バレンタイン・キッス

学生のころ、あれは真夏の暑い日だったのは間違いないが、毎週必ず足を運んでいた近所の定食屋に入ると店内のテレビが放送していたのは怪談であった。背筋が凍るということから真夏といえば怪談。誰が言い出したのか夏になるといまだにテレビでは怖い話が放送される。

オーダーを取りに来たおばちゃんに注文を告げ、手元にあったスポーツ新聞で興味のあるところだけを読み終えると、料理が出てくるまでは必然的にテレビを観るしかなくなるのだが、なんつーかその、よせばいいのにそのとき放送されていた番組っていうのがめちゃくちゃ怖くて、テレビ画面観るまでなく聞こえてくる内容だけでも分かる激コワな内容に俺はとっくに読み終えた新聞紙から目を離せずにジッとただ目を伏し目がちで料理が出てくるのを待つしか出来なかったわけだが、いやあ他の人たちよくこんな怖い番組観ながら飯食えるなあとふと店内の他の客を一瞥したところ、なんと店内にいたジジイ全員が、新聞紙を持つもの持たぬもの全員、完全に下を向いていたんですよね...。《こわい》の背中が、全員揃いも揃って下を見ていた。

なんならチャンネル選択権を持つはずのオーダーを取りにくるおばちゃんですら怖がって全く観ようとする素振りもなく、この店内に居る誰一人としてこの番組をみていなかったのである。俺の後に来た人もしばらくはテレビ画面を見ていたがしばらくするとやはり「こわい」と伏し目がちに。ここでチャンネルを替えれば或いは俺はヒーローになれるのかもしれないとも思ったが俺はそれを出来るほど大人ではなかった。静まり返った店内を独り饒舌なテレビの音だけが支配していたのを覚えている。

似たような光景をもう一つ知っている。あれば車での外回り中の昼飯にと入った地方の郊外にあるすき家でのことだ。店内を流れる店内放送「すき家Radio」の内容からその日がバレンタインデーであることを知る。そういえばすっかり関係のない行事になっていた。会社で女性社員が義理チョコを渡す習慣などもなかったし、妻からもらうなどもなくバレンタインデーはこうした場所で思いがけず知るものとなっていた。

カウンターに座り、オーダーを取りに来るまでの間、すき家Radioを黙って聴いていた。この番組に果たして本当にリスナーが居るのかは甚だ疑問ではあったが、本日もすき家RadioのDJに「こんにちは!」などご丁寧に挨拶から始まるお便りを送っている輩クンが居るのである。

してそのお便りはこのような形で締められた。

「...というわけで、リクエストは『バレンタイン・キッス』でお願いします!」

あろうことか、そのお便りはバレンタインデーにちなんでバレンタイン・キッスをリクエストした。テメエちなんでんじゃねえよ。

店内に流れるバレンタイン・キッスによりにわかに訪れた妙な雰囲気。お昼時のロードサイドのすき家店内には外回りの営業マンのジジイに工事関係のジジイ、そこに後から入ってくるのは腹を空かせお昼をもとめに来たガードマン。彼もやはり漏れなくジジイだった。この世界にはジジイしか居なかった時代の話である。今そんなジジイらが牛丼を食いながら若いころの国生さおりの歌を聴かされている。

俺には理解できなかった。当日本人が行くかどうかも分からないすき家に、読まれるかどうかも分からないお便りを送り、あろうことか「バレンタイン・キッス」をリクエストする。ジジイたちの牛丼のBGMに。こうして全国のすき家店内にはバレンタイン・キッスが流れ、店内にいた俺たちは、厳粛な雰囲気の中互いに話すこともない他人同士の孤独な俺たちは、、それを聴きながら各々が伏目がちの中、神妙な面持ちで牛丼・カレーライスをかっこみ足早に店を出て行った。