‪足のサイズの成長が止まった時に人間の中身は決まってしまう‬

子供の頃といえば、今足のサイズが15センチということは大人になったら50センチぐらいにはなるんやろなぁなどと馬鹿なことを考えていたものである。ここで言う足のサイズというのは靴のサイズと思ってもらうと有り難い。

死ぬときにはおれの足80センチぐらいになるんかなぁなんて思ったりして、人の成長は際限なく続き、生きている限り膨張していく一方だと思うのはなんとも夢のある話じゃあないですか。成長、してますかみなさん。

そういやあ、小学一年生の頃にみた小学六年生の上履きのデカさをみんなは覚えているだろうか。こりゃまるでバスタブやんけ~なんて驚かなかっただろうか。小学生の頃に街で出会った中学生はオッサンに見えたものだし、あれを見たらどんどん無限に大きくなる未来しか見なくても仕方ない。先は長い、足のサイズも50センチぐらいになる!とそう思っても仕方がないわけである。

実際には人の足の成長は早い人で中学生、みんな何となく高校生辺りで止まるんじゃあないだろうか。

で、最近この足の成長と人間の成長がリンクしているような気がしており、ひょっとしてみんな実はあの辺から成長してないんじゃないかという事を考えいる次第。

この世には落ち着いた30代のオトナも、誠実な既婚者も、責任感ある社会人もそんなに多くはなく、基本的には靴のサイズの決まった辺りから大して変わらぬ元・子供が渋々役職や立場に見合う自分を演じる世界のような気がするわけです。

でまあ、特に言いたいのが女子大生なんかがすぐ騙されてしまう"落ち着いた社会人のオトナ"なんやけど、あれはマズイっすよ、そんなやつおりませんし、皆さんと会う前には頑張って落ち着くためにインターネットでサンプル動画を見て絶対にシコってから会いに来てます。あれは落ち着いてるんじゃなくてシコった後だからです。絶対そうです。サンプル動画。

 

田舎のラブホテルの「ドルフィン」率

ドン・ファンから強引に思い出したが、田舎のほうにあるラブホテルはドルフィンという名前が多いか、またはイルカをロゴにあしらったところが気がしてそれが何故なのか前々から気になっていた。
ひょっとしたらであるが、あれは男性器を表しているのではないか。イルカには申し訳ないがメタファーというやつである。
イカ臭いと言ったものだし、みうらじゅんがかつて漁港の臭いと例えたほど、確かに思い返してみると先達はあり、性器の類を海洋生物に委ねるやり方はわが国では割とメジャーである。
過去には横山まさみちの漫画「やる気マンマン」のアザラシが有名だが、サザエさんのアナゴくんだって名前ばかりか顔のフォルムもアレそのもの、歌手のイルカの名曲「名残り雪」は枕元に転がったティッシュの事だと言うのが俺の今考えた説であり、ヤクザがチンコに真珠を入れるのもきっと海洋的な何かが作用しているのだろう。多分違うがそうだといいな。

コンビニと地域社会

以前郊外の国道沿いにある駐車場の広いコンビニで時間つぶしに漫画コーナーで立ち読みしているとレジ方向から何やらデカイ声で雑談している声が。
チラリと目をやると会話の主は作業着を着た50代半ばと思しき日に焼けた浅黒いおじさん、そしてその人に応じるレジの30代後半ぐらいであろう、パートの女性店員だった。

会計済みのコーヒーを飲みながらレジ横で話しかけるおじさんから投げかけられるのは問題発言をした政治家に関する時事問題に始まり自分の息子の話、そして近所の大型ショッピングモールの話題などなど、本当に取るに足らない話題ばかりだが、それに応じる女性店員も決してあしらう様子でもなく、二人してなかなか楽しそうな感じ。おじさんは常連でこの女性店員とは顔馴染みのようである。コンビニの午前10時頃、客も居ないのんびりとしたコンビニ店内できっといつも行われている光景なのだろう。

そういえばコンビニエンスストアが全国に一気に広まり始めた当時、コンビニについて論じている本に出会った。高校時代に読んだその本のタイトルや詳細は曖昧だが、一つハッキリ覚えているのは、そこには「コンビニエンスストア一店舗単位にはその店特有の存在感が無く、またそれが必要とされていない」というような内容。ちょうど近所にようやくコンビニが出来たばかりだったから強く印象に残っている。

あくまでコンビニは全国に何千店舗、ないしはそのエリアに数店舗あるものが、それを日常生活で何となく見かける人、利用する人の意識に薄く刷り込まれることによってのみ存在し、自社チェーンの特色だけが明確化すれば、別にその「特定の××店特有の何か」は必要ではない。むしろ各店舗特有の印象、個性というのは逆にそのコンビニチェーン全体のイメージを損なう可能性があるため嫌われている、ということだった。もの凄く乱暴に要約すれば「コンビニは地域に密着する気がなく、街中に溶け込まないどこか味気なく冷たいものである」ということを言いたげだったように思う。確かにあの当時、近所に出来たコンビニが自分の住む地域の中にあるのに何かよそよそしく感じたものだから妙に納得した。

「コンビニが若者の非行の温床に」

「コンビニは人間の我慢する能力を低下させる」

「コンビニが引き起こす地域社会の断絶」

そういえばコンビニ黎明期~発展期には、色んな角度、文言でコンビニに対するネガティブキャンペーンがに盛んに行われていた気がする。

何となくその気持ちもわかるものである。俺の地元にコンビニが初めて出来たときには上手く説明出来ない謎の嫌悪感を抱いたものだった。先ほど書いたよそよそしさの中には新しいものへの警戒心や拒絶反応とはちょっと違う何かがあった。

あれはきっとコンビニってのが朝から夜に飽き足らずそこからさらに深夜まで、つまり365日24時間営業していて、人間が太古より続けていた「朝日とともに起きて日が沈んだら眠る」というオリジナルの活動サイクルに背いて深夜も活動するビニコンのアグレッシブな姿勢に対するものだったのかもしれない。

それから考えれば今のコンビニへの見方って大分変わったように思う。もともと「地域」が感じられにくい都心部、繁華街ではコンビニは未だに過去の雰囲気を若干残しているかもしれないが、郊外におけるコンビニのあり方はどうだろうか。地方、郊外においてはいつからかコンビニの存在感、立ち位置は少しずつ変わってきていて、もはや決して地域に溶け込まない、味気なく冷たい場所などではないのではなかろうか。

最初に書いたおじちゃんと女性店員の雑談風景はまさにその一つ。今ではどこのでも割と当たり前のように見られる、かつての地元の商店が担っていたような地域の貴重な日々の社交の場としての役割を果たしているコンビニの現在の姿ではなかろうか。

 

...とまあ、散々小難しいことで文字数を稼がせて頂いた上で本日皆さんにお伝えしたかったことというのが実はその内容の大半とは全く関係の無い事で本当に心苦しいのだけど、最初にレジの女性店員と楽しそうに政治の話や家族の話、近所の話など至極健全な世間話を繰り広げていた人の良さそうなおじちゃんがだよ、一通り話し終わって満足するとすかさず俺が立ち読みをしていた雑誌コーナーに移動して来て、あろうことか成人誌コーナーに、あまつさえ手に取ったのが「30代人妻の熟れたなんとか」とか言うエロ本だったのである。

さっきまでの気の良い地域のおじちゃん然としたフェイスはどこへやら、営業マンなら誰しも欲しがるこの切り替えの早さ。あんた営業やんな、営業、と思ったものですが、いやあ恍惚とした表情で30代人妻の挑発的なポーズに「受けてタつぜ!」の観音顔やないですか。

「てめえさっきまで同じ店内でその『熟れたなんとか』と健全に雑談してただろうが!」

と心の中で燃え盛る俺のtukkomiの炎に対し、彼の背中はこう語る。

「俺はオン/オフ切り替えるタイプや!」

オン入ってしまったのはテメエの股間やでとはいったものですが、ひとしきりエロ本を目で舐め回すと当然のように買わないままそそくさと退店。国道目がけてマッハで駆け抜けるライトバンが眩しかった。そしてそれに対して何も知らずに「ありがとうございましたー」と一応の店員ボイスで告げるのは先程まで談笑していた熟れた30代・女性店員。

コンビニエンスストアは今日も地域社会をがっちり繋いでいるのである。

居酒屋トイレ特有のピースフルな雰囲気について

居酒屋の男子トイレに漂う妙にピースフルなあの感じが前々から気になってしょうがない。

よほど変なお店に行かない限り、一般的な居酒屋のトイレではなぜか入ってくる男子が皆人当たりが良く、腰が低く、おしなべて愛想が良い。いい人だらけである。

いい人だらけというより、いい人になってしまうといったほうが適当かもしれない。同時のタイミングで入ってきたもの同士が「どうぞどうぞ」と互いに便器を譲り合い、狭いトイレ内、人とすれ違う際にちょっとでも相手を避けさせてしまえば「あ、すいません」なんて気遣いがあちこちで見られる。ときには足下のおぼつかない人を見るや「大丈夫ですか」なんて積極的に気遣う姿勢。日ごろ見られない助け合いの精神に溢れている。

トイレが混んで外で並んで待っているときなど、全く見知らぬ者同士が「いやあしかし、ションベンが漏れそうですなあ」「いやはやまったく1000%おっしゃる通り(シャー、トバドバドバ)」と、何を言っても全肯定されそうな、そんなゆるい空気が蔓延している。そこにあるのは必要以上に互いを思いやる、ラブ&ピースな雰囲気。

おかしい、変だ、やる必要がない、などと言っている訳ではない。相手を思いやる気持ち、俺はいいと思う。思いやりで発電できるぐらいに、国をあげてどんどんやればいいと思う。だけどやはりちょっと不自然ではないか。思いやりに溢れた社会は望むところだが、残念ながら街中ではそれを一切見かけない現状がある。

いかにも人の良さそうな人ならまだ理解も出来るが「青春時代、男子便所での思い出は?」との問いに「はい。ズバリ、カツアゲとリンチです。」 と即答してくれそうな見た目には反社会性をたくわえた皆々様でさえ、ひとたび居酒屋の男子トイレに来れば「カツアゲより、かき揚げが好きですね。えっリンチ?それってミンチより美味しいのでしょうか...?」という具合に皆様大変お行儀がよろしくなる。

居酒屋トイレのこのピースフルなムードの理由を「ただ酔っぱらっていて気分がいいから」という理由で説明することは出来るだろう。楽しい飲み会の席からちょっと席を立ち一人トイレへ。気の会う仲間と来ていようと、付き合いでやってきた会社の飲み会でも、お酒が好きな人であれば、結局お酒が入ればそこそこ楽しく、離れた席に戻るまでの少しの時間、先ほどまでの楽しい酒の席を思い出し噛み締めていれば、自ずと表情はほころび、普段は歯牙にもかけないような赤の他人にも寛容になれようものだ。寛容どころかそれが積極的なサービス精神にだって繋がることもあるだろう。そうした人々が集合した結果があの居酒屋トイレのピースフルな雰囲気を形成するというのは確かにあると思う。

だが、果たしてそれだけですべて説明できるのだろうか。例えば酔っぱらい方は人それぞれ、皆が皆、お酒が入って気分が良くなるはずもない。酒乱と呼ばれる人を知人の中に知っているし、そういう人を思い出したときにお酒とは決して楽しくなるだけのものではないことも分かっている。時にはそういう人によって、酒の席で俺も嫌な目に遭っている。酔っぱらってよい方向に変わる人ばかりではないわけだ。

だが振り返ってみると、こと居酒屋のトイレでいえば、そこで遭遇した酔っぱらいには「どうぞどうぞ」されたことはあっても、未だかつて「てめえこの」と嫌な目に遭わされた事がなぜか無い。たまたま運が良かったからだろうか。どうもそうとはおもえない。なぜだろうか。

居酒屋のトイレとは、それまで各々がテーブルでお酒の入った非日常を楽しむ間、一瞬だけ冷静になれる日常の場かもしれない。それはまるで息を飲むようなサスペンスドラマに急に割り込むCMのような息継ぎの時間。一人になり、はっと我に返ると先ほどまで各々がテーブルではしゃいでいた自分を省みる。その醜態、ラブ&ピースどころではない。サーチ&デストロイである。

酔った勢いで世に放ったご自身の歪んだ性癖の発表や、面白半分、酔っぱらった勢いで他人の悪口をシツコク連発したり、本能のおもむくままにセクハラまがいのハレンチなJOKEを披露したダメな自分を、この便所でようやく客観視するのだ。

≪俺は酔っぱらってない、俺は冷静...≫

冷静でいたいが体は正直、どうやってもお酒が入って気分は良い。下のお口は正直だなとは言いますが、飲み過ぎのションベンは止まらず、舞い上がっている自分を嫌でも感じる。そんな酒の席でのダメな自分を挽回する為に、彼は必死で意識のしっかりしている冷静な大人を装うのだ。僕は人に気をつかう余裕がありますよ、酔っぱらって取り乱すようなことはしない常識人ですよ、と。他人の為ではなく、自分の為に。

酔っぱらっているものだからそれを行動に移そうとするとやはり大げさで分かり易いものになる。その結果が「どうぞどうぞ」なのではないか。俺はそう考えてる。俺がそうだから...。

時には自分より酔っぱらっている人をわざわざ心配する、なんて行動も見られる。これも根元は同じ。自分は人を心配する余裕がある、という内外へ向けたアピールなのだ。
「大丈夫ですか?」なんて言ってるヤツの顔が全然大丈夫じゃない場面に俺は何度か遭遇している。そしてそれをさも冷静な傍観者のように眺める俺の顔だってベロンベロンである。

女子トイレが同じかどうかは知らないが、俺が今まで見て来た居酒屋男子トイレは概ねこのような状況である。アメリカはシラフの状態から常にこれであり、また人前でここまで酔っ払うことは宜しくないとされているので、日本のあの居酒屋トイレの独特な雰囲気を懐かしく思っている。

拾った鍵を扉に挿して行く

鍵を拾ったとしよう。その鍵を持って目に入る鍵穴すべてに挿して回していけばいつかはどこかの扉が開くかもしれない。
しかしそれは途方も無く、またときに危険を伴う試みでもある。この世に扉は数多存在し、そして我々が自由にたどり着ける扉は全てではない。
そして仮に万が一鍵が開いたとしても、そこに我々を喜ばせるものが待っている可能性もまたさほど高くはないと思われる。
従い、我々は鍵を拾ってもその労力、確率の低さに対する得られる対価に鑑みてほぼ扉を目指すことなくその鍵を放置することになるだろう。

ではその鍵が合うであろう扉に多少のヒントがあったらどうだろうか。或いは形に特徴のある鍵で調べると特定できそうなものだったらどうだろうか。そうなれば話は別で、なんとなくその鍵をポケットに忍ばせ、チャンスがあれば挿して回そうという気になるかもしれない。

アド街観た。」

アド街観た。」というと付いてくる限定サービスがある。アド街、つまりテレビ東京の「アド街ック天国」を「観た」とお店の人にいえば期間限定で安くなったり、オマケが付いてくるアレである。

例えアド街を観ていなくても、自分がたまたま訪れた街が最近アド街ック天国に取り上げられていたとしたら、当てずっぽうでもいいから「アド街観た」と独り事で言うのは悪いトライではないのではなかろうか。

「いらっしゃいませ~」
アド街観た。」
「はい?何かお探しですか~」
「ええと、、、じゃあこのチーズケーキを」

会話の中に唐突に「アド街見た」が入ってきてはいるものの、店員と客の会話として何ら違和感はない。ならば言って損することはない。そこに僅かでも安くなる、オマケが付いてくる可能性があるのであれば、それは言わないと損である。冒頭に書いた拾った鍵を延々扉に挿して行くことを考えると大した労力ではないはずである。

「ブランチ観た。」

ブランチ、すなわち「王様のブランチ」を「観た」とお店の人にいえば、やはり同じように追加のサービス、オプションが付いてくるお店があるのだそうだ。先ほどと同じように、これも言わない手はないのではないだろうか。アド街とセットで使えば確率はグンと上がる。それもちょっと独り言としてつぶやくだけでである。

「いらっしゃいませ~」
アド街観た。」
「はい?」
「ブランチ観た。」
「ええと、お客様、今日はコチラがお買い得になってます、良かったらお手にとって...」
「あ、はい、じゃあこのチーズケーキを...」

不自然な独り言は増えたが、全体の流れには大きな影響は無さそうである。

「ゲンダイ見た。」

日刊ゲンダイを「見た」と言うと安くなる風俗店があるらしい。ソースは日刊ゲンダイである。ならばこれも言うしかない。あいにく俺はゲンダイ見たが風俗店以外で通用するケースを知らないが、何事も可能性である。その軽微な労力に対する見返りの大きさを考えるとこれもついでに言わない手はない。

「いらっしゃいませ~」
アド街観た。」
「はい?えっと、何かお探しですか~」
「ブランチ観た。」
「ええと、お客様、今日はコチラがお買い得になってますので、良かったらお手にとって...」
「ゲンダイ見た。」
「お客様?」
「あ、いえ、、、じゃあこのチーズケーキを」