行為、存在がある記号として認識される場合

shirouto-kenkyu.com

自分が運営しているサイトなので手前味噌という形で恐縮だが、最近読んだものの中でもかなりいいもん読んだなという気にさせられたweb記事である。

 

この記事に似た話を俺も持っている。

あれは小学生の時、図工の時間に色画用紙を使った工作をしていたときのことだったと思う。もう随分昔のことなので記憶の大半が曖昧な状態であるが、今でも鮮明に覚えていることがある。

隣の席にいた女の子が桃色の画用紙に黒ペンで何かを書いている途中、間違ったのであろう、突然手元の修正液でその文字をなぞるように消し始めたのである。修正液の色は当然白だ。消す対象が白地であることを想定して作られた、何の変哲もない白の修正液なのである。

当然、桃色の紙の上で白の修正液でなぞるように消された文字は、ただ色が白に変わっただけで元の文字はそのまま読める状態。しかし隣の女の子は「よし」という表情などして、その上に本来書きたかったはずの文字を再び黒ペンで上書きし始めたのである。

これを見て「バカだな」と一蹴するのは簡単だが、これには日本的な趣を感じずにはいられない。大人になってからのことであるが、NHKで視聴率が限りなくゼロに近いと思われる割といい時間の人形浄瑠璃放送を見ながら、俺は気づいたのである。

「あの子の修正液は黒衣(くろご)だったんだ」

黒衣そう、時に「くろこ」と呼ばれる舞台上で働く黒づくめのあの人たちである。実際にはめちゃくちゃ存在感があるのだけど「本来見えないことになっている」「そこには無いことになっている」という文化、共通認識、社会のルール、マニュアルなどといったアレコレを経て、我々はこの黒衣を「見えない」ものと認識し、無視出来ているのである。

先ほどの修正液も同じである。修正液は消すものである、という社会の常識があれば、紙の色が白色だろうと桃色だろうと全く関係がない。彼女にとって修正液を使ったこと、その行為自体が重要である。

日本文化において重要なのはその行為であることが多い気がする。実際に効果がどの程度あるというよりも「その行為を行った」という事実、意味が重要視されるケースが極めて多くはないか。

色々と思い当たる節があるが、例えば掛布雅之の前髪である。事実上ハゲなのに、前髪を立てていることで頭髪はそこに潤沢にあることになってしまう日本文化の趣。

オイ、何なんだアイツは。潔くハゲろよこの!

掛布が毎月やってくる床屋のことを思うと仕事が辛いなどとはいっていられない。

フォークリフトの免許を取った時の話

社会人になると業務上必要となる色んな免許、資格を取らねばならない場面が出てくる。

俺が社会人になって初めて取ったのはフォークリフトの免許である。前回の記事で書いたとおり、大学卒業後になぜか築地市場のセリ人として社会人生活をスタートした俺であったが、セリ人たるもの自分で売った商品も自分のフォークでトラックに積み込まねばならないと言われ、まさに流通の上から下へといった塩梅で俺は言われるがままにフォークの免許を取りに生かされた次第。

フォークリフトの免許をとるために向かったのは都内湾岸部にある某技術センター。学科、実技含めた四日間で3万5千円である。世間はキャリアアップを声高に謳い、資格だスキルだのと喧しい。俺も労働者の端くれ、何であれ世の流れには乗りたいところではあるが、流れに乗るどころか目の前で「乗れ」と現れたのはまさかのフォークリフトである。

キャリアアップどころかまずはフォークのリフトアップを果たすべくフォークリフトの免許資格を取得に向かった俺を待っていたのは受付に並ぶ堂々たるブルーカラーの面々。申し訳ないが「これはキャリアダウンだ」とようやく気づいた次第である。

 

■座学

座学の教室にはいかにもフォークリフトに乗ってこの道ウン十年と見えるベテラン作業員然とした教官が現れ、さあ講習開始と思いきや、彼が行うのはリモコンのスイッチをオンにするのみ。再生されるのはVHSの教材ビデオである。朝8時半から昭和産の教材ビデオはなかなか辛く、部屋の明かりが落とされビデオが再生された瞬間、自己防衛だろうか、強烈な眠気が襲ってきた。

根が真面目ゆえ、それがどんなものであれ授業中に眠るのははばかられる。何とか眠らないよう耐えたが敵も然るもの、延々流れる倉庫とフォークリフトの退屈な映像の数々に何度もKOされそうになる。

 

≪フォークの種類には様々なものがあり...≫

教材ビデオ特有のクソ真面目なナレーターの説明が眠気を加速させる。

≪クレーンアーム、ヒンジドフォーク、回転クランプ...≫

「...。」

≪マニプレータ....≫

「...。」

≪スプレッダ、ロードスタビライザー...≫
「(ウッ、眠い)」

 

眠さに耐えかね気を紛らわそうとふと横の席のおっさんを見た。真剣に観ていると思いきや、何とそのおっさんはいい年して寝ているではないか。それを見た俺は「負けてらんねぇな」とばかりにすぐさまおっさんを追いかけるようにバタリと寝た。

座学は朝の8時半から夕方5時半まで続いた。午前中はすべてVHS。午後から教官による生授業スタートである。

講師の授業からはさらに眠気がハンパなく、フォークリフトひとつでここまで多岐に渡る話ができるものかと感心するほどの豊富なバラエティ。フォークリフトを構成する各部名称等の基礎知識に始まり、専門的な内部構造の話、さらには力学や電気抵抗といった難解な話に至るフォークリフトのすべてを今日一日で詰め込むのである。

力学や電気抵抗の話になるともう何のことやら。楽しそうなのは教官一人で、ホワイトボードにフリーハンドで描かれた謎のピラミッド図に、親切な説明と謎の斜線を加えるたびに一人、また一人と気絶者が続出した。 俺もその一人。これが力学の威力か、、と、薄れ行く記憶の中で力学のその魔力に甚く感心した次第。

 

■試験

高校、大学と、授業中に眠気を感じ「寝よう」と思って寝たことは何度もあったが、今回のように気絶するように寝ているというのはあまりない。 寝る、起きるを繰り返すうちに夢かうつつかもはや判断不可能となっていた俺がようやく正気に戻ったのは、≪では、学科試験をおこないますッ≫という教官の声によってであった。

「受験すれば誰でも合格できる」

そういう話を聞いていたがさすがにそれは「一応話を聞いていれば」こそのことだろう。話を聞いていないばかりか意識すらなかった俺が果たして合格できるのだろうか。試験は三択問題、6割正解で合格というが自信がない。

朦朧とする意識の中で持参したバッグの中からシャーペンと消しゴムを探し出す。大学時代にペンケースなど捨てているから家の机の上にあった1本のシャーペンと消しゴムをバッグの中にポンと放り込んだだけである。バッグの中に手を突っ込むも、なかなか出てこないシャーペンにいらいらしたが、ようやく手につかんだペンのようなソイツを机の上に出してみてびっくり。

「おっと失敬失敬、君はボールペン君だったか…」

そう、そこにあったのは体長13cm、体重10gの立派な男の子のボールペンだったのだ。

こうして≪こんなちょろい試験、消しゴム不要だ!≫とばかりに俺一人、一発勝負のボールペンで挑むこととなった。俺の机の上の異変に気づいた教官の目が語りかける。

≪ホウ、いい度胸だ…≫

授業を聞いていなかったばかりかボールペン一発勝負はさすがに勘弁。素直に事情を説明し、教官に鉛筆を借りようと思ったその刹那、不安な面持ちで横の席を見てびっくり、なんと隣のおっさんもまさかのボールペンでの参戦だったのだ。おっさんの目はこう言っていた。

≪そのチキンレース、乗った…!≫

おっさんのアクセルはすでに全開。ボールペンでの消せないアンサーは既に半分まで進んでいた。

結論から言うと筆記試験は一発合格。開始5分で「めちゃくちゃ簡単だ」ということはすぐに明らかとなった。全問「誤っているものを選べ」形式の問題なのだが、選択肢をみると誤ってるやつが明らかにキラキラ光っているわけである。「場合によっては手放し運転をしてもよい」みたいな感じで誤り方が尋常ではなく、異彩を放ち、ひとりキラキラ光っているのである。こうしてできた答案用紙を教官の所に持っていけばその場で採点、即「合格」。拍子抜けである。こうして無事座学をクリアすると、次の日からいよいよ実技開始である。

 

■実技講習開始

同じ日に受付をし、当然の様に座学をクリアした全14名は、筆記試験後の残り三日間の日程を全て一緒に過ごす。この日からいよいよ実技を交えた講習が始まるのだが、ここからはこの14名を7人の2グループに分けて行われることとなった。

A班、B班と名づけられた二つのグループは別々のコースで講習を受ける。名簿の順番に従い1番から7番はA班、8番から14番がB班である。12番の俺はB班専用の練習所へ向かう。12と書かれたバッジを付けて。

残念ながらB班にはオッサンしか居なかった。特にバッジ番号8番、9番、10番は同じようなめがねをかけた気の弱そうなオッサンで、初めはこの三者の見分けがつかず服の色だけを見て「8番=黄色、9番=灰色、10番=白」といった具合に判別していたものだが、二日目にちょっと冷え込み全員一枚着込んで来たらもう終わり、朝会ったときもう誰が誰なのかまったくわからなくなっており大変困ってしまった。

「8番=黒、9番=黒、10番=黒…」といったが具体に全員黒になっていたのである。その日からようやく彼らの顔を見るようになった。

A班に比較的若者が集まったのと比べ、我がB班は俺以外全員オッサンであった。A班が待ち時間に楽しそうにおしゃべりしながら親交を深める一方で、B班は「あくまでこれは教習、雑談は不要」とばかりにあくまで最終日の実技試験を見据え「あそこはマストを早めに垂直にしなければならない」「荷を揺らさぬようにリフトを下げて低速走行で」などとストイックにフォークリフトの技術論を闘わせる。

一方のA班、女性が混ざっていたからか教習終了後に電話番号を交換している一方で、B班は最後まで互いの名前も職業も明かさず、互いに「10番さん」「12番さん」と番号で呼び合うまま。果たしてどちらが普通の教習のあり方なのかは俺にはわからない。

しかしB班は優秀だった。教官はストイックにフォークリフト道に邁進する我々B班を甚くお気に入りで、「こんなに優秀な生徒が集まることはあまり無い」とベタ褒め。俺を含め、皆ここに来る前から各々の職場でフォークリフトを無免許で乗り回していたのだから無理も無い。この実技試験、結果としてはA班、B班ともに全員合格だったわけだが、合格するまでの三日間はなかなか過酷であった。あの教習内容を少し振り返ってみたいと思う。

 

■実技教習1日目

実技講習の初日、全員が事務所に集められ、ヘルメットが配られる。番号の入ったバッジが配られるとそこでA班、B班に分けられた。

俺のバッジには「12番」と書かれている。その番号に従いそれぞれの班に分かれると、自己紹介も無いままB班の教習が始まる。コースは二箇所あり、A班、B班がそれぞれに分かれて使用。各班一台のフォークリフトを7人で乗るわけだから、待ち時間は長い。コース横に置かれたベンチに身を寄せ合いながら他人の教習を眺めるのみ。季節は四月であったが湾岸地域であった為か風が強く、ストーブが置かれていても肌寒い。それでも普段は10人で一台乗るらしく、7人はまだましなほうなのだそうだ。

初めは立てられたコーン(円錐のやつ)で作られた簡単なコースをグルグル回るだけの初歩的な訓練から。右回り、左回り、バック走行などが繰り返される。
最初はみんな緊張した面持ちでこれに挑んでいたが、元々簡単なミッションであるため、次第に飽きてくる。反復するのはいいことだが、あまりに単調過ぎたからか「一人二周」と言われたにもかかわらず、9番のおっさんは持ち前のうつろな目で一人グルグルと何週もカマしている。

教官が「ちょっとやってて」とその場を離れていたこととまだお互いに遠慮しているのもあり、9番は我々から何ら突っ込まれぬまま一人、ウイルスに感染して狂ったイルカのように延々コーンの周りを回り続けていた。よっぽど携帯のムービーで撮ろうかと思ったがやめた。

 

■実技講習2日目

二日目の午後、雑談もせず粛々とストイックに訓練に励むB班はすでに教習内容のすべてを消化。早くもあと一日を残した形でB班全員が試験本番のコースを制限時間内でクリアできる状態に仕上がっていたのである。

制限時間の5分以内でパレット(フォークのつめを刺す板)に乗せられた荷物をA地点からB地点に移動させるのが本番の試験であるが、B班の全員がこの5分を切るどころか3分半でクリアできる状態。そうなると目的を失ったB班の興味はもっぱら最速タイムになるのは必然であった。

 

■実技講習3日目

三日目の朝、なおもお互いにほとんど会話を交わさないストイックなB班であったが、だからこそ研ぎ澄まされる互いのライバル意識はフォークリフトの運転技術を高めあうには充分すぎるほど。

朝一で出した俺の2分50秒という最高タイムを破るべく、その日一日のB班はそれまで大好きだった技術論もほったらかしに皆こぞってスピード狂と化していた。加熱するスピードレースは、俺がその後叩き出したコースレコード2分35秒をピークに終結

コースレコードを出した俺が、フォークを降り喜び勇んで遠くでなにやら集合しているB班の元に駆け寄り「世界記録!!」とばかりにはしゃいでいったらばその輪の中にはいつぞやの教官殿の姿が。「あんなに高速でフォークを走らせて歩行者の足を引っ掛けるとどうなるか」というグロい話がされていた。

「空気読めなかったッス!」

 

 ■試験本番

そんなことをしているうちにようやく試験本番を迎えることとなった。A班が先に試験を行う間、我々は練習を許された。

いよいよ本番前最後の練習とあらば練習にもこれまで以上に気合が入る。オッサンだらけとはいえ、三日間の実技をともに過ごした仲間だ、本番前ともなると急に激やアドバイスの声が飛ぶようになる。

≪ギアもどせ!!≫
≪荷が浅い!!≫
≪角度角度!!≫
≪よし、そこだ!いけ!攻めろ!≫

最初は急変したB班のこの異様な空気に戸惑いを隠せなかった俺であったが、次第にアツいものがこみ上げてきて気づいたらいつのまにか人の練習を見てはアツくなり、≪角度角度ッ!≫と大きな声で叫んでいた。

A班が終わるといよいよB班の実技である。B班のトップバッター、「8番」さんが呼ばれる。ベンチにすわり8番を送り出す気持ちは柔道の団体戦に似ていた。

「気持ち気持ち!!」

8番はいつも最初のカーブで大きく膨らむクセがある。そんなことを考えていると、隣に座っていた10番が「ふくらまないように!」と叫ぶ。僕らはいつも以心電心、である。その声を受けた8番が「グッ」と親指を立て、余裕のサム・アップ。8番は案の定膨らんでしまった。

9番、10番、11番、順調にコースをこなしいよいよ俺の番。

「ふくらまないように!」

10番がまた叫ぶ。俺は別に膨らまねえよ。さっき以心電心なんていったがテメエ誰にでも言ってんじゃねえよと思いつつ、とりあえず俺も「グッ」とサム・アップ。その直後膨らんでしまった。

 

 ■アツい4日間が終わった

初めのほうで書いたとおり結果は全員合格である。最初から全員が合格するのを予期したかのように、試験が終わって僅か一分で全員分の免許証が交付された。何事も先を読む時代、スピードの時代である。解散式も何もなく免許をもらうとB班の一同は皆それぞれの家に散って行った。

我々は次の日からそれぞれが働く倉庫なり工場なりに戻り、再び通常業務をこなすのだ。異業種で交流することのない我らブルーカラー。ここに来ていなければ絶対に知ることのなかった日本のアンダーグラウンド・ブルカラーシーンに触れることで、俺はまた一つホワイトカラーから遠ざかっていくのを感じていた。

「枯れ松の調査員」という仕事

6単位を取りこぼし呆気なく留年してしまった俺のその時の話はまたいつかするとして、不足単位が半期で取得できるものだけに与えられる秋季卒業システムにより俺の卒業証書授与式はその年の9月、大学のちょっとだけ広い部屋で数名の9月卒業者と共に静かに行われた。

4月からの仕事を早々に、また周囲の反対にも聞く耳を持たず築地市場でのセリ人とすることに決めた俺は20歳から住み始めた高円寺の風呂なしアパートに静かに別れを告げ実家の九州へ仕事の始まる半年間だけ戻る事となったのであるが、両親は留年したことよりも、留年して時間があるにもかかわらず何故ちゃんと就職活動をしなかったのか、何故築地市場でセリ人なのか、もっと言えば何故また東京なのか、どうして地元に帰らないのかなどなど、漸く帰ってきた息子に色々と言いたかったに違いないが、極貧生活で酷く痩せて生気のない息子の姿を見てドン引きしたとあって「東京に戻るならそのお金ぐらいは自分で出しなさい...」とだけ言って、半年間の実家生活をアルバイトをして過ごす様、静かに申しつけるのであった。

俺の故郷は九州某県第二の都市であったが、この某県がど田舎であるためか第二の都市とは言っても皆さんが想像する以上に寂れきった斜陽都市である。

目立った産業はなく観光が主のこの街で東京並みの賃金が得られるアルバイトを探すのは極めて難しく、加えて半年間しかバイトできませんという条件もつけばまともなバイトが見つかるはずもなく、帰省して一ヶ月間をほぼ無駄に過ごしていると、初めは憔悴した息子にやや柔らかく当たっていた家族にしても、段々と実家飯で肥えて血色もよくなる息子へのその視線の厳しさが徐々に増していくというのも必然というわけで、これは何とかしないとあと5ヶ月を留年以上に辛い時間を過ごさねばならなぬといよいよ本格的に低賃金の3K職場でも構わないからとにかく外に出て働かないとと、なりふり構わぬ形でのアルバイト探しにシフトしたわけである。

詳細は忘れたが短期で水産加工会社の早朝の肉体労働に申し込みをする決意を決めたまさにその日、先日書いた件のマンUカフェのヨッちゃんが市役所にツテがあることので短期間での市の臨時職員として雇われるこことなったのはまさに幸運としか言いようがなく、この仕事が僅か1ヶ月の超短期であったにも関わらず業務内容がPCを使った軽作業な上、その賃金が比較的良かったこともあり二つ返事でこれを受けた次第。

当初業務内容はエクセル、ワードなどを用いた簡単な資料作成、データ編集であったが得意のPCとあらばバッチコイと言うわけで、市役所各位が期待していたより仕事が早いものですから半月ほどで予定していた業務の大半を終えてしまったものであった。

するとこれには、このあと半年後には社会に出ていこうとする若者も過剰な自信を得てしまうというもので、この社会人予行練習問題を見事にこなす自分の姿に酔いしれつつも、そうすると思い出すのはこの後の就職先であり、この辺りから自分自身ですら「なんで俺は築地市場のセリ人になるんだ」という自問自答の日々が始まるのであったがそれは別の話としたい。

そしてこの、半月で仕事を終えてしまった空気の読めない若者をどうするべきかと悩んだ市役所の皆さんに与えられたのが今回のタイトルにある「枯れ松の調査員」という仕事であった。

枯れ松の調査員、読んで字のごとく枯れた松を調査する者である。市内に数多ある松が、マツクイムシという、これまた読んで字のごとくとりあえず松を狙って食う虫によって枯れてしまっている現状を調査しレポートを作るという、市役所が長年行なっている長期プロジェクトのメンバーとして選任を受けたわけである。

この特務を授かったその日から早速のミッションスタートというわけであるが、集合場所とされる事務所の一角に行くとそこに待つのはポツンと立つ小柄でやせ細ったおじさんただひとり。

「パートナー」と呼ばれる商用バンに市のロゴのついたものをあてがわれ小さな消え入りそうな声で「僕は運転出来ないから、運転して。」と言われて始めて、枯れ松の調査員がこのおじさんと俺のたった二人しかいないことを知る。その日からこのおじさんと二人だけの残り半月の枯れ松の調査が始まるのであった。

 

市の管理するエリアにある松林のリストに基づき松の現状を実地調査し、それをリスト化したものを業者に伝えマツクイムシに既におかされたものは伐採する。枯れ松の調査とその目的は簡単に言えばこんな具合である。

実地調査と簡単にいうがかなり過酷な内容でほぼ未開状態の山に身一つで入っていき松を見つけては近づいて一本一本その状態をチェック。けもの道でもあれば良い方で、大半は道無き道を、生い茂る草木を腰に携えたナタで払いのけながら進む探検隊のような仕事だ。

「あっ!松」

松を見つければ「松だ!」と叫び、駆け寄って状態をチェック。チェック済みで問題ない松には黄色、もうダメな松には赤のテープを工業用の太いホチキスでバチンバチンと留めていく。最初は松を見つけると妙にテンションが上がったものだが、次第にマツクイムシもっと頑張って跡形もなくこの街すべての松を食い尽くしてくれよと思う気持ちがかなり優勢になったものである。

移動、発見、ホッチキスの繰り返し。移動中はほとんど会話はない。松があったら無言で近づき「枯れてますね」「枯れてるね」とだけ言葉を交わし、工業用ホッチキスでバチン。

松の木がこうもあちこちに生えているとは知らずすぐに終わるだろうと思っていた俺をあざ笑うかのように松林は市内の山間部いたるところにあり最初の一週間が終わった段階でも調査は終わる兆しも見えない。

蚊の大群に襲われ、おじさんと二人でスズメバチから逃げたこともあった。あと蛇が目の前を通りおじさんだけ小さい声で「うわぁ…」と言って逃げたこともあった。

「今までどうやって調査に行っていたんですか」

夕方、作業帰りの車の中で今まで疑問に思っていたことを尋ねるとおじさんは「ここだけの話」と奥さんの車に乗せて連れていってもらっていた事を教えてくれたが、それよりも俺に言いたいことがあったらしくその答えの後に続けて語気強めにこういった。

「きつかやろ」
「市役所でこやんか仕事とは思わんかったやろ」
「いつもね、僕はこやんか人のせん作業ばっかり押し付けられるとよ」

キツい訛りで珍しく矢継ぎ早にそして悔しそうに、平たく言えば「こんな仕事したくない」とそう言うのである。そんな事を言われるとこちらまで辛くなるので言わないで欲しかったわけだが、俺はこのおじさんが市役所の他の職員に馬鹿にされているのを知っていた。

声が小さく人付き合いが下手で気も弱い彼が色んな雑務を押し付けられ、裏で色んなあだ名をつけられているのを俺は他の職員に度々連れて行かれたスナックのカウンターで何度も聞いていたのである。

東京で留年しズタボロで帰省してきたペーパードライバーの学生と市役所で冷遇されるおじさんの乗った車の名前は奇しくも「パートナー」、隣に座るこの相棒の為、何か気の利いたフォローの一つでも入れたかったものだが、社会経験の無さからおじさんのその恨み節にフォローのコメント一つ返すこともできずただ黙ってそれを聴きながらハンドルを握るのみ。

フラフラ、ノロノロと市役所に帰るその車は後続車に煽られながら、社会に出ても、大人になっても、まさか市役所でさえもこういうことがあるのだなと思うと何となくそういうものとは無縁のように思われた築地市場でセリをやる仕事も悪くないのかもしれないとそう思ったりもしたものである。

半月間の調査で幾つもの山に分け入り、ある時は崖を上り、またある時は離島へも一緒に行った。おじさんは帰りの車でいつも「きついねえ」としか言わないが、勝手ながら思い描いていたものとは程遠く自信を喪失して酒を飲むか部屋に引きこもるしかなかった東京での荒んだ学生生活に終わりを告げるのに、野山へ入って無心で松を探し続けたあの半月間はとても貴重な時間だった。俺の調査した松のデータがどれほど役に立つのか知らない。最初は重要な長期プロジェクトだなんだと説明されたものだが、その話が本当なのかもはや疑わしかった。あの調査結果だって実は誰も読まないかもしれない。社会に出ればそんな事もあるかもしれないとも思った。

俺は幸運にも契約満了と共に、同じ市役所の別の部署での臨時職員を斡旋してもらうことになり、おじさんはまた一人で枯れ松の調査となったようだ。昼飯の後、時々作業着のまま歩いて市役所を出るおじさんの後姿を見るたび「奥さんに拾ってもらうのだな」と思いながら眺めていた。

終り

俺のキャバクラ経験について

前勤めていた職場で、先輩や取引先の人々に連れられ、東京の下町、門前仲町に飲みに連れて行ってもらったことがあった。

入ったのはスナックのようなたたずまいの、何かアダルトな雰囲気を醸し出すちょっと暗めなお店。客は地元のジジイが主と思しきアットホームな感じの飲み屋だった。

スナックだとカウンターがメインだが、そのお店はカウンターよりむしろ、ソファー席が異常に多く、人数の多かった我々はその中でも一番広いところに案内され、そこで飲んでいたわけである。

普通のスナックだとカウンターに女性、彼女らと適当な世間話をするところだが、このスナックの場合、女性スタッフも多めとあって我々の座るソファー席にはゾロゾロと女性が数名やってきて接客をしてくれた。

酒を飲んでカラオケを歌って、その間女性はずっと隣に居て酒をついでくれたり、どうでもいい話をしても相づちを打ってくれたり。何を話しても「おもしろい」と笑ってくれてとても楽しかった。試しにデビッドボウイのグラムロック期、そしてアメリカ進出期に見られた音楽性の変化について熱っぽく語ってみたのだが、俺の隣に座った女性は「すごおい!」と言ってくれた。ただ酒を飲みに来ただけなのにデビッドボウイの話も出来てなんだか分からないがとても楽しかった。

「いやあ、先輩、今日のスナックなんなんスか!なんかわからないけどめちゃくちゃ楽しかったわあ!」

興奮冷めやらぬ!といった赤ら顔でアツい感想を述べる俺に、先輩は淡々と返す。

「馬鹿野郎、ただのキャバクラだよ」

衝撃だった。さっきまでいたあの空間。それがキャバクラだったのだと。あんなに楽しかったのに、「ただの」だと。てことはあの「すごおい!」は...!

俺はあまりにもスナックしか知らな過ぎた。それまで付き合ってきたジジイにあまりにもスナックに連れて行かされ過ぎたのである。「ばっかもーん!そいつがルパンだ!」のような、何だか良くわからないのが俺のファースト・キャバクラであった。

知らないうちに注射を打たれた子供のようにアッサリとキャバクラ童貞を捨ててしまった俺なのだが、実を言うとそれまでキャバクラというものをもの凄く恐れていたのが正直な気持ちである。

先入観とか無知から、人生経験の乏しさとエロ知識の偏りにより何か別のもっとスケベなものと混同していたためか、恥ずかしながら俺のキャバクライメージは最終的には「ショウタイムに羽飾りをつけたダンサーがポロンとオッパイを出してベリーダンス」に行き着くほどに混沌としていた。混沌とし過ぎていつの間にか「キャバクラ」という言葉を聞くと何故か頭の中に「美空ひばり」が思い浮かぶようになっていた。苦しんでいたのである。

大人になるにつれ色んな人にキャバクラに関するお話を聞くとある程度偏見や誤解も解け、それが如何なるものかを大分知るようになりはしていたが、知ると今度はまた別の恐怖が俺を苛むようになる。

男がオンナに騙されて金を巻き上げられる...という嘘や暴力と隣り合わせの恐怖の世界だ。欲望の代償はカネ、実はコレ、ドラマ「愛という名のもとに」でフィリピン人キャバ嬢に真剣に入れ込んで騙された結果、人生を悲観して自殺した中野英雄演じる「チョロ」という登場人物が死に際に発令したキャバクラ警報(ゴキブリが死ぬ間際に仲間達に発する警報に近いものである)に従った結果なのだ。

「キャバ嬢に近寄ると、最悪死ぬ」

インターネットで「最悪死ぬ」と調べると実に色んなものが出てくるが近寄るだけで死ぬのは多分キャバ嬢だけである。

そんな全てが嘘の恐怖の世界に、元々人一倍警戒心が強く人見知りで用心深い俺が放り込まれて楽しめるのだろうか、不自然な会話とか作られた空気に敏感な俺はきっとキャバ嬢が気を遣っていたり、少しでもやり辛そうな顔をしていたら、死にものぐるいで会話を盛り上げたり嬢のトークに対し決死のオウム返し&相づちを繰り返すに違いない、俺が「すごおい!」って言ったりしてそれではどちらがサービス業なのやら、辛いばかりで楽しい筈が無い。そんな風に思っていた俺であったが、

「いやあ、久しぶりに女と目が合いましたよ!」

あの日はそんな極端に低い俺のハードルを満たすだけのものが、門前仲町のキャバクラには確かにあった。キャバクラは楽しかった。キャバクラはとても優しくて、全く吠えたりしないし、触っても全然噛み付いたりしなかった。

 

かといって自費で行くつもりは毛頭なく、それから二度目のキャバクラに至るまで2年以上を要することになるのであるが、その二度目のキャバクラへ行く動機もやはりおごってもらったためだ。

それは殆どチャイナパブとしか思えないが自称キャバクラだそう。俺はその辺のスタイル、思想の違いには寛容なので「わけえオンナがいればええがな、ガッハッハ」と中小企業の社長のようなノリでそこに赴いたわけである。

最初に誘われたときにも「キャバ?ああ、いいっすよ」と、さもキャバはダチ公ですぐらいのフランクさを醸し出してみせたものだが、内心はどきどきしていた。初めて行ってから数年が経っていたことが俺を再びキャバ童貞に戻していたのもあったのだろうが、そもそも俺のファースト・キャバクラはそれがキャバクラであると知らずに入って知らずに過ごした奇襲キャバクラだったわけであるから、こうして「今からキャバクラに行きます」という事前の作戦発布の下、戦闘準備を整えて「いざ」と入店するとなるとこれが初めてになるわけである。

 

そんなわけでドキドキしながら集合し、いざキャバクラだ!と勇んで入店するとその気合を往なすように、店内は私服状態のキャバ嬢が無言で掃除をしていた。既に開店時間である。入店してきた我々を見ると従業員の女子は一応振り返り「イラッシャイマセ」と無表情で言ったが、そのまま掃除は継続された。

とりあえず座って待ってて下さい、と言われたので言われるがまま待っている中で我々より後にどんどんキャバ嬢と思しき女子が出勤してくる始末である。

「あのドレスみたいなやつで出勤するわけじゃないんだな...」

などという当たり前の事実にも新鮮味を覚えるほど俺のキャバ・エクスペリエンスは少ないのだが、その一方でその日のキャバをおごってくださった御方はというと、それを見て「何だよコレはよ~、なってねえなあ」とフロアに響くほどの大きめの声で一言。まさか二回目にして「店長呼べ」が出るのかとドキドキしたが、とにかくさすが、御大はキャバクラに慣れておいでだ。

俺などはやんごとなきキャバさんの中にあってそんな大それた、失礼な事などを言おうものなら奥から果物ナイフを持った黒い服の人がやってきて「嫌なら15万出せ」と理不尽な鶴の一言をカマされるのではないかと凄く怯えたのだが、最初にチラつかせた「キャバはワシのダチ公やでェ」のスタンスをここで崩す事は出来ず、俺もそれに合わせる形で「念入りに掃除やれよ、マジで!」など不平とも取れないギリギリのコメントを虚空に放つ攻めることでなんとか切り抜けたものである。

して女性登場である。チャイニーズ・キャバクラと聞いていたのだが、俺の隣に座ったのはタイ人だった。後で確認したのだが、実は日本人も混じっていたそうである。お前ら全てまとめて中国やと。中華思想を体現しているようだ。中国のお店に来ておいてなんだが、内心オール中国人でなくてほっとした。先ほど店内で叱責をカマした御大の態度はお店についてから妙にえらそうであるし、何かのきっかけで彼を起点に反日暴動が局地的に発生しないとも限らないからだ。中国人が怒ったら大日本印刷だって小日本印刷である。

それにしても俺の横には初めて話すタイ人である。相手が何人であろうと漏れなく気をつかってしまう性質なので何か共通の話題をと、自分の知っているタイランドを頭の中からひねり出し高校の歴史の授業で学んだ「パガン朝」と「チャックリー朝」というタイ王朝の名前を連呼していたが途中でパガン朝がビルマの王朝であったことに気付いた。中国人の前で歴史誤認は危険である。

次は知っているタイの有名人の話をしようとしたがそこで出て来たのが「シリモンコン」である。辰吉丈一郎と闘ったタイ人のボクシング選手だ。子供ながらにシリという名前が尻のようで印象的で覚えていた。ただそれだけである。

残念ながら彼について大した記憶も無かったので「シリモンコン、強かった シリモンコン、かっこ良かった」とよく覚えてもいないシリモンコンを30分程度ずっと褒め讃え続けたものだが、その後また30分シリモンコン以外の話題が思い浮かばずに「シリモンコン、眉毛の形がよかった シリモンコン、車の運転がじょうず...」と、シリモンコンについてもう他に褒めるところが無くなろうとしていたとき、ようやく「じゃあ、帰りますか」の助け舟が来て、全てが終わったとき、俺はぐったりしていた。

俺のキャバクラ経験はこれだけである。

父は息子の憧れでありたい

 

息子には早めに知っておいたほうが良さそうな事はなるべく教えてあげているが、それが口笛の吹き方だとか側転の仕方だとかビンのフタ集めやっといたほうがいいぞだとかしょうもないものばかり。それでも息子は喜んでおり俺は満足している。

おとうさんは自分ができないことを何でも知っている凄い大人である、という刷り込みが今のところ成功しているが妻はあまり快く思っていない可能性もある。

勉強などは母親が熱心に教えているが俺はいつもソファに寝転がってぼんやりし、幼稚園児のくせに熱心に算数などをする様を眺めながら、たまにフラっと近寄っては

「お前な、幼稚園児なら、この指の取れる手品を今のうちから覚えといたほうがいい。ほら、取れたろ。」

「すごい...どうやるの?」

「まあ、こっちにきなさい」

などと幼稚園児を惑わすクソネタを仕込んでまたソファに戻る。端的にいうと役立たずである。夕食時に息子が俺が教えた手品をしつこく続けて腹が立ったと妻。だんだんと息子の言動が俺に似始めているのを妻はどう思っているだろうか。

 

「お父さん、口笛で『おしっこ』って言ってみてくれない?」

 最近口笛を教えた息子が真剣な顔で俺にそんな相談を持ちかけてきた。お前はバカかといいそうになったが俺は父親、寸でのところで踏みとどまる。

「...ちょっと待ちなさい」

「出来ないの?」

「いや、出来るけど」

「じゃあちょっとやって」

何の目的で口笛の「おしっこ」を聞きたいのか全く理解ができないが、だからといって出来ないとは絶対には言えない。おとうさんは息子の憧れの存在。何でも出来る全知全能の神なのである。

「フィ、フィッフォ(おしっこ)」

案の定であるが、俺は口笛で「おしっこ」と奏でることが出来た。だから何なんだという響きであった。

「おとうさん、やっぱりすごいね」

「うん、そうだろ」

「すごい」

会話はそれで終わった為、何でこいつが口笛で俺におしっこと言わせたのか全く分からなかったものの父親の威厳が保てたという事実があればよいので俺は満足である。