアレコレを経て、我々はこの黒衣を「見えない」ものと認識し、無視出来ているのである。

先ほどの修正液も同じである。修正液は消すものである、という社会の常識があれば、紙の色が白色だろうと桃色だろうと全く関係がない。彼女にとって修正液を使ったこと、その行為自体が重要である。

日本文化において重要なのはその行為であることが多い気がする。実際に効果がどの程度あるというよりも「その行為を行った」という事実、意味が重要視されるケースが極めて多くはないか。

色々と思い当たる節があるが、例えば掛布雅之の前髪である。事実上ハゲなのに、前髪を立てていることで頭髪はそこに潤沢にあることになってしまう日本文化の趣。

オイ、何なんだアイツは。潔くハゲろよこの!

掛布が毎月やってくる床屋のことを思うと仕事が辛いなどとはいっていられない。