6月がこわい

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不安になったので「不安まとめ」をNoteに書いたのは3/23、2週間前。結構長く感じられた。本格的に外出禁止令が出て在宅勤務がスタートしたときである。あれから2週間経ち状況は特に好転せず、外出にはこれが要ると渡された外出許可証を胸ポケに差し込んでガラガラの高速をかっ飛ばす世紀末感に肩パットから芽吹かんとする若いトゲを感じるなどその独特の緊張感に妙に酔いしれたりもしたが、相変わらず先の見えない毎日、唯一前に進んだのはあの当時キャンセルされた宙ぶらりんになってしまったビザ更新がヒャッハーと突然再開され6月にようやく決まったことぐらい。

日本もアメリカもそろって非常事態を宣言してしまいそんな両国間を地獄の非常事態ハシゴせざるを得ないという事実。到着すれば狭いホテルで家族4人を2週間の隔離措置が待ち、公共交通機関は使えない。Google Mapにカヤックの道を教えてもらうしかない。2週間の長さは体験済み、長いぞ、でどうやってホテルに行くんだとか、どのホテルなら泊まっていいんだとか全てが分からず会社に聞くが応答なし。「在宅勤務してるんで」などつれないのだが、会社さんワシを助けてくれ。

このように、6月がもはや予測不可能な未来の様相を呈しており、どういう状況なのか誰にも分からないので誰もこうしなさいとは責任もって言ってくれない。6月になってまたキャンセルって言われるかもしれない。ホテルの予約から旅程の組み立てまで何一つ決められない。イライラしてしまう。選ばれし民に押された二の腕のハンコ注射の痕がなんかこう光輝いたりなどして指し示す先にとかないのでしょうか。

しかし現実は日本へ行きビザを更新してまたアメリカの家に戻り普通の生活に戻るまでにトータル40日必要であるということである。実家に帰って切れてしまった自動車免許を更新しようと思ったが2週間の隔離措置後とはいえ、実家の誰にも会わないほうがいいかもしれない。人生で後何回会えるか分からない人が居たとして、しかし自分と会うことで殺してしまうリスクを回避して今回会わなかったら次に帰ってきたときにその人がもういないってこともあるわけじゃないですか。そういうことを考えてしまう。

誰にも会わずコソコソとビザだけ更新してね、そんな思いをしてまでまた戻るアメリカには仕事も生活も娯楽もなくいっそのことビザなんてあーサーセンだめでしたあ切れちゃいましたあってなって俺をこのまま日本に返してほしいな。俺が今いるのはアメリカではなくて広い地球にポツンとある点の家です。親戚も友達も属するコミュニティもなく何かあったら後回しにされるかもしれない不安だけしかない皆さんから一番遠くに建つ孤独な家なのであります。知ってますよ日本もヤバイんでしょう、日本のほうがダメだともっとそう言ってほしいものです。

家族になど到底言えることではないが、俺は心のどこかでは6月のビザ面接予定があーサーセンやっぱだめでしたあとキャンセルになることを願っているんじゃないかなと思う。

ひとの成長について

漫画「魁!男塾」の有名な1コマがある。身長180cmを超える男子高校生の奥にはその2倍の身長を有するこれまた学生服の巨大な男子生徒、更に彼らの奥にはそんな彼らすら小人にしてしまうほどのこれまた巨大な学生服の男子生徒が。この男子学生があまりに巨大すぎて彼の顔は遠くに見ることができず、その身長は50mには達するかもしれない。繰り返すが、彼らは全員学生服をまとった高校生である。

手前から奥に行くに従いむしろ男子学生巨大になっていく遠近法をあざ笑うこの演出、このコマをバカだなあと笑うのは簡単である。しかし、ここにはキッズ達がかつて抱いていた「すごい=デカい」の原理がそのまま持ち込まれており、当時少年ジャンプにハマっていたピュアーなキッズたちにとっては、とにかくこれを見たら一発で手前から奥に行くに従い強いのだろう、きっとケンカに勝つたびに体がデカくなったに違いないのだろう!と理解する仕組みになっている。

ドラゴンボールフリーザが出てきて第3形態でいきなりツルンとした形状になったのは、だから画期的だったのであろうが、しかしそれ以前はこのひと強敵ですよ、ヤバいですよと、一発で印象付けるには大きく描くというのがある時代までは適切な表現であったのかもしれない。

このような「サイズ=強さ」の原理はほかの漫画でも見られる現象で「ジョジョの奇妙な冒険」ではそれをサイズの「変化」によって描いた漫画である。たとえば小林玉美というキャラクターがいて、彼はもともと街のどこにでもいるゴロツキの風貌、出たての頃は6頭身ほどできちんと描かれていた彼は戦いに負けたあとは急に3頭身になりゴロツキのテイストは消え極めてキャッチーになってしまった。ジョジョに関して言えば間田というキャラも同じで、彼らは一度戦いに負け、小さくなるとこれ以降元のサイズに戻ることはないばかりかさも最初からそうであったかのようになんら作中で説明がないほどである。

門外漢の漫画論について語るのはこの辺にして、伝えたかったのはサイズと能力の関係。強いとデカくなり、弱いと小さくなる。このように男子の世界においてはしばしば、物事の評価基準はこうして安直にそのサイズで表現される事がかつては極めて多かった。

前も言及したが、小学校の低学年の頃、脱ぎ捨てられていた6年生の上履きがとてつもなく巨大なものに感じられた。小6の上履きがまるでバスタブのように見えて驚嘆した記憶がある。小学6年生ですらそれであるから、街で見かける中学生など話にならない。当時の俺にはヒゲの生えたオッサンのように映り、その先に待つ高校生に至ってはどんな巨大生物なのか検討もつかなかった。

近所に居た中学生の足のサイズが25cmだと聞いたとき、「高校生ぐらいになると足のサイズは30cmだろうか...」と驚愕し、さらにその上には「大学生」なるものが存在すると知るや「足のサイズはきっと50cmぐらいだろう!」などの大胆予測。

「すごい=デカい」

まるで成長リミッターなしの巨大魚のように、年月に比例して無限に巨大化する前提で、大学生の巨大さについて色々と思いを巡らせる日々を過ごした俺である。

ともかく、未熟な小学生として、何かの凄さであるとか、成長したその先を想像するには単純にサイズ的進歩で想像するしかなく、また「サイズ」は時に「量」にも置き換わることもあり、当時田舎の小学校でひと学年6クラスだった俺は「東京の小学校はひと学年100クラスぐらいあるのだろう!」などと本気で思っていた。

人間の成長過程について、あの当時、かろうじて想像できる範囲が大学生であったがそれ以上の存在である「大学院生」なるものを知っていたら、それは全身から眩い光を放ちながら街から街へ、ゆったり歩く身長100mの何かだと考えたかもしれない。(ではその後急に小さくなる大人って一体...!という疑問は余裕でガン無視である)

非常にバカバカしい話だが、あのとき俺は本気だったし、そう思っていたのが俺だけではないと信じたい。

ゲームがしたくてたまらなかった

子供のころ親にゲーム類の一切を禁じられていたため、ゲームを持っている友達の家に行っては友達に頼み込んで少しだけゲームをやらせてもらう卑しいタカリ行為をしてゲームをさせてもらっていた。とにかくゲームがしたくてたまらなかった。

俺は元祖ファミコンの世代。テレビゲームは世に出たばかりでゲームを持たない子供の方がまだ多く、ゲームを持つ少年は近所のヒーローのような扱い。彼らのお宅にはゲームをしたくてたまらないキッズが大挙し後ろで正座をし待っていたようなそんな状況も今では懐かしい。

時が経つにつれゲームを持つ子供は増えていったが俺は相変わらずゲームを買ってもらえなかった。父親は何かにつけて厳しくゲームに炭酸飲料、ファーストフードなどが禁止されていた。楽しいことは悪である!快楽は人をだめにするのだ!誇張されたメッセージを勝手に感じた。父親はなぜか明石家さんまが嫌いでさんまがテレビに出ると悪態をついてチャンネルを変えた。ゲームなど買ってもらうのは絶望的であった。

近所にはシンちゃんとカズくんという親からゲームを買ってもらえた幸せな友達がいて、シンちゃんは帰ってきてから30分間のゲーム時間があって、カズくんは週末だけゲームができる。俺はそれに合わせ「あーそーぼー」と呼び鈴を鳴らした。

「カズくん、そろそろやらせてあげなさい」

カズくんのおかあさんに同情されていやいやコントローラーを渡されると夢中でゲームをした。死んだら交代と言われた俺はすぐ死ぬのだがその間の僅か2、3分でもゲームは楽しかった。またコントローラーをカズくんに返し、代わってくれるのをまった。カズくんのお父さんはサンタクロースを信じている俺を面白がって、俺が来るたびにサンタクロースはいないよ、サンタクロースはお父さんだよとバカにしていたが俺はゲームしたかったので全く気にならなかった。俺の信じるサンタクロースには「どうかゲームをください」とお願いしたがそれは何年経っても叶わなかった。

友達の友達みたいな、一度たまたま遊んだグループの中にいただけの面識もほとんどない苗字もよくしらない人がゲームを持っていると知れば、ゲームしたさに突然彼の家に遊びに行き戸惑う彼にも目もくれず代わってもらえるはずもない彼のゲーム中の後ろで黙って眺めていた。結局一秒たりともゲームさせてもらえないどころか、彼と彼の母親に殆ど無視されていた中で、彼のゲームが終了するや「じゃ帰るね」と返事もない玄関の靴を履いてトボトボと歩いて家に帰った。

ゲームがしたくてたまらなかった。お前らのことなど関係ない。俺は死ぬほどゲームがしたかった。

父親との旅行の思い出

兄と久しぶりに連絡し、子供のころ行った旅行の話をし色々と昔の事を思い出した。別に貧乏なわけではなかったはずだが、こと旅行に関してはあまり派手な旅行というものをした記憶はなく一泊二日で同じ九州内の温泉地に車で行って帰ってくるというようなものが数年に一回あるかないかという程度だったように思う。それがあの当時の平均かどうかがよく分からないが回りを見渡すと沖縄へ行ったりディズニーランドや海外といった話も聞かれたので、子供のころはうちはそういうところへ行くような家庭ではないということを何となく考えていた。旅行の回数が少なかっただろうか、小さい頃の旅行であろうと今もよく覚えていて、それらのどうでもいいディティール、例えば泊まったホテルの名前やその周りの景色、帰りにカツ重を食って美味かったこと、水族館でなぜか恐竜の模型を買ったことなど、一つ一つをはっきりと思い出すことができるようである。

今日思い出したのは父親と行った登山の話である。父親に突然大分県にある九重山(くじゅう)という山に連れて行かれたときの話。元々断片的に覚えていたが兄と連絡している中でそれが父親が39歳のとき、今の俺とさほど変わらない年齢の時の話だと分かった。当時の俺は9歳で、兄は11歳。この旅行は兄と俺と父親の三人で、目的が登山だったことから母親はまだその当時5歳で小さかった弟と一緒に家にいての3人旅行。ただ父親が行きたかったのかもしれない。

標高は1700mにもなるこの山を登りきったはずなのだが記憶は曖昧で、登山の途中広い湿原を時折霧の中親子三人無言で通過しているときにあの世にいるような妙に心細さを感じたこと、たくさんの獣道(けものみち)があり異常に興味をそそられたこと、硫黄のにおいがすごくて気分が悪くなったこと、母親が作ってくれたオニギリが弁当箱に詰め込みすぎて全て合体し一枚のライス板になっており、それを手で引き剥がし分け合って食べたことなど、断片的に印象に残ったことしか記憶にない。

むしろはっきりと覚えているのは登山を終えたあとである。あの日不運にも地元で何か大きな祭りかイベントがあったということは、その後父親がホテルなど一切予約していないことが発覚し、「予約しなくても泊まれる」など軽口を叩くも、九重周辺および近郊の街のホテルがどれもなぜか満席、結果父親が下山後に数時間も車を走らせホテルを探しようやく福岡県の柳川という町のビジネスホテルにたどり着いたことから思い出される。

俺は疲れて車中寝ていたが道中ことごとくホテル予約を断られる父親、目が覚めると真っ暗、まだ車の中である。何時かわからないが暗い、知らない街で宿も取れず一人で焦る父親、腹も減り、雨が降ってきて、腹が減ったという兄弟。父親は道端の商店で買ってきたバナナを半分怒鳴りながら渡し、兄弟は泣きながらバナナを食べる。

この日の早朝佐賀からここ九重へ来て登山の後まさかのホテル探し、父親も疲れていたのだろう。家まであと2時間半というところで宿泊を選択したのだ。或いは少しでも旅行気分にしたかったのかもしれない父親は「ビジネスホテルだけどいいか」など聞いてきたが、普通のホテルと何が違うか分からずむしろ今まで見てきた小汚い温泉旅館と比べるとこぎれいで現代的な作りだった。俺や俺の家族とは無縁と思われたアーバンな雰囲気。父親は宿を見つけてようやく落ち着き、ピンクの公衆電話で母親に連絡。福岡県柳川市から隣県の佐賀県へかけるだけなのに10円玉がどんどん吸い込まれていく。それを見ながら恐ろしさを感じた。

晩御飯は近所の小さな居酒屋へ。地元の常連しか来ないような小さなお店。緊張した。子供など一人もおらず子連れの父親がこの場所に場違いなのを何となく察知する。こんな時間に珍しい兄弟を見ると酔っ払いが父親に何か話しかけて来たが父親は上手く対応できず浮いたままの三人は確か唯一開いていたカウンター席に座る。父親は居心地悪そうに酒を飲み、俺たちはお茶漬けと焼き魚を食べた。隣の酔っ払いがカウンターで調理をしている店主の奥さんに子供でも分かる程度のスケベな話をしているのが気まずく、テレビで少しでも下品な内容がある舌打ちしてチャンネルを変える父親、どういう気持ちなのだろうかと俺も居心地が悪く。

お茶漬けは味が薄く、タバコくさくなった三人はビジネスホテルへ帰る。テレビをつけると「アビス」という映画を放送していた。海底で遭遇したピンク色の形状が自在に変わる不思議な生命体アビスの話である。調べると確かに俺が9歳の年、1991年の11月23日土曜日にゴールデン洋画劇場でアビスが放送されていた。兄弟は風呂に入り、暗くした部屋のベッドの中からアビスを見た。とりあえずアビスは全く意味が分からなかったが遅い時間に放送される映画はそういうものだろうと思って黙って見ていた。いつもは9時には寝る。夜更かししていいのは旅行のときだけだと父親は言い、俺は途中で寝た。覚えているのはそこまでで、それからの記憶、家に帰るまでのことは全く思い出せない。これがこの旅行に関して覚えている全て。

今自分の子供が7歳と4歳。俺が帰り道のことを一切覚えていないように、大半の記憶は消えていくかもしれない。俺の子供も俺とのこと沢山覚えておいてくれるとうれしいのだが。

だからホワイトデーにはオルゴールしかない

俺の地元では、俺の中学だけかもしれないが、ホワイトデーには基本的には「オルゴール」を贈るのが無難な選択肢だと言われていた。オルゴールはあって邪魔にならないし、いい音もするし、何ならオシャレである。第一、オルゴールが嫌いな女子なんてこの世に一人もいないじゃないか。ホワイトデーにオルゴールが贈られない理由を探すほうが難しかった。オルゴールだ、オルゴールなら安心だ。俺たちはそう信じて疑わなかった。

「渡したオルゴールの音を聞けばオンナはいつでも男を思い出す。」

ホワイトデーにオルゴールを贈ったというヤンキーの一人は俺にそう説明してくれた。それはものすごい説得力で俺はホワイトデーにはオルゴールしかない改めてそう確信した。

中学で彼女がいて本命のバレンタインデーチョコを貰うのは大抵一歩進んだ不純異性交遊をエンジョイしていたヤンキーの方々だった。彼らはヤンキーの彼女にチョコレートを貰い、そしてホワイトデーにはみんなこぞってオルゴールを贈っていた。

《渡したオルゴールの音を聞けばオンナはいつでも男を思い出す。》

あの当時新しくなった地元の駅の中にできた雑貨屋でオニハンの自転車で乗り付け、みんな緊張の面持ちでキラキラしたオルゴールを買っていた。中には過激なオルゴール信仰が行き過ぎて図画工作の時間に作った手製のオルゴールを渡した者もいたのだが、誰が俺たちを止められただろうか。

俺にも中学時代に彼女ができてバレンタインデーに手作りのチョコレートを貰った。親にバレるのが恥ずかしくて机の引き出しに入れてコソコソ食べていたものだが問題はホワイトデーである。セオリーどおりにいけば「オルゴール」である。だってオルゴールの音を聞けばオンナはいつでも男を思い出すから。

オルゴールを買いに行ったときのことは忘れられない。オルゴールを買うのは実際にはとても恥ずかしかった。いつもなら入らないちょっとオシャレな店、女の子が多くてドキドキした。お金もお年玉の残り。足りるだろうか。オルゴールは意外と高かったし、そもそも俺たちのオルゴール・アンセムとされた「オリビアを聴きながら」は正直知らない歌だし全くピンとこずで、俺は教えに背き、その店で教会などの天井に描かれがちな天使が遊んでいる宗教画があしらわれた謎の腕時計を買って彼女に渡した。その店から一秒も早く立ち去りたかったので値段だけを見てサッと買った謎の時計。色はなぜかアーミーグリーンだった。

やはりというか、ホワイトデーのお返しがオルゴールでなかったことが災いし、俺と彼女はその後程なくしてお別れした。

「ホワイトデーにはオルゴール。」

俺の中学では皆、そう決意を新たにしたに違いない。