男のカレー作り

カレーを作るにはまず材料を買わねばならない。カレーのいいところは大体家に普段からありがちな汎用性の高い材料で作ることができる点だが、もし不運にも家にそれらの材料がないが場合はスーパーで買ってくる必要がある。カレーのことは好きだがなんと言うか料理としては若干子供っぽさがあるのは否めず、カレーというといまだに昔のCM、ワンパクな小太りの子供がうめえうめえとムシャムシャ食っている画が思い浮かんでしまう。そのため、独身一人暮らしの頃はスーパーでジャガイモ、ニンジン、たまねぎ、肉、カレー粉だけをかごにいれレジに向かおうとすると「店員に今晩カレーを作るのがバレてしまう」「ワンパクだと思われる」という恥ずかしい気持ちが沸いてきて要りもしないレンコンやミカンなどを買ってしまうのだが、今思えば「こいつカレーにレンコンいれるのか」と思われただけかもしれない。このようなことを人に話すと、店員は一日に何十人ものカゴを見ているのでいちいちそんな推測をするものではないと一笑に付されたことがあるが、俺に言わせれば一日にそれだけのカゴを眺めているからこそ、こういうラッキー問題が来たときにはニヤリとしてしまうのではないか、そう考えてしまうのである。

材料を買うと次は調理である。俺はこの野菜を切る作業、特にタマネギを切る作業が大好きでそれがカレーを作る動機にさえなっていると言っても過言ではない。タマネギの気持ちよいくらいにサクサク切れる様、あれを切る作業はとても楽しくずっと切っていたい、タマネギだらけになってもよいという気持ちにすらなってくる。対してジャガイモ、ニンジンであるが皮を剥くという作業が極めて面倒でこのひと手間を思うだけでカレーを作るのを躊躇うときもある。例えばニンジン、皮をむいたところと皮が残っているところの境界が極めてあいまいであり、ぼんやりとニンジンを5周ぐらいしていてニンジンが完全にダウンサイジングしていたことがある。ジャガイモは新芽が多いやつに当たったときなどが億劫で、たまにあるどれだけ掘っても新芽が永久にその場を離れないやつとかもはや恐怖である。

材料を切ったら次は炒める作業であるが、タマネギ、ニンジン、ジャガイモをちまちま炒めているところにころあいを見て肉を入れたときのフライパンの盛り上がり方を見るたび、先に来たメンバーが飲んでるところに遅れてきたやつが到着して全員集合したところでウエーイと飲み会が始まったような、そういう画をいつも想像してしまい俺はこの中だと肉でありたいと思ってしまうのである。

炒めたら次は煮込む作業である。煮込む作業、カレーの面白さは実はこの時点まではカレーとは確定していない点である。肉と野菜とを煮込んだとしても、カレー粉を入れるまでカレーになるかは確定しない。肉にも拠るがここから気が変わって豚汁にすることもできる、シチューにもできるし、何か別のものにすることもできる。こいつの運命を握っているのは自分なのだと思うとやはり興奮する。それはまた野菜と肉とを炒めた前工程にも言えることで「なんかお前ら生意気だから野菜炒めで終わらせてやろうか」という具合に、カレー作りは常にそういう何か他者の運命を弄びたいような支配的な気持ちとの闘いなのである。

煮込む作業でいつも苦悩するのが灰汁(あく)を取り除く作業。子供のころ母親の手伝いでこの灰汁取りの作業を任されたときに、灰汁と普通の泡の違いが分からなくなり疑わしきは全て逮捕!の姿勢で鍋の前に張り付き15分、最終的にパニック状態で全泡を撃ち落した結果、鍋の水位は半分以下となりめちゃくちゃ怒られたトラウマが今も俺を苦しめ逆に今では「これはただのきめの細かい泡だろう」「こ、これは野菜から出たうまみ成分だろう...ッ」など灰汁判定が甘くなっているという弊害を生んでいる。

さて、このような工程を経ていよいよトリのカレー粉投入。しかし男の料理ではここから、隠し味による味のチューニングだろがいという男性の声が聞こえてきます。ご存知の通りカレーは極めて作るのが簡単な料理である。だからこそ作る者には余裕が生まれ、余裕がこだわりを生むのである。車、PC、プラモデル、、カスタマイズは常に男を魅了してきたがカレーもしかりで、カレーをこだわって作っていると何かこう、自分が料理ができる男のような気になってしまってたまらない。しかし最近の経験によって導き出された結果としては市販のルーをケチらずに多めに入れてあとは余計なものを入れないのが一番美味しいということである。カレーに思想やテクニック論などのやかましイデオロギーが入ってくるとうるさくて食えたもんじゃなく、ほっといてくれよとレンコンでも入れとけよとそういう気持ちになるのである。

というわけで上記のような雑念を抱きながら、今晩もカレーを作ることとします。

面白い話はふざければ誰でも書けるといわれ

小学生のときの確か国語の時間だったと思う。なんかのきっかけで「面白い話と悲しい話では面白い話を考えるほうが難しい」と言ったらクラスの大半からそれは違うと反論された。

「面白い話はふざければ誰でも書けるから」というクラス内で口の達者な女子生徒の意見が反論側で一番支持を集めた理由だったのを覚えている。面白いことは変なことを言ってふざければ誰でもいつでもできる。どうせウンコとかチンコとか言えばいいんでしょう。端的に言えばそういう意見が出て皆がそれにそうだそうだと賛同したのだ。

俺は面白いことを言うのが好きだったし人より面白いと思っていたのでその言われようは衝撃だった。俺もその程度だと思われていた、少年にとってはショックである。

残念ながら俺はそれには反論できなかった。「いや、お前全然面白くないやん」と言えばよかったのだろうが、あまりに堂々と「ウチらもおもしろできるし」と言われた時にそれは出てこず、なにより、確かに言われるとおり悲しい話のほうが何となく面白い話よりも高尚でテクニックも要りそうだし、笑いより悲しみのほうが何となく人の感情の中でもランクが上のようなそんな気がすると、他ならぬ自分の中にもそうした思いがあったのだろう。それを打破する筋の通った反論が出せる筈も無く、そのままその場では孤立無援のまま「面白い<悲しい」が通った。

「面白い=ふざければ誰でも出来る」という意見に負けた経験はトラウマとなり、以降子供ながらに単にふざけて笑いを取る連中に素直に笑えなくなり、子供ながらボクはキミたちとはちがうと、そういう連中とも距離を置きたかったし、お笑い番組ではオーバーアクションでふざける笑い、人が叩かれたり、水に落とされたり、大声で騒いだり、皆が笑うべきとりあえず明るくふざける演出にも冷めた気持ちを抱くようになってしまった。

そこまで引きずりますかという感じだが、ただふざけてれば面白いなんてそんなことはないだろと、10代、20代、何と闘っているのか分からない時代が続き30代で父親になり子供が出来、最近子供はウンコ、チンコと言いリビングでよくチンコを出してふざけている。バカだなあと一緒に笑っている。

「レベルの低い笑いは...」

結局そんな意地を張ったところで何者にもなれなかった人間としては人と同じく同じようなノリで友達を増やしたほうがマシであることも分かっている。でも俺は言いたい。

「リビングでチンコを出すにしても、一工夫して出しなさい、たとえばこのように...」

親の仇を子に取らすつもりはないが、でも俺は言いたい。何でもいいから、そんなの誰にでも出来るなんてことを言われないようになってほしい。

6月がこわい

note.com

不安になったので「不安まとめ」をNoteに書いたのは3/23、2週間前。結構長く感じられた。本格的に外出禁止令が出て在宅勤務がスタートしたときである。あれから2週間経ち状況は特に好転せず、外出にはこれが要ると渡された外出許可証を胸ポケに差し込んでガラガラの高速をかっ飛ばす世紀末感に肩パットから芽吹かんとする若いトゲを感じるなどその独特の緊張感に妙に酔いしれたりもしたが、相変わらず先の見えない毎日、唯一前に進んだのはあの当時キャンセルされた宙ぶらりんになってしまったビザ更新がヒャッハーと突然再開され6月にようやく決まったことぐらい。

日本もアメリカもそろって非常事態を宣言してしまいそんな両国間を地獄の非常事態ハシゴせざるを得ないという事実。到着すれば狭いホテルで家族4人を2週間の隔離措置が待ち、公共交通機関は使えない。Google Mapにカヤックの道を教えてもらうしかない。2週間の長さは体験済み、長いぞ、でどうやってホテルに行くんだとか、どのホテルなら泊まっていいんだとか全てが分からず会社に聞くが応答なし。「在宅勤務してるんで」などつれないのだが、会社さんワシを助けてくれ。

このように、6月がもはや予測不可能な未来の様相を呈しており、どういう状況なのか誰にも分からないので誰もこうしなさいとは責任もって言ってくれない。6月になってまたキャンセルって言われるかもしれない。ホテルの予約から旅程の組み立てまで何一つ決められない。イライラしてしまう。選ばれし民に押された二の腕のハンコ注射の痕がなんかこう光輝いたりなどして指し示す先にとかないのでしょうか。

しかし現実は日本へ行きビザを更新してまたアメリカの家に戻り普通の生活に戻るまでにトータル40日必要であるということである。実家に帰って切れてしまった自動車免許を更新しようと思ったが2週間の隔離措置後とはいえ、実家の誰にも会わないほうがいいかもしれない。人生で後何回会えるか分からない人が居たとして、しかし自分と会うことで殺してしまうリスクを回避して今回会わなかったら次に帰ってきたときにその人がもういないってこともあるわけじゃないですか。そういうことを考えてしまう。

誰にも会わずコソコソとビザだけ更新してね、そんな思いをしてまでまた戻るアメリカには仕事も生活も娯楽もなくいっそのことビザなんてあーサーセンだめでしたあ切れちゃいましたあってなって俺をこのまま日本に返してほしいな。俺が今いるのはアメリカではなくて広い地球にポツンとある点の家です。親戚も友達も属するコミュニティもなく何かあったら後回しにされるかもしれない不安だけしかない皆さんから一番遠くに建つ孤独な家なのであります。知ってますよ日本もヤバイんでしょう、日本のほうがダメだともっとそう言ってほしいものです。

家族になど到底言えることではないが、俺は心のどこかでは6月のビザ面接予定があーサーセンやっぱだめでしたあとキャンセルになることを願っているんじゃないかなと思う。

ひとの成長について

漫画「魁!男塾」の有名な1コマがある。身長180cmを超える男子高校生の奥にはその2倍の身長を有するこれまた学生服の巨大な男子生徒、更に彼らの奥にはそんな彼らすら小人にしてしまうほどのこれまた巨大な学生服の男子生徒が。この男子学生があまりに巨大すぎて彼の顔は遠くに見ることができず、その身長は50mには達するかもしれない。繰り返すが、彼らは全員学生服をまとった高校生である。

手前から奥に行くに従いむしろ男子学生巨大になっていく遠近法をあざ笑うこの演出、このコマをバカだなあと笑うのは簡単である。しかし、ここにはキッズ達がかつて抱いていた「すごい=デカい」の原理がそのまま持ち込まれており、当時少年ジャンプにハマっていたピュアーなキッズたちにとっては、とにかくこれを見たら一発で手前から奥に行くに従い強いのだろう、きっとケンカに勝つたびに体がデカくなったに違いないのだろう!と理解する仕組みになっている。

ドラゴンボールフリーザが出てきて第3形態でいきなりツルンとした形状になったのは、だから画期的だったのであろうが、しかしそれ以前はこのひと強敵ですよ、ヤバいですよと、一発で印象付けるには大きく描くというのがある時代までは適切な表現であったのかもしれない。

このような「サイズ=強さ」の原理はほかの漫画でも見られる現象で「ジョジョの奇妙な冒険」ではそれをサイズの「変化」によって描いた漫画である。たとえば小林玉美というキャラクターがいて、彼はもともと街のどこにでもいるゴロツキの風貌、出たての頃は6頭身ほどできちんと描かれていた彼は戦いに負けたあとは急に3頭身になりゴロツキのテイストは消え極めてキャッチーになってしまった。ジョジョに関して言えば間田というキャラも同じで、彼らは一度戦いに負け、小さくなるとこれ以降元のサイズに戻ることはないばかりかさも最初からそうであったかのようになんら作中で説明がないほどである。

門外漢の漫画論について語るのはこの辺にして、伝えたかったのはサイズと能力の関係。強いとデカくなり、弱いと小さくなる。このように男子の世界においてはしばしば、物事の評価基準はこうして安直にそのサイズで表現される事がかつては極めて多かった。

前も言及したが、小学校の低学年の頃、脱ぎ捨てられていた6年生の上履きがとてつもなく巨大なものに感じられた。小6の上履きがまるでバスタブのように見えて驚嘆した記憶がある。小学6年生ですらそれであるから、街で見かける中学生など話にならない。当時の俺にはヒゲの生えたオッサンのように映り、その先に待つ高校生に至ってはどんな巨大生物なのか検討もつかなかった。

近所に居た中学生の足のサイズが25cmだと聞いたとき、「高校生ぐらいになると足のサイズは30cmだろうか...」と驚愕し、さらにその上には「大学生」なるものが存在すると知るや「足のサイズはきっと50cmぐらいだろう!」などの大胆予測。

「すごい=デカい」

まるで成長リミッターなしの巨大魚のように、年月に比例して無限に巨大化する前提で、大学生の巨大さについて色々と思いを巡らせる日々を過ごした俺である。

ともかく、未熟な小学生として、何かの凄さであるとか、成長したその先を想像するには単純にサイズ的進歩で想像するしかなく、また「サイズ」は時に「量」にも置き換わることもあり、当時田舎の小学校でひと学年6クラスだった俺は「東京の小学校はひと学年100クラスぐらいあるのだろう!」などと本気で思っていた。

人間の成長過程について、あの当時、かろうじて想像できる範囲が大学生であったがそれ以上の存在である「大学院生」なるものを知っていたら、それは全身から眩い光を放ちながら街から街へ、ゆったり歩く身長100mの何かだと考えたかもしれない。(ではその後急に小さくなる大人って一体...!という疑問は余裕でガン無視である)

非常にバカバカしい話だが、あのとき俺は本気だったし、そう思っていたのが俺だけではないと信じたい。

ゲームがしたくてたまらなかった

子供のころ親にゲーム類の一切を禁じられていたため、ゲームを持っている友達の家に行っては友達に頼み込んで少しだけゲームをやらせてもらう卑しいタカリ行為をしてゲームをさせてもらっていた。とにかくゲームがしたくてたまらなかった。

俺は元祖ファミコンの世代。テレビゲームは世に出たばかりでゲームを持たない子供の方がまだ多く、ゲームを持つ少年は近所のヒーローのような扱い。彼らのお宅にはゲームをしたくてたまらないキッズが大挙し後ろで正座をし待っていたようなそんな状況も今では懐かしい。

時が経つにつれゲームを持つ子供は増えていったが俺は相変わらずゲームを買ってもらえなかった。父親は何かにつけて厳しくゲームに炭酸飲料、ファーストフードなどが禁止されていた。楽しいことは悪である!快楽は人をだめにするのだ!誇張されたメッセージを勝手に感じた。父親はなぜか明石家さんまが嫌いでさんまがテレビに出ると悪態をついてチャンネルを変えた。ゲームなど買ってもらうのは絶望的であった。

近所にはシンちゃんとカズくんという親からゲームを買ってもらえた幸せな友達がいて、シンちゃんは帰ってきてから30分間のゲーム時間があって、カズくんは週末だけゲームができる。俺はそれに合わせ「あーそーぼー」と呼び鈴を鳴らした。

「カズくん、そろそろやらせてあげなさい」

カズくんのおかあさんに同情されていやいやコントローラーを渡されると夢中でゲームをした。死んだら交代と言われた俺はすぐ死ぬのだがその間の僅か2、3分でもゲームは楽しかった。またコントローラーをカズくんに返し、代わってくれるのをまった。カズくんのお父さんはサンタクロースを信じている俺を面白がって、俺が来るたびにサンタクロースはいないよ、サンタクロースはお父さんだよとバカにしていたが俺はゲームしたかったので全く気にならなかった。俺の信じるサンタクロースには「どうかゲームをください」とお願いしたがそれは何年経っても叶わなかった。

友達の友達みたいな、一度たまたま遊んだグループの中にいただけの面識もほとんどない苗字もよくしらない人がゲームを持っていると知れば、ゲームしたさに突然彼の家に遊びに行き戸惑う彼にも目もくれず代わってもらえるはずもない彼のゲーム中の後ろで黙って眺めていた。結局一秒たりともゲームさせてもらえないどころか、彼と彼の母親に殆ど無視されていた中で、彼のゲームが終了するや「じゃ帰るね」と返事もない玄関の靴を履いてトボトボと歩いて家に帰った。

ゲームがしたくてたまらなかった。お前らのことなど関係ない。俺は死ぬほどゲームがしたかった。