ディズニークルーズでなぜかYMCAを踊らされた

今週は丸々一週間休みを取り家族でディズニークルーズへ行ってきた。フロリダ州のオーランドからバスに乗りディズニーが持ってるデカい船でバハマへ行くのである。

クルーズ船内はディズニーが溢れ、毎日イベント三昧、立ち寄った島では一日中ビーチで遊び夜は連日豪華なディナーである。お察しのとおり俺とディズニーの関係は浅く、そして極めて薄いものであったが、そんな俺でも最終日には売店ミッキーマウスのTシャツを購入しそれをまとって帰宅したほどであるが実際のところ持ってきたTシャツが1枚足りなかったからです。

この旅行を通じて、皆々様にいかに俺が楽しんだか、撮った写真などを交え高らかに自慢したい、声を大にして伝えたいディズニークルーズ最高情報は山ほどあるが一度には到底書ききれないので皆様には一番印象に残ったエピソードでもってその素晴らしさを感じて頂きたい。

先ほど書いたとおりディズニークルーズの醍醐味のひとつが船内でのイベント。オープニングパーティから始まり、そこら中を練り歩くディズニーキャラクターたちとの写真撮影、船内にはプールやスポーツ施設もあれば、船内をフルに使った探検ゲームの類まで、子供連れには嬉しい1秒たりとも飽きさせないイベントの数々には2人の子を持つ父親としては大満足、とうとう最終日には売店ミッキーマウスのTシャツを購入しそれをまとって帰宅したほどであるがそれは先ほど言ったように持ってきたTシャツが1枚足りなかったからです。

そんな船内イベントの中でも夕方から夜にかけて毎晩行われる劇場でのミュージカルは圧巻であった。王道のディズニー作品ミュージカルあり、ディズニーだから出来る過去の名作のコラボレーションありと、ディズニーに全く思い入れも何もないこの俺ですら「すげえ」と素直に思ったものであるし、ミッキーマウスのTシャツを買って帰ったのもあながち持ってきたTシャツが1枚足りなかったことだけが理由ではなく、俺はミッキーマウスが、ディズニーのことが好きになっちゃったのである。

それを決定付ける出来事が件のミュージカルの最中に起きたある出来事。それはミュージカルの中盤、ストーリーの途中で突然幕が下りアナウンスが始まったときから始まる素敵な物語であった。

《技術的なトラブルで一旦中断します しばらくお待ち下さい》

最初にアナウンスを聞いたとき、そういう演出なのかと思ってしばらく事態が飲み込めず見渡すと、やはり周りの外国人も同じような反応。そのうち、本格的にザワザワし始めたところで女性司会者が登壇し改めて「技術トラブルによる中断である」と我々に説明する。ようやく会場が「おいおいマジかよ」という反応を始めると、席を立つ人、立とうとする人、どうするか話し合っている人、色んな反応が会場で起こり始めまさに緊張の糸が切れかけようとしたその瞬間、俺のすぐ近くの50代ぐらいの白人男性が突然大声でこう叫んだ。

「We Believe!!!」

それはミュージカルに出てきたセリフを引用した「俺は待つぞ!」のメッセージである。それを聞いた会場は笑いと拍手に包まれ、混乱しかけた会場は一気にまた一体感を取り戻そうとしていた。

「ゆ、USAや...、これがUSAやでェ!!!」

目の前でザ・USAをまざまざと見せ付けられた俺の中でユユユSA...ユユユSAとISSAが踊りだす。

しかし、そんな小粋なUSAエピソードを間近で見た感動から10分が経過しようとしていたが肝心の技術的なトラブルとやらは一向に解消する気配もなく段々とまた会場から出て行く人が現れる。なんや、ほんだらもう一回ワシがWe Believeいうたろか~、Japanese JokeのTendonや!などとよからぬことを思案していた時であった。

先ほどの司会者が再び現れると申し訳ないがもう少しかかるという説明をしたその後に、その場にいた全員が耳を疑うようなことを言い放ったのである。

「こんなときだから、みんなでYMCAを歌いましょう!!ミュージック、スタート!!」

「えええええええええ!!!!!!」であったが疑問もクレームも入れさせねぇぞとばかりに間髪いれずにBGMスタートである。これには流石のアメリカ人も大困惑。普段なにかあっちゃあYMCAを踊っている彼らもここでなぜYMCAなんだ、WHYだぜ!とばかりに困惑の表情であったが、下の口は正直といいますか、音楽が流れれば体が勝手に動くらしくミュージックスタートに合わせてゾロゾロと起立し出せば後は勝手に「ヤングマン!」と歌いだす始末。

「ゆ、USAや...、これもUSAやでェ!!!」

天下のディズニーも困ったときはYMCAに頼るという事実に大変驚いたが、アメリカでYMCAを集団で踊れる機会など滅多にある訳もなく、俺もここは記念にと迷うことなく立ち上がり日本で学んだY.M.C.Aをカマしてきた次第であるが、俺が満面の笑顔で「ワーイ・エム・シー・エー!」とやっているその最中、先ほど「We Believe」とか調子のいいこといっていたオッサンがド真顔で帰っているのが見えた。

アメリカで運転免許を取得した時の話

日本人がアメリカで運転免許を取得する方法というのは州によってさまざまで中には日本の免許があれば極めて簡単な手続きだけで免許が交付される州もあるが、基本的には学科試験、実技試験が必要な州が多いようだ。日本の免許を持っていれば適性検査のみで済むのはほぼ共通の様でハードルとしてはあまり高くないように思われる。

母国の免許をすでに持つならば渡米してすぐに全員が取得させられる社会保障番号、および自宅の住所を証明する自分宛のはがきや封筒等2枚を持参出来る状況になった時点でアメリカの免許を取得する準備はOK。町の商業施設などの一角にある運転免許証やナンバープレートなど自動車に関わる全般を取り扱う公的機関(ミシガン州ではSOSという名前)で簡単に学科試験を受けることが出来る。予約は必須。カウンターに並び、自分の順番が呼ばれると部屋の隅っこにあるテーブルに座っていきなり試験開始。言語を選ぶことが出来、ミシガン州の場合は試験は日本語で受けることも可能である。

タッチパネル式の問題を答えていくとこの日本語訳のヤバさに段々気づいていくのだが例えば「車間距離が小さいと車の前と後、どちらにぶつかるか」という問題については「俺が後続車にのりし者なのか、前を走る車側なのか教えてくれんか」と言った具合に車の問題というより途中から完全に日本語の意味を理解する読解力の問題になってくる。中には「そrは」などという変換ミスもそのまま残っているという事実からそのいい加減さ、ヤバさをわかって頂けるだろうか。間違ってよい問題数が決まっており、答えるとすぐに正解、不正解がアナウンスされ「あなたはあと〇回間違ったら終了です」も画面上に表示されるドキドキシステム。

晴れてこの学科試験に合格すると次は路上試験である。路上試験を行うことの出来るドライビングスクールの名簿を渡され、好きなところへ電話して試験を受けろというのである。試験はその辺の教会の駐車場で実施され、一端停止、バック駐車、縦列駐車を行ったあとはハイウェイ走行を含む路上試験の始まり、という流れ。

俺が選んだのは幸運にもこの界隈で最も甘いとされるスクール。馬鹿でもわかりそうな、その名もABC社である。結論としては難なく一発合格となったのだが、人によってはこの教会ステージで「一端停止が甘い」「車の整備不良」などという曖昧な理由で不合格とされて試験料金没収の上不合格とされる人もおり、従いこのスクール選びで試験の合否の大半ほぼ決まると言っても過言ではないのである。

この路上試験を受けたのが渡米して2ヶ月の頃だっただろうか。英語も拙い中で知らないアメリカ人と30分のドライブ。それだけでも結構緊張するというのにその直前になって路上試験中に助手席の教官から英語で必ず1つ質問を受け、それが路上試験における結構大事な採点項目になるというマル秘情報を知ってしまうといよいよ心中穏やかではなくなってしまった。

先輩駐在員にこの話を聞いても反応が芳しくない。皆同じく渡米してすぐの頃に試験を受けているためかこの質問の内容を上手く聞き取れずその内容が全くハッキリしないのであるが、確実なのは皆何かしら教官に質問を受けており回答を求められている事である。

「運転中にワーーっとまくし立てられ、分からなかったので何度も聞き直したら『もういい!』と怒られた」

「分からなかったので停車したら『ノーーー!』と言われた」

アメリカ人にマンツーマンでまくし立てられ、答えられないと不機嫌に呆れられる。恐怖である。この様な話を聞くと一つのことが解決しないままに話が進むと前の件をずっと引きずってしまい次のことが全く頭に入ってこない俺のようなタイプなどには地獄。放っておけない懸念事項である。

それからというもの得意のインターネットを駆使し果たして路上試験中にどんな質問がされているのかを特定しようと躍起になったものであるが調べども出てくるのはアメリカ駐在妻のブログばかり。それがまあ旅行へ行っただのメシを食ったの布団で寝ただのといった至極どうでもいい話ばかりで申し訳ないが役に立つ情報が全くないんですね。まあしかし俺の冴え渡るインターネット・リサーチ能力がその様な駐在妻のライフスタイルの中から有益な情報を見つけ出すまでに1日と要らず、結果としてある一つの間違いのない事実にたどり着いたのである。

「何か聞かれたらとりあえず『ショルダー』と言えばいいらしい」

これは『アメリカ 路上試験 質問 回答』という冴え渡るインターネット・キーワードで出てきたあるアメリカ駐在妻の方のブログに書いてあった一文なのだが、結論としてはこれを完全に鵜呑みにしました。だってこれが一番簡単だったから...。

「ショルショルショルショル...」

路上試験が始まるとショルダーを忘れぬよう念仏のようにショルダーを唱えたものである。そして路上に出て数分後、助手席の教官から早速質問が飛んでくる。

「Could you please afaojfoj○×▲.....」

「ショルダー?」

「Sorry?」

「ショルダー?」

早速ショルダーの出番である。こんなに早く来るとは思わなかった。全く油断もすきもあったものではない。つーわけでショルダー砲は敵に命中、見事撃墜である。よっしゃあとはビュンビュン飛ばすでぇ~。

しかしである、俺のこん身のショルダーアタックにも関わらず敵は死ぬ気配がないばかりかまだ何か言ってくるわけである。

「No, Please turn on ○×▲...」

「Sorry?」

「Radio! Turn on!」

Radioぐらい分かるよ馬鹿野郎と俺の中のキタノが叫ぶ。徳永英明聴いてんだよとキタノが吠える。言われるがままにラジオをオンするが、いやいや俺のショルダーはどうだったんですか。(後に分かったことだが運転中にラジオの音量などの操作が出来るかどうかを見るのも試験の一つなのだそうだ。)

その後何度か質問とも言えない世間話のような問いかけがあるたび、俺はその内容が理解できずとりあえず「ショルダー?」と一応言ってニコニコすることとした。その甲斐もあってか、俺は路上試験一発合格、こうして質問に対して「ショルダー」と答える説は正しいのだと証明された。

駐在妻のブロガーの皆さん、どうもありがとうございました。

息子、小学校へ入学

アメリカの小学校は8月から。入学式もないアメリカの小学校へ入学する息子より30分早く、「では行ってくるね」と何時もどおり車で会社へ出勤した。

自分の息子の小学校入学をかくも地味に平素と変わらぬ朝として過ごしてしまうとは思わなかったが、とにかく息子が小学生になったのだという事実に変わりはないものである。

入学の一週間前に、息子の担任の先生になるというアメリカ人女性から父兄に向けた挨拶のメールを受信した。まずは入学おめでとうから始まり、簡単な自己紹介と、これから皆さんをお迎えしてとてもうれしく思いますといった内容。小学校の説明にはここがどんなにすばらしいところか、どんなに皆様をお迎えすることを心待ちにしているかといった言葉が続く。

ああ、アメリカでもこんなことをするんだなあと、ここまでやってくれる学校、先生なら安心だなどと思いながらメールを読み進めると、

最後のほう

「さて、説明しましたとおり私は皆様の担任となるわけではありますが、実は皆様の入学の日はあいにくカリフォルニアへ家族と旅行へ行っております。」

「へぇ?」

「なので皆様とお会いできるのはその翌週の月曜日になります。私はいませんが、どうか元気な姿で学校へ来てくださいね。では。See you...」

「See you...??」

俺も大概のことでは驚かないし、かりてきた関西弁などを用いて大げさに突っ込んだりなどすることはないのだがこれには流石に「お前来いやああああああ!!」と突っ込んでしまった次第。

仕事よりも休みと家族を大事にする正しいアメリカ人の姿がそこにあった。

テレビ会議が苦手である

皆さんは多拠点間での電話会議、またはテレビ会議をやったことはあるだろうか。

普通の会議と違って大人数にも関わらず完全なフェイス・トゥー・フェイスではないというのは妙にやりづらいものであって、特にマイクや画面の向こうにいるであろう大人数に向かって発言するときの独特の緊張感というのはなかなか慣れるものではない。先日も電話会議中に誤ってゲップをしてしまい「聞き取りづらかったのでもう一度良いですか」と言われたばかりだが、このように電話会議、テレビ会議は勝手が違うというかどうも苦手である。そんな俺も1年前から海外赴任が始まると日本側との会議は当然こうしたシステムに頼らざるをえず、その頻度は高まるばかり。向き合っていかねばならない。

全国10箇所近くの拠点、及び海外拠点を持つ我が社も早くから電話会議システムは導入されていたが、最近ではより実際の会議に近いスタイルでと、テレビ会議システムもここに続き、今でははなくてはならない存在となっている。とはいえ、急に進められたテレビ会議システム導入。当初は社員、特に年配の方々の中には戸惑いもあったようで、色んな珍プレーも見られたと聞く。

これはメーカーにもよると思うが、我が社で多拠点でのテレビ会議が実施される場合が多く、スクリーンには参加拠点の一覧が、それを映す画面として並びマイクが音声を拾った拠点、つまり発言拠点が「発言者」という表示とともに中心に大写しとなるスタイルになる。

マイクを切り忘れて、他拠点の発言中に不要な音声を発信していまうと画面がアップになった上「○○さん、マイクを切って下さい」と注意され大変カッコ悪いため、発言する予定のない拠点はマイクを切るなりして不規則発言が全社に配信されぬよう気をつけるのだが、逆に言うとミュート中の画面は小さくなり音もしないのでそこで何をしているか、全く分からず俺のように完全に油断しきって他の拠点から寝てるのがバレてメールが来ることもある。

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このようなテレビ会議の性質は会議参加の参加意識、緊張感を低下させる一因のようでなかなか難しいものである。

一方で、どんなに注意していてもマイクをきり忘れる人は会議のたび必ず一人いるもので、中には全社会議の始まる直前、各拠点が揃ってさあこれから始まりますよというタイミングでミュートし忘れたマイクに向けて「ヴェー」とゲップをしてしまい、私がゲップをやりましたとばかりにアクティブになった大画面の中でジジイが「発言者」として大写しになったこともあるがあれはとても悲しい事件であった。最初に書いた俺のケース同様、この手の遠隔会議システムにおいてゲップは天敵なのである。

また、頻繁に起こるのが誤って違う会議に参加してしまうオッサンである。チャットルームのように、10ほどあるトークルームの1つを予約し、そこに同じ会議に参加する社員が入っていくシステムにおいて、ジジイの誤入室が多いこと。しかもよそのテレビ会議に間違ってオンしたときに限ってテレビ会議システムを起動させたノートPCの内蔵カメラがオンになってまさかのセルフィ、間抜けヅラどアップでの登場である。

この手の迷いジジイのすごいのは状況を認識するまでに結構時間が掛かるということで、しばらくボケーっとよその会議をセルフィどアップの画面のまま見つめたかと思うと無言で退室していくのを見るにつけ、チャットレディは毎日このような光景を何十回と見せられるのかと甚く感心した次第。

使う側の問題かとも思うが、現状ではなかなか実際の会議と同じようにはいかないのがこの手のシステム。マイクを切った小さい画面の中で落書きをしながら、会議自体なくなればいいのにと今日も思う俺である。

どういうゴキブリなら俺たちは許せるのか

アメリカの俺の住む地域は緯度が北海道とほぼ同じ。冬はマイナス20度にもなり、ゴキブリもいない。ゴキブリが大嫌いな者にとってはそれだけで永住したくなるというもの。そう、俺も皆様と同じくゴキブリが大嫌いである。

かつて職場にて「なぜゴキブリはあんなに気持ち悪いのか」について話していた。大嫌いだから真剣だ。まずゴキブリという名前に関してである。一介の虫のくせになぜあんなに特殊な名前がつけられているのだろうかという疑問が生じ、そこからゴキブリの気持ち悪さのヒミツを分析した。元々は「御器被り(ごきかぶり)」、皿にもかぶりつくほどなんでも食べることから命名されたらしいのだが、だからってその俗称をそのまま正式名称にすることもあるまいとは思ったが、そもそもこの「御器被り」という漢字のまま、和風で中世日本を思わせるようないささか雅なネーミングでさえあれば、非日本語的で虫を超越したような現在の「ゴキブリ」という名前より何万倍もマシだったかもしれないと今では思えてくる。

まあ、そこまでは求めないにしても、最低でもその名前をゴキブリ以外、ただただシンプルに「○○ムシ」などというおあつらえ向きなものにしてくれさえすれば、『ヒトにとっては取るに足らないムシの一種』という、人対虫という圧倒的な力の差、パワーの違いを持ち込めるし、現代、ますます高まるゴキブリの”超虫的”別格の扱いも、あの気持ち悪さも幾分かは薄らぐのではなかろうか。

では仮に「クロムシ」という名前にしよう。そしてある家族のすむ家にクロムシが出たとしよう。

「あっ、お父さん、クロムシが出たよ」
「ああ、クロムシか。クロムシね。クロムシとて取るに足らないムシの一種。網で捕まえて捨てなさい」
「お父さん、クロムシなんか気持ち悪いね」
「うーん、でもただのムシの一種なんだぞ。捕まえて捨てなさい。」
「えー、クロムシなんかすばしっこいよ。お父さんがクロムシ捕まえてよ 何か気持ち悪いんだ」
「よーし、しょうがない、クロムシは別格にキモいからクロムシホイホイを買ってこよう」

結局ゴキブリの気持ち悪さっていうのは名前の問題ではないのだ。今更いうまでもないか。

この親子の会話の中で使われている「クロムシ」という言葉が連呼されるにつれ次第にあの虫をイメージさせる独特の気持ち悪さが加わっていったのを感じたのは俺だけだろうか。結局生き物の名前というのは、その生き物の存在自体が強烈だった場合は生き物それ自体の印象や性質を表現する「媒体」でしかなく、いくら他の言葉で表現したってどんな名前だって、最後には同じ印象を与えるものに戻っていくのだと俺は思う。

ならばと、仮に「ミッキー」という名前に改称されたとしても、やはり同じなのである。「ミニー」も残念ながらあの虫の気持ち悪さを薄めることはできない。むしろ何かあの触覚の長い感じをより的確に表現したような名前で、「ゴキブリ」とは別の気持ち悪さを出す可能性もある。ならばもうわざわざ見当違いの名前や、そのムシの印象をあえて薄めるような名前にしたって無駄だといういことだ。どうせ気持ち悪いのが変わらないのであれば、出現時にその名前を出すだけで警鐘を鳴らせるような強烈な名前にしたほうがかえって良いのかもしれない。

世の中にいる虫の名前が最初は全て「○○ムシ」だったとしよう。昔の人はそれら「○○ムシ」を見るうちに次第にそこに嘘っぽさを感じたのかもしれない。ゲジゲジに名前をつけた人はやはりそこにゲジゲジ感を見たのだろうし、蚊の小ささ、そして人に叩かれる彼らの儚さを「か」という一文字で表現した人もいたのかもしれない。御器被りが例えばゴキカブリムシではなく、そこからさらに非日本語的で超虫的な気持ち悪い「ゴキブリ」になったのも、仮説の中での話しだがなんだか頷ける。やはりゴキブリはなるべくしてゴキブリになったのであろう。普通の虫を超越した、そういう生き物なのだ。

こうして俺の脳みその中でまず、なぜあんなに気持ち悪い名前にするのかという疑問にある程度理由をつけることができてしまった。

名前はもういい、ゴキブリが気持ち悪いのはその動き、色形、性格、枚挙にいとまがなさすぎる。この中にゴキブリの関係者がいたら申し訳ないが簡単に言うと存在全てが気持ち悪いわけである。もうこれはゴキブリが人間に忌み嫌われるために生まれてきたとしか言いようが無いのではないだろうか。

だがいくら嫌ってもゴキブリは居なくならない。頭のいい、偉い人がいうには、人間が居なくなってもゴキブリは生き続けると言われているからもう絶望的である。かといってゴキブリと共生するのはやはり不可能。我々が高度な知能を持ってしまった以上、相容れぬ生物であると考えざるを得ないのである。

こうなったらもう空想の世界に逃げ込むしか道は無いじゃあないか。日本は今まさにゴキブリの季節の只中であろう。そんなこのハイシーズンに、一体どういうゴキブリだったら許せるのかという想像の世界を楽しもうではないか。それしかない。

まずあの茶黒い色を何とかしたいものですね。あれがなければひょっとすると全く別の生き物に見えるかもしれない。仮に白だったとしよう。白くて大きな虫がカサカサカサ...おおおおおおおお、なんと言うことっすかね、余計気持ち悪い。むしろ茶黒でよかったとさえ思える別の不気味さ。それに気付かせてくれた今回の白色。白さんありがとう。ゴキブリが出たときは「白よりはマシかー!」と軽くかわせるくらいになりたいものだ。

では、あまり刺激の強そうではないカーキはどうだろう。カーキの大きな虫がカサカサカサ...あららら、白と比べて衝撃は少ない。しかも茶黒よりはマシかもしれない。だけどもなんだか彼らに「擬態」というの更なる特殊能力を与えてしまったようであり、今までのブラックの自己主張が無い分より生物としての狡猾さ、能力を増されてしまったようなそんな脅威を感じる。いよいよイルカを越えたかと言う感じだ。越えられてたまるかよバカ野郎!

そもそもゴキブリという生き物の不思議な点は、発見したくは無いがかといって音などによって一度その存在を確認してしまうとスグに発見して殺さないと気が済まない。見たく無いけど居るのならすぐに発見したい、そんな難しい生き物だ。よって発見がされにくいカーキ・茶色・灰色などの地味な色はだめだ。

じゃあ逆にということで赤は考えるまでもない。ショック死する人続出だ。

頭の中では他にも色々考えてみたがどれもそれぞれの色でものすごく恐ろしかった。みんな違ってみんなキモい。NIKE IDのように頭の中で色を変えてみて分かったのだが、どうもオリジナルの茶黒が一番マシかもしれないとも思い始めた。おかしい。ひょっとするとこれは我々の諦めを含んだ「慣れ」というやつが作用しているのかもしれない。悲しい。

では色はもう諦めよう。次はルックスだ。あの変にテカった背中に無駄に長い触覚。触覚と言う単語を聞くとまずはゴキブリのそれを想像してしまうほどに彼らのトレードマークでもある。じゃあこれを何とかすればどうにかなるかもしれない。思い切って全て変えてしまおう。ちょこちょこ変えてもらちがあかない。ルックスに対して我々が抱くマイナスイメージを根本から変えるには、いささか乱暴だが完全に他の虫のルックスを借りてくるしかない。

ではボクらが大好きなカブトムシにしてみましょう。家の中にカブトムシが突然カサカサカサカサ....うーん、全くつかまえる気にもならない。出て行ってほしい。そもそもカブトムシもまあまあキモくないでしょうか。とんだとばっちりではあるがそういう事も思い始めてきた。

大体、カブトムシは山に分け入り、蜂の襲撃、農家の説教、カナブンとカブトムシのメスを間違えてしまうなどの幾多の苦労を越えてつかまえるからこそのカブトムシであって、冷静に考えてあいつだってちょっとルックスは気持ち悪いと思う。あれだって家の中に何匹も居たら相当嫌ですよね。

トキが群れで飛んでるのを見て一匹一匹にトントンだかキンキンだか名前をつけるやつなどいようか。日本に二匹しか居なくてこそのトキだったのだ。俺はそう思う。なんか話が違いますか。

結局ルックスの考察から分かったことは、ゴキブリは勿論それ自体図抜けて気持ち悪いのだが、「家の中に居る」という状況下、そして人間の生活圏にガンガン入ってくるという設定では多少の衝撃の度合いは違えどルックス如何に関わらず大体の虫は気持ち悪いということだ。

昆虫の中でも人気者のカブトムシでこれなのだからそれ以下の動物で代用しても結果は分かったものだろう。ゴキブリのもともとのルックスから少しだけマイナーチェンジするなんて試すまでもない。こうして色んなゴキブリの形体を空想の世界で試してみたものの、やはりどれも気持ち悪い。

こうなったら完全に動物の様子から離れなければならない。毛糸やプラスチック、紙、粘土など色々試した結果、それまでの想像からは格段に薄らいだもののまだどれもやはりどこかに気持ち悪さを持っていた。

そして頭の中での孤独な協議の結果、「もう完全に機械でなければどうしようもない」という結論に至った。これはもう生物としてのゴキブリ、全否定である。

こうして空想の世界でとことん歩み寄りを試みた俺なんですが、ごらんの通りゴキブリという生き物は人間にとって完全に相容れぬ輩なのだということを認識した次第であります。残念です。