クリスマス前、俺は真夜中の築地市場でイチゴを警備した

とうとう築地市場豊洲へ移転したと聞いた。この話をまさかアメリカで知ることになるとはかつてあの場所で働いていた自分は思ってもみないだろう。

思い出せば俺が20代前半に築地市場の青果部門で働いていた時分から「夢の豊洲市場移転!最新鋭の豊洲市場で更なる繁栄を!」的なスローガンは偉い人が声高に叫んでいたものである。あの当時車で予定地を見に行ったことがあったがその頃は周囲に何も無くただ油断しきった作業員のジジイが立ちションをしていたので思えばアレの蓄積が後の汚染物質になり揉めたんかなあと感慨に耽る次第。

今では跡地となってしまった思い出の築地市場。徐々に薄れゆくあの日々をこの機会にまた振り返り記事として残していきたいと思うが、思えば今でも築地の思い出はその時々の旬な果物と共にある。年末の前にはクリスマス。ケーキ、イチゴの季節である。クリスマスで思い出すのは、12月の第二週かそこらに夜中の築地市場でイチゴ泥棒からイチゴを警備した悲しい思い出。少し振り返ってみたいと思う。

 

「年々商業化が加速し、若者向け、特にカップル向けへと突き進んでいるきらいのあるこのニッチなイベントが、何故いまだに我が国で飽きられずに残っているのだろうか...!」

クリスマスとの距離が最も遠くなってしまった学生時代、高円寺の風呂無しアパートで一人、ワンタンをご飯の上に乗せただけの通称「ぎりぎり丼」をおかわりしながら、俺はそんな極めて大学生的なことを大学生っぽく考えていた。12月25日AM1:30。結局何も答えは出ず、ワンタンの買い置きがまだあることを確認すると、俺は台所で体を拭いて静かに眠りについた。頬を涙がつたっていた...。

実際、なぜクリスマスがここまでわが国に根付いたのかは自分なりに考えてみたことがあった。その結論はケーキとイチゴの存在である。この舶来の異文化に対し日本人が唯一理解出来る部分、それがクリスマスのメインを飾るケーキとそこに乗っかるイチゴの存在ではないか、そう思ったのである。ケーキという限りなく神輿の形状に近いあれ。そしてその上にどっかと御鎮座まします御神体はそう、イチゴ。あれはケーキの形を借りた、いわゆるひとつの「神輿」だったのだと。日本人はケーキにジャパニーズのトラディショナルな部分を見出し、それを家族なり恋人なりで、卓上にて小さく囲むことでわっしょいわっしょいと、日本のものとして違和感なく受け入れてしまったということ。頬をつたう涙を拭くティッシュもなく、濡れた頬そのままに俺は寝るに眠れずワンタンの買い置きがあることを確認した後、天井に向かってそう力説していた...。

 

それから数年後、そんな俺がクリスマスと再び向き合うのは大学卒業後、築地市場で働き始めた一年目の冬のことである。俺がいたのは青果部門。それは産地から集められし大事な御神体であるイチゴ様がケーキに着座する直前、かりそめの宿とする神聖な場所。

そんなクリスマスを司る神ともいえる大事な御イチゴ様であるから、12月も第二週へ近づくと大手洋菓子メーカーを中心としたイチゴ争奪戦が繰り広げられるのも当然の話。本来ハイシーズンでもないため流通量は少ないイチゴ。クリスマス需要の高まりでイチゴの価格は日々跳ね上がり、この時期の築地市場ではケース単位、パック単位の欠品でも怒声を伴う揉め事が日々発生する。

そんな状況であるから当然、そのイチゴを盗んで高く売ろうと画策する悪い輩が現れるのも残念ながらこの季節の風物詩である。イチゴに限らず築地には常駐の盗人が何名か居たのだが、イチゴの場合はケーキという間違いの無い需要に支えられ、また重量の割りに高値が付く事もあってか特に狙われる量と頻度が高かった様に思われる。

流通の最上流である市場には全国各地から集められた色んなイチゴがやってくる。これから市場で取引されるもの、先行で値段と買い手が決まって一時的に保管されるもの、それらが市場内にある保冷庫に所狭しと並べられるのであるが、イチゴ泥棒が盗むのはそうした保管中のイチゴである。詳しくは理解していないが、とにかくクリスマス前になると保冷庫には膨大な量のイチゴの乗ったパレットが置かれ、入りきれないものは保冷庫の外にまで並んでいた程、なのであった。

12月のある日、俺は会議室へ呼ばれていた。俺の他に三人、同じく呼ばれた若手社員の前に現れた築地市場、果物部門の部長から言われたのは、「君たちにイチゴを泥棒から守ってほしい!」という衝撃の指令。何が衝撃かといえば、内容のファンシーさよりも僅か5分程度の指令伝達にわざわざ会議室を取ったこと。「では、解散」と言われて会議室を出た面々、口々に「内線で済むだろ」と言っていた。

指令の内容は簡単である。12月のピークに近づくにつれ多発する夜間のイチゴ泥棒に対し、現在の夜勤作業員だけでは手が回らず、体力のある若手社員が日を替えながら夜通しで巡回し怪しい者をチェックし、出来れば確保せよ、という内容。警備という類の受け身のものではなく、命じられたのはどちらかというと積極的に嗅ぎ回り、悪党を退治しろというかなりアグレッシブツかつデンジャラスな任務のように思われた。そのような危険作業を素人に任せて大丈夫なのだろうか。こちらの持つ武器はミカンのダンボールをあけるときに使うカッターナイフぐらいである。

そして12月のクリスマス直前。確か22日かそこらが俺の警備担当の日だった。夜10時、いつもなら寝ている時間に出勤である。久しぶりに見る平日の夜の電車。皆さん、俺はこれからイチゴを守りにいくんですよ、と心の中で叫んでいた。

それにしても慣れない夜勤、慣れない警備の仕事は大変辛く、事前に「築地市場内部の者が怪しい」とは聞いていたものの、この日の現場ミーティングに参加してみれば「怪しいやつがいたらみんなで声掛け合って...」とか言ってるけどハッキリ言ってその全員軽犯罪は10代半ばで全クリしてそうなカンジだし、ノーヒントでこれはキツいとばかりに適当に外観の小汚いヤツを発見したら暫く尾行しては諦めたりを繰り返し、そんなことをしながらひたすら年末に近づき寒さを増す深夜の築地市場でイチゴの周囲を「さむいさむい」とウロウロするばかり。

そんな感じで夜中1時。とても果物を守っているとは思えないSPのような厳つい顔でイチゴさんの周囲を張っていたが何も起こらず休憩時間。30分の休憩にもかかわらず、休憩室で熟睡をカマした瞬間に電話で起こされ完全に寝ぼけた状態で現場へ駆け足で向かう途中、若干上がっていたフォークリフトのツメでスネを強打し戦意喪失である。

フォークのツメでスネを打つ。肉体労働現場では割とあるあるのこのアクシデント、これはもうマジで死ぬほどの痛さなのである。寝ぼけと痛さの相乗効果か、意識を失いかけた俺はそのまま現場にしばらくへたり込み、顔面蒼白、意識朦朧で死期を悟った猫のようにヨロヨロと築地市場の端っこにある売れ残りリンゴのダンボール置き場へ身を潜め、内線携帯の電源を切ると遠のく意識の中、ワンタンの買い置きがまだあることを確認すると、台所で体を拭いて静かに眠りについた。

 

「犯人逮捕」が知らされたのは翌朝のことである。

内部の者の犯行だったそうだ。まあまあ、そんな過保護のイチゴちゃんの安否なんてどうでも良いとして、そんなことより心配なのはあの後の俺である。フォークリフトでスネを打ち瀕死の俺はどうしたかというと、真冬の夜中を極寒のリンゴ置き場のダンボールとダンボールの隙間で震えながらも熟睡して過ごしたのに目覚めたら奇跡的に健康体。打ったスネだけはもの凄く腫れていたが、そんなことよりもヒトなのに果物であるイチゴの手下的な扱いを受けたことにより負った深い心の傷がハンパなく、翌日は有給を取りたいと思っていたが現れた上司に「よし、今日もそのまま頑張れ」と言われるとそのまま早朝から日課である静岡県産高級メロンを200ケース地べたに並べる仕事を始めていた。

「なるほど!夜勤明けでも、そのまま寝ずにノンストップで働けば簡単に元の生活のリズムに戻せるぜ!」というわけである。皆さんがクリスマスに食べるケーキにイチゴが、御イチゴ様が乗っていたらば、その裏に隠された男達の物語を思い出すといい。

中野駅前のラスベガス

ファミコン、ファーストフードに炭酸飲料と子供のころに親から色々と禁じられていたものが多かった関係でいつしか感心すら抱かぬようになり、結果としていやと言うほど自由を与えられることとなった大学生になって初めて体験するものが多かった様に思う。

進学と共に家を出て自分の考えで自由にそれらを経験をしていくうちに徐々に当たり前のものとなっては来たものの、食に関してはなかなか改まらず、ファーストフードや炭酸飲料は「砂や泥水を飲んだほうがマシ!」という親の洗脳教育の結果今でも飲むときは妙な罪悪感があり、結婚した当初は妻に「炭酸買っていいかな」などとたずねたり「週末はマクドナルドへいこう」など目を輝かせて提案して失笑されたほどである。

そんな家庭で育ったものだからゲームセンターという場所に親の同伴なしで初めて入ったのは大学生の頃、中野に住んでいた同じ大学の数少ない友人のフクダ君と共にであった。

フクダ君はスポーツ推薦で入ってきたバリバリの体育会で、俺と同じように父親がめちゃくちゃ厳しいという家庭環境もあってそれまでゲームセンターにはあまり入ったことがなかったのであろう、ある日の夜、隣駅の高円寺に住んでいる俺に「中野駅前にすげえところを見つけたから来いよ」と連れて行ってくれたのが駅前にあったゲームセンターであった。

俺が親の同伴無しに入った初めてのゲームセンターは父親の言う不良の溜り場でも恐喝の横行する治安の悪い場所でもなかった。子供も大人も、男も女もみんなそれぞれが楽しめるゲームに向かって楽しそうに遊んでいる。

子供向けだと思っていた俺のイメージを覆すスロットやカードゲームを模したマシン。ギャンブル性や娯楽性の高い大人のゲームセンターがそこにはあった。特に俺が没頭したのが機械制御の競馬場で小さな馬が走る競馬ゲームである。競馬場の周りの椅子に腰掛け、スクリーンに表示されたオッズを眺めながらコインを賭けて一喜一憂する。コンビニで買って持ち込んできた缶チューハイを飲みながらフクダ君が言う。

「どう、ラスベガスみたいだろ」

俺はベガスには行ったことがないがそのとおりだと頷いていた。たぶんフクダ君もラスベガスなんて行ったことはないはずだが、でも紛れもなくこれはラスベガスだ。夜のゲームセンターにはゲーム機の明りがラスベガスのように瞬いている。中野駅前のラスベガス、なんて楽しい場所なんだ。卒業と同時にフクダ君が中野を去ってしまうまで俺たちは時々思い出したように「あそこ行くか」と連れ立ってあのゲームセンターに向かったものである。

 

それからあのゲームセンターに行ったのはそれから6、7年後、大学時代にフクダ君と最後に行って以来のことであった。卒業後、彼の父親と同じく警察官になったフクダ君は中野を去り、他の大学時代の友人同様、卒業後疎遠になってしまったが俺は就職、結婚してまだ中央線沿いに住んでいた。

ある晩思い出し、中央線沿いで一緒に飲んでいた数人に中野にいいゲームセンターがあるから行こうと言い出したのは俺だった。

「ラスベガスみたいなんよなあ、すごいんだキラキラしてて」

嘘だろ、そんなもん中野にないだろう、などと言われながら駅から歩いて向かう最中、ラスベガスの場所を知らない彼らに黙ってゴミゴミした裏通りなどをワザと遠回りしながら大学以来殆ど足を運ばなかった中野駅の雰囲気をひとり感じていた。

 

数年ぶりにあのゲームセンターに着くと全てが以前と変わらずそのままだった。多少経年劣化は進んでいたが競馬のゲームもそのまま、大人も子供も楽しむあのゲームセンターそのままだ。懐かしかった。

「な、すごいだろ」

連れてきた彼らは冗談だと思って笑っていた。何がすごいのかわからない、普通のゲーセンじゃないかと言われ、その時俺が来たことのあるゲームセンターがここだけだという事に気づいた。そう言われると急に自信が無くなり、そう言われるとこれは普通のゲームセンターかもしれないと思い始めた。競馬のゲームは正直言って壊れているし、スロットマシンには補強用にガムテープが貼られている。この歳になってよく見ると客層だって良いとは思えない。もっとキレイで広くて、最新の凄いゲームセンターは沢山あるのだろう。ましてこれをいい大人が真顔でラスベガスと呼ぶなんて。俺はラスベガスに行ったことはない。フクダ君だってそうだったじゃないか。

帰りたそうな彼らを見て嬉々としてここに彼らを連れてきた自分、今の今までラスベガスと呼んできた自分への恥ずかしさが急にこみ上げ、本当に見せたかった○○がなくなってるという類の苦しい言い訳をしながら足早に去り、連れてきたうちの一人がおすすめするという中野の裏手にある味のある飲み屋を求めて夜の街へ消えていった。

死んでなかった世良公則

場所もハッキリと覚えているのだが、生まれ故郷である佐賀県唐津市の市民体育館近くにある道路下のトンネルに、スプレーを使い、かなり大きくまた太い字で「世良公則殺す」と書かれていた。

最初に見たのが多分小学生の頃だったと思うが、ヤンキー特有の気合いの入ったスプレー文字での巨大なサツガイ予告にはたいそうインパクトを受けたものであった。

街で唯一の総合体育館であったため部活の大会や何かのイベントがあれば都度訪れていた市民体育館だが、その度に「世良公則殺す」はそこに堂々と残っていた。

しかもこれが、良く見るとそれはただ文字が残っているだけではなく、経年劣化で消えかけたスプレー文字は常に新しく、なんと定期的に、新たに上書きされているのである。
赤、緑、白、黄色、、、様々な色のスプレーが次々に重ねられた有様には、書いた者の「世良公則」なる人物へのただならぬ殺意を生々しく表しており、もはやカラフルが過ぎ、ついにレインボーと化した「世良公則殺す」のサイケな鮮やかさと相まって、そこにただならぬアシッドな空間を形成していた。

同じ人が繰り返し世良公則への殺意を忘れぬために定期的に色を重ねていたのか、もしくはなんかの間違いでいつしか伝統行事、ルーチンの類となり、更にはその地区の豊作祈願のための世襲行事的なものに昇華されたのかなど背景はもはや知るところではないが、とにかく俺はそこで繰り返される殺害予告の上書きに「なんて気の毒な人がいるんだ」とぼんやり眺めていたのを覚えている。と同時に、それが来る日も来る日もいまだそれが「予告」として残っているのを見るにつけ「なんだオイ、まだ仕留めてないのか」という邪悪な気持ちも芽生え始めたことをここに告白したい。

そしてこの落書きでしか知らなかった人物「世良公則」が芸能人であると知るまで、またご本人のお顔をテレビで拝見するまでには随分時間があり、それはなんと大分前に芦田愛菜ちゃんと鈴木福くんの怪演によりヒットしたドラマ「マルモのおきて」を観てからであった。(なぜか俺は29歳になるまで全く知らなかった)

「キミがあの世良くんかい...」

想像とは大分かけ離れていたが妙な親近感。「世良公則」が生きている。目の前で動いている。しかも「気の毒な世良公則くん」はなんとベテラン芸能人だったのである。シーラカンスが泳いでいるを目撃したかのようだった。

テレビ画面の中で見せる天才子役にも負けない老獪な演技、その目を見ればすぐに分かるひととなり。とても佐賀県唐津市のヤンキーに命を狙われるような人ではないことはすぐに分かった。俄然燃え上がるハンニンへの憎しみ。そんなわけで皆さんが天才子役の名演技に感動している間、俺は一人、恐らくこの世でたった一人、ようやく会えた世良公則に感動していたのである。

こうなるとますます彼がどうして佐賀県のヤンキーに命を狙われていたのか全くわからない。しかもあんなトンネルにこっそり書くなんて。俺もスプレーでアノ文字をなぞったらなにか分かるのだろうか。犯人の気持ちになるには同じ行動をしてみるのが鉄則である。今度帰省したらあのトンネルに行って答えを見つけてみたいと思う。それにそもそもまだあの落書きがキレイに残っていたとしたら、俺は世良公則にそれを連絡をする義務があると思うのである。

つくづく物騒な世の中である。

受験勉強と角兵のたぬきうどん

勉強は学校と家でやれ、なる親の方針で子供のころから塾とか予備校の類には一度も行かせてくれず、大学受験ですらただひたすらに自学に頼るのみであった。もっともそれも俺だけではなく、ド田舎であったからまともな予備校もなく、中には福岡まで通うもの、地元の学習塾の高校受験講座を受けるものなどいたが、基本的にはみな自学、独学で受験戦争を戦い抜こうとしていたものである。

しかし一人で大学受験に向き合うのは孤独で不安な作業である。競争相手が見えず、自分がやっていることが正しいのかその確認作業も出来ない。そしてそんな思いをしている同じような受験生が自然と集まってきたのが地元の図書館の4Fに設置されていた「自習室」であった。同じ境遇の仲間達が学校のない週末に集まってきて、言葉は交わさないにしても互いに意識し合い、みんなと一緒に勉強してたのが良い思い出。

自習室は共有の広いテーブル席と仕切りの設けられた個室席があり、個室が人気。数にも限りがあり、完全に早い者勝ちだったので朝早くから並び、ダッシュで向かって場所取りをするところから始まり、一日中をそこで過ごしていたことが多かった。

夏休み中は同じ受験生も結構来ていたけれど、秋~冬にかけ、思うように伸びない成績に不安を感じ始めたのか、皆徐々に予備校へシフトしていくにつれ自習室に来る人も減っていった。それでも自習室通いをやめないおなじみの数人の中で特にその中の4人でいつの間にか昼の休憩に一緒に昼ごはんを食べに行くようになっていた。

元々同じ高校だがあまり喋ったこともない4人、たまたまみんなが丁度東京の私立大学志望という目標も境遇も似ていたものだから、全然知らない東京の生活を昼飯のときに、限られた田舎の高校生の想像力の中であーだこーだと想像しながら話すのがモチベーションになっていた。その中にいた、ワケあって1コ上の同級生である地黒でロン毛のコータロー君だけはこの田舎で当時でいうところのギャル男みたいなナリで、東京のことにも詳しいらしく「ざっと福岡の10倍くらい」とか「男はロン毛しかいないから今のうちからキミらも伸ばしたほうがいい」といった具体的なアドヴァイスをくれたりなどして大変心強かったものである。

そんな我々は昼飯には必ず、商店街にあった角兵(かどひょう)という地元にしかないチェーン店のうどん屋に行くようになっていた。田舎の高校生の小遣いなどたかが知れており、みな同じように金が無かったのでオーダーするのは必ず一番安い280円のたぬきうどん。財布がなぜかSUPER LOVERSのマジックテープ式財布だったコータロー君だけはいつも妙に金をもっており、天かすしか入っていないたぬきうどんを頼む3人をよそに、決まって天ぷらうどんをオーダーしては「あれのカスが俺たちにきてるのかな」などとセンボーのまなざしを受けていた。

夏~秋、冬にかけて、週末の通った角兵。毎回のたぬきうどんにもいい加減飽きてきた頃、コータロー君の天かすを食らう屈辱の日々に耐えかねたのか、ついにそのうちの1人が「オレは素うどんに行くから」とたぬきうどん界を旅立っていったが、素うどんは290円、ナルトとコンブが入っているだけで特にたぬきうどんと代わり映えしないシロモノであることに愕然として、10円惜しさに再びたぬきうどん界に復帰してきたのも印象的であった。

自分の金のなさを恨むべきではあるが、毎回変わらぬたぬきうどんに段々イライラしてきたのか、店員へオーダーするときに分かるか分からないかぐらいの臆病さでもって「手抜きうどん...」というのが通例になってきて、それにも飽きたあたりから、店に唯一いる若い女性バイトがオーダーを取りに来たときだけ「テコキうどん」とハッキリといい始めるなどの迷惑行為により受験のストレスを軽減していたものであるが、通いつめすぎた受験直前の冬ともなると、店員もこちらの顔を、この後入るオーダーを覚えてしまい、言葉少なに「例のものを」と言えば分かるようになってしまった。

なお、ルックス面では上京後の準備万端、我々と違い1人豪勢な昼食を楽しんだコータロー君がその後体育の授業中に足を骨折したことで東京の私大受験を断念したのは皮肉なものだが、そんなコータロー君以外は皆、目的通り東京の大学へ進学することが出来、上京を果たした3名は幸い今でも交流がある。

大学2年次にコータロー君を、彼の通う福岡の大学近くにあるツタヤで目撃した人の話では、ロン毛のまま髪がシルバーになっており、東の方向を見つめながらいまだ冷めやらぬ東京への想いを語っていたらしい。コータロー君について聞いたのはそれが最後である。

夏休みが終わると受験への追い込みも本格的に始まだろう。この時期になるとみんなで一緒に食べた角兵のたぬきうどんを思い出す。今はもうあの場所に店舗はないらしく、たぬきうどんも280円じゃないらしい。今度帰ったらまた食べに行きたい。俺は天ぷらうどんを食べたい。

ディズニークルーズでなぜかYMCAを踊らされた

今週は丸々一週間休みを取り家族でディズニークルーズへ行ってきた。フロリダ州のオーランドからバスに乗りディズニーが持ってるデカい船でバハマへ行くのである。

クルーズ船内はディズニーが溢れ、毎日イベント三昧、立ち寄った島では一日中ビーチで遊び夜は連日豪華なディナーである。お察しのとおり俺とディズニーの関係は浅く、そして極めて薄いものであったが、そんな俺でも最終日には売店ミッキーマウスのTシャツを購入しそれをまとって帰宅したほどであるが実際のところ持ってきたTシャツが1枚足りなかったからです。

この旅行を通じて、皆々様にいかに俺が楽しんだか、撮った写真などを交え高らかに自慢したい、声を大にして伝えたいディズニークルーズ最高情報は山ほどあるが一度には到底書ききれないので皆様には一番印象に残ったエピソードでもってその素晴らしさを感じて頂きたい。

先ほど書いたとおりディズニークルーズの醍醐味のひとつが船内でのイベント。オープニングパーティから始まり、そこら中を練り歩くディズニーキャラクターたちとの写真撮影、船内にはプールやスポーツ施設もあれば、船内をフルに使った探検ゲームの類まで、子供連れには嬉しい1秒たりとも飽きさせないイベントの数々には2人の子を持つ父親としては大満足、とうとう最終日には売店ミッキーマウスのTシャツを購入しそれをまとって帰宅したほどであるがそれは先ほど言ったように持ってきたTシャツが1枚足りなかったからです。

そんな船内イベントの中でも夕方から夜にかけて毎晩行われる劇場でのミュージカルは圧巻であった。王道のディズニー作品ミュージカルあり、ディズニーだから出来る過去の名作のコラボレーションありと、ディズニーに全く思い入れも何もないこの俺ですら「すげえ」と素直に思ったものであるし、ミッキーマウスのTシャツを買って帰ったのもあながち持ってきたTシャツが1枚足りなかったことだけが理由ではなく、俺はミッキーマウスが、ディズニーのことが好きになっちゃったのである。

それを決定付ける出来事が件のミュージカルの最中に起きたある出来事。それはミュージカルの中盤、ストーリーの途中で突然幕が下りアナウンスが始まったときから始まる素敵な物語であった。

《技術的なトラブルで一旦中断します しばらくお待ち下さい》

最初にアナウンスを聞いたとき、そういう演出なのかと思ってしばらく事態が飲み込めず見渡すと、やはり周りの外国人も同じような反応。そのうち、本格的にザワザワし始めたところで女性司会者が登壇し改めて「技術トラブルによる中断である」と我々に説明する。ようやく会場が「おいおいマジかよ」という反応を始めると、席を立つ人、立とうとする人、どうするか話し合っている人、色んな反応が会場で起こり始めまさに緊張の糸が切れかけようとしたその瞬間、俺のすぐ近くの50代ぐらいの白人男性が突然大声でこう叫んだ。

「We Believe!!!」

それはミュージカルに出てきたセリフを引用した「俺は待つぞ!」のメッセージである。それを聞いた会場は笑いと拍手に包まれ、混乱しかけた会場は一気にまた一体感を取り戻そうとしていた。

「ゆ、USAや...、これがUSAやでェ!!!」

目の前でザ・USAをまざまざと見せ付けられた俺の中でユユユSA...ユユユSAとISSAが踊りだす。

しかし、そんな小粋なUSAエピソードを間近で見た感動から10分が経過しようとしていたが肝心の技術的なトラブルとやらは一向に解消する気配もなく段々とまた会場から出て行く人が現れる。なんや、ほんだらもう一回ワシがWe Believeいうたろか~、Japanese JokeのTendonや!などとよからぬことを思案していた時であった。

先ほどの司会者が再び現れると申し訳ないがもう少しかかるという説明をしたその後に、その場にいた全員が耳を疑うようなことを言い放ったのである。

「こんなときだから、みんなでYMCAを歌いましょう!!ミュージック、スタート!!」

「えええええええええ!!!!!!」であったが疑問もクレームも入れさせねぇぞとばかりに間髪いれずにBGMスタートである。これには流石のアメリカ人も大困惑。普段なにかあっちゃあYMCAを踊っている彼らもここでなぜYMCAなんだ、WHYだぜ!とばかりに困惑の表情であったが、下の口は正直といいますか、音楽が流れれば体が勝手に動くらしくミュージックスタートに合わせてゾロゾロと起立し出せば後は勝手に「ヤングマン!」と歌いだす始末。

「ゆ、USAや...、これもUSAやでェ!!!」

天下のディズニーも困ったときはYMCAに頼るという事実に大変驚いたが、アメリカでYMCAを集団で踊れる機会など滅多にある訳もなく、俺もここは記念にと迷うことなく立ち上がり日本で学んだY.M.C.Aをカマしてきた次第であるが、俺が満面の笑顔で「ワーイ・エム・シー・エー!」とやっているその最中、先ほど「We Believe」とか調子のいいこといっていたオッサンがド真顔で帰っているのが見えた。