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僕はただ「お疲れさま。」と言いたかっただけなのに

思い出

俺は一時期必死に英語を勉強していた事があった。その背景には悲しい物語があり、それを思い出すと今でも悲しい気持ちになる。

 

2年前の今頃、俺は本来ならばアメリカへ行くはずだった。会社から正式にそう言われたので覆ることはなかろうと覚悟し、ならば知人にも急ぎでお別れをと思いプライベートでも会った人にはそう伝え、facebookなどのSNSでも神妙な雰囲気でもってその旨報告したのも無理はなく、こうして俺は完全に渡米機運を高めてその日へ向けた覚悟の日々を送ろうとしていたのであったがその結末は意外なものであった。

それは突然の愛知県行き。ご存知、あの愛知県である。

愛知県だって日本のデトロイトとは言ったもんですが、俺は一度は覚悟を決めたアメリカ行きの、その直前で「あいつにはまだ早い」という誰かの鶴の一声によって白紙に戻されてしまったのである。

 

「いやあ、ちょっとアメリカへ...」

「いやあ、渡米するんすよ」

「いやあ、駐在員です」

 

思い返すと割りと自慢げに語っていたアメリカ行き。そのアメリカから愛知県へ変わったときの落差といったら無かった。愛知県には何の落ち度もなく、アメリカの後だとどんな都道府県、市町村だって勝てやしない。またその「愛知県」という微妙な表現がミソで、名古屋市でも無いのでとても言いづらいことこの上なかった。

 

「愛知県。」

「名古屋じゃないです...」

「愛知県...。」

 

思いがけず川柳ができてしまったが、散々アメリカ、アメリカと喧伝していた分「愛知県」がめちゃくちゃ恥ずかしいものになってしまった。

 

とまあ、だいぶ横道に逸れそうだったのでこの辺にしておくが、俺が英語を勉強していた悲しい背景というのにはこういうことだということを言いたかったわけで、なまじ頑張って英語を勉強してしまうとやはり自分の実力を試したくなるのが人というものである事もご理解頂きたく、ここまでを本題のマクラとしたい。

 

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この写真は俺があの当時必死に読んでいた英会話1000本ノック ビジネス編の初級編のある1ページである。ちょうど紫のマーカーが入った表現、「Long day, huh?」という例文が今日の主役。同封されていたCDをMP3プレイヤーに入れまじめにコツコツ聴いていた中で耳に残ったのがこの表現、「ローングデイ、ハァ?!」である。

とにかく最後のhuh?がたまんなくて、映画などで聴いたことのあるアメリカ人の「ハァン?!」そのもの。この妙にこなれたアメリカンなものの言い方はとてもかっこよく感じられ、その癖に伝えたいことは「お疲れ様。」という割とどうでもいいものだから俺はどうしても機会があればこれを言ってみたいと英会話の勉強中は常に考えていたものであるが、なかなかその機会も無く、そうするうちに先ほど説明したとおり「愛知県」に行くハメになると、終には半ばシラケたムードも手伝って全く持って英語の勉強をする事は無くなったのである。

 

英会話の勉強をやめてから1年半ほど経ったある日のこと、それは俺がアメリカから来日したグループ会社の社員を乗せ、幾つかの目的地まで連れて回る役目を命じられた時のことである。

来日してきた彼はダンカンといい、俺より5つ上の巨漢のアメリカ人男性であったが、通訳代わりの現地駐在員が同行していたため俺はなけなしの英語力を駆使する必要も無く、あくまで車中ではドライバーに徹する形でその任務を粛々と果たそうとしていた。

はずであったが、道程もあと僅かという安心感か、はたまたそんな中でも隙を見ては限られた英語能力を駆使するなどしてダンカンさんと若干のコミュニケーションが取れた事による自信が芽生えたからか、もうすぐ彼を駅へ届けようかという辺りになり、ふとあの例文「Long day, huh?」が頭を過ぎると、無性にそれをこの機会に使ってみたくなったのであった。

 

彼が車から降りるとき今がチャンスだとばかりに、俺は「ローングデイ、ハァン?!」と語りかけた。やった、言ったゾ!いったった!という俺の顔を見ながら、しかしダンカンは「ソーリー?」と聞き返してきた。

聞き返すとは予定外である。1000本ノックによると「Yeah,long day」って返してくれるはずなのである。なぜだ、と助けを求めるように見ると、駐在員の彼は先に降りてダンカンさんの分の荷物も含めてトランクから荷降ろししている。コヤツ、役立たずここに極まれりである。

会話は一度投げかけるとキャンセル出来ない。だからもう一度、同じトーンで続けた。しかしさっきよりもっとハッキリとだ。

「ローングデイ、ハアン!!!」

 

しかし多分彼は「プリーズセイイットアゲイン」みたいな事を言ったと思う。俺は英会話1000本ノックではサードを守っていたから守備力には自信があるのである。ウッ、、辛いと思ったが、お望みどおり「ローングデイ、ハァン?!」をもう一度言ったがやはり通じなかった。記憶から消したいからかここから先はおぼろげだが、俺はそのあと多分2回ぐらい「ハアン!」って言ってたと思う。通じなかった。

 

 

まあ結局通じなかったのだが、彼は途中で会話を切り上げ、車の外で「オケ、サンキュ!」と言って俺と握手をして去って行った。

俺は愛知県に住んでいる。