ジジイ、なぜ何にでも七味をかけるのか

男はある一定の年齢に達すると何にでも七味唐辛子をかけるようになる。

うどん、ソバ、牛丼、モツ煮、時には味噌汁にまで、個人の自由とはわかっていながらも色んなものにお構いなく振り掛けられるあの七味。おいおいやめたまえよと、皆様も心の中で一度はたしなめたくなったことがあるであろうあの七味。少し乱暴な呼び名だが、あれを「ジジイ七味」と呼んでいる。

ジジイ七味とはその張本人たるジジイの着座から散布にいたる、迷いのない所作一部始終を指している。味見などをして「もうちょっとかな」などという調整作業も無く、最初から入れる気満々で席に着き、案の定、各自決められしモーションにより数度、ササッと七味を入れる。

俺のような小心者にしてみればオリジナルの味の否定とも取れ、「大将に失礼なのでは...」などと知りもしない大将のことを気にかけ、大将と呼ぶほど仲良くもない店主のカウンター越しの視線が気になってしょうがない。だが、それを含めたすべてこそジジイ七味。もはやそれはジジイと七味が織り成す一つの現象なのである。

アクセントまたはフレーバーのレベルを超えた量で降りかけられる七味。昔は、何をそんなに掛けるのかと眉をひそめつつ眺めていたのだが、最近七味を大量に降りかけたくなるジジイの気持ちが少しずつ分かるようになってきた。

実はこの七味こと赤いあんチクショウだが、実際には見た目ほど味に迫力が無いのである。辛くない。あの赤く燃えるスパイシーな色味、また「七味」という味のミラクルを起こしそうなレインボーなネーミング。これらを根拠として元々の俺が勝手に「あいつはヤバい」と過大評価していただけで、実際に付き合ってみると割とナイスガイというか、穏やかで名前と比べると見掛け倒しの極々平凡な、なんというか、フリカケみたいな意外と話のわかる野郎なんですよね。

「味に影響なし」というとちといい過ぎかもしれないが、たとえ大量にコイツをキめたところでハッキリいって見た目ほどの味のインパクトが無いのは間違いなく、思った以上に微かな味の変化ゆえ、それなりの量をかけなければならない事情もあるが思うにアレには七味を沢山かけることによる「さあいくぜ!」という気持ちの高まりというか、舌というより、どちらかと言えば動作を通じて体に向けてのメッセージとして発するような意味合いもあるのではないだろうか...!

「...というわけなんだけど、どうかな。エンドー君。」

かつて会社の5歳下の若者に向けてこのジジイ七味説について力説したところ

「いや、フツーに辛いすよ、あんなにかけるの信じられない、歳とって味覚おかしくなったんじゃないですか(ワラ」というキビシいアンサーが。

「だよな(ワラ」

ジジイ七味の本質とは、信じたくはないのだがもしやエンドー君が指摘する味覚プロブレムの結果なのだろうか。ジジイのみんなには違うといってほしい。