大学1年生、初めてのアルバイト面接

高校は部活三昧であり九州のド田舎でもあったことから、初めてのアルバイトは大学1年になってからであった。

そんな人生初めてのアルバイト先は渋谷の東急百貨店のデパ地下で洋菓子の販売員。デパ地下の食料品売り場というと、キチッとした雰囲気と清潔感が溢れているべきものであろうしそれが渋谷のど真ん中ともなれば客層もハイソであるから、それを迎えるに相応しい接客態度が求められるはずだが、まずはそんなところに何故俺のようなC級人間が働く事になったのかという話である。

きっかけはその当時入っていた学生寮の先輩から「就職活動で辞める自分の後任」という形である種引き継ぎのように紹介されたことである。話を聞けばこれがどうも塾の人間によって代々受け継がれている「世襲のアルバイト」らしく、俺を紹介した先輩もまた、誰かに紹介を受けて入ったのだという。

ド田舎から出て来たばかりの18歳にはデパ地下がいかなるものか全く分からず、聞けば「同僚はおばちゃんかブスしかいない」というし、誘われたときはその得体の知れなさに全く乗り気じゃなかったのだけれど、アルバイトを始めるに際してどうしても通過せねばならない「面接」というものに関しては、紹介であるために採用を前提とした形式上のものであるという。

それに元々働いていた人から紹介してもらうということで、新しい世界へ飛び込む際に最も苦労するであろう人間関係の構築という面についてもある程度はスムーズに運ぶのではないかと思い、その仕事内容や職場環境にいささかの疑問は持ちつつも飛び込むこととした次第。 

そこに飛びつくに至るにはアルバイトが見つからなかったという背景もあった。当然、それ以前、自分でもアルバイト情報誌を頼りに色々と探してはみたのだが、コンビニや居酒屋といったスタンダードな接客を避け続けた結果、落ち続ける面接。そしてたどり着いたのがまさかの洋菓子販売員であった。

忘れもしない初めての面接。面接というと高校入試のとき以来で、履歴書だって考えてみればそれ以来書いた事が無いから、あれはもの凄く緊張した。俺の面接をしたのはその店舗が入っている百貨店の食料品売り場を統括する責任者。周囲からは「統括」と呼ばれていたが正式な役職は不明ながら、ともかく権威にすこぶる弱い俺は「統括」という、どれくらい偉いのか全く想像できない肩書きに必要以上に警戒感を示すのみ。

あの当時の俺はというと、当時の大学生にありがちな茶髪で長めのヘアスタイル。採用されるのが前提とは言え、ここで採用された後の事を考えると面接のときには極力印象を良くしておきたいと思うのが普通だろう。それを思うと茶髪というのはちょっと懸念されるポイントであった。

面接の前日であったろうか、ヘアカラーのPaltyという、デザインからしてギャル仕様としか思えない製品の中の「ナチュラルブラック」というものを購入。“一日だけ黒髪に”とかいう謳い文句があって、きっと日本全国のギャルがギャル男が、俺と同じように、バイトの面接時のみ面接官を欺く為にこれを買っていったのであろうか。

どのタイミングで黒くすれば良いのか分からず、とりあえず面接前の朝、若気の至りの茶色いヘアを黒く染める。スプレータイプのヘアカラーを取りあえず全体的にプシューと吹き付けてみれば“一日だけ黒髪に”という謳い文句にも納得。その黒さの不自然さといったら日本人の美しい黒髪とはほど遠く、鉛筆で書くべきところを黒鉛筆書いたようなわざとらしい黒色で「これは一日だけで勘弁してもらいたいですね」と思ったもの。

大変に不自然ではあったが、茶髪と不自然な黒髪で比べれば無難なのはそれでも黒髪の方なので、ともかく今日だけはと決めそのまま出発。面接が行われたのは事務所の一角。面接室でもあるのかと思っていたが、通常業務の合間をぬって、という感じで周りで忙しなく人が動いている中ざっと行われた。

統括は、統括サンは、スーツにYシャツとネクタイ、そこにさらに割烹着みたいな白衣を着るという、デパ地下特有の変な格好で現れる。ゲゲッ、俺もこの変なの着るのかよなんて思いながら昨晩寝ながら書いた渾身の履歴書を提出。早速だが「志望動機」の欄に書かれた「生活を楽にしたい」というところを「そういうことを書くところじゃない」とのおしかり。その他にも色々とありがたい御指摘を受け、ちぐはぐだったボクの履歴書もすっかり統括されてしまいました(ぺろり)

質問はその後履歴書の記載項目から離れ、フリー・クエスチョンタイムへ。

「君はサッカーかなんかスポーツやってるの?」
「サーフィンやってるの?」
「登山やってるの?」
「結構活発に外にでるの?」

やれやれである。

九州男児と聞いてステレオタイプ的にワイルドな、活発的な男だと思っちゃったのか、野外アクティビティにまつわる質問が連続で飛んでくる。お言葉ですが統括サンねぇ、ガチの九州男児は19世紀に水質汚染と乱獲が原因で絶滅したんですよ。

とはいってもこちらは面接素人であるから、とりあえず質問に対しては「はい」が多いほうがいいと思い、スポーツ、登山にもサーフィンにも「はい、やってます」と答え、チョコレート売りにこれらが一体何の関係があるのかと思ったが、「ハッ!もしや統括様はイエスマンを欲していらっしゃるのでは...」と途中で悟ると、それ以降も続けて「はい」を連発。相手のニーズを心得た、会心の面接だった。

初めてのアルバイト面接を終えると逃げるように家路を急ぐ。せっかく出て来た渋谷の街にも目もくれず、井の頭線を目指して早歩き。家に帰ってさあPaltyを、よそ行きmyselfを洗い流すぞと、鏡の前に立ち、自分の顔を見たところでビックリ仰天。そこに居たのは松崎しげる。恐らく面接への行き帰りでかいたのだろう汗でPaltyヘアカラーが落ち、自分の顔の鼻から上半分が炭坑夫のような黒さ。さながらドリフの爆発コントであった。

ここで面接の内容を思い出す。

《スポーツは...サーフィンは...登山は...松崎は...》

「なるほどこの顔のことだったのか」と、ようやく統括の質問の意味を知る事になる。統括は驚いたことだろう。面接に現れた男が塗ったように黒い顔。何の意味か目的か、コイツを一体どう判断してよいのか分からぬ気持ちを抱え、統括は色んな質問で解明しようとしたのだ。

未知のものになんとかして自分なりの説明をつけて納得しようとする、分かる、分かるぞ統括できない統括の苦しみ... それでも所詮は出来レース。俺の顔が黒かろうと志望動機が意味不明だろうと予定通り面接は合格。翌週の土日からシフトに組み込まれることとなった。

《俺を採用したこと、後悔させてやらァ...!》

しかしその後、採用されて後悔したのは俺のほうであったがそれはまた別の話。

 

寒かったがポロシャツを着た

「お前太ったな~」

その日の晩、日本食レストランで日本からの出張者が俺の体を見てそう言った。彼は日本から来た弊社役員、最後に会ったのは1年と2ヶ月前に本社で出国前に軽く面談をした程度の薄い間柄である。

本人に向かって気軽に失礼な事を言うことで親密さをアピールし、互いの距離を縮められると信じているジジイは多く、通常なら気にしない類のものであるが、その時は心中穏やかではなかった。

「ジムで筋トレしたので体が大きくなったんです」

ややムキになって反論してしまったがジジイは冗談だと思いハハハと笑うとこの話題はすぐに消えた。

やはり心中穏やかでなかった。

この半年鍛えた上半身を、Yシャツの上からちょっと見ただけで太ったと断じられたその日の晩、こどもちゃれんじに興じる息子に近づき腕の筋肉を触らせ、ひとしきり「硬いか!」と聞き、硬いと言わせてその日は眠りについた。

ミシガン州デトロイトの10月末は冬直前といった肌寒い気温。この日も昨日同様に、くだんの役員を連れて各地を廻るスケジュールである。

クローゼットの前に立ち、昨日の夜の事を思い出していた。このままアメリカの食い物を食いすぎたデブだと思われたまま帰国されるのはシャクである。「アイツはめちゃくちゃ太っていた」その様な情報を勝手に流されるのはゴメンなのである。

 

その日はかなり寒かったが俺はポロシャツを着て出社した。ボディがどのようになっているか、これが贅肉か筋肉か、その構造を、真実を分からせるためである。

「お前寒くないのか」

当たり前であるが言われたのはそれだけである。「いえ?」と答えた為、ただ「ああ、デブなので寒くないんだな」と思われた、それだけである。

俺は何をしているんだ。ジジイにデブだと思われたくないがために、自分の体を見せるためにこんな寒い日にポロシャツなんか着て。寒い、めちゃくちゃ寒い、長い袖がほしいナリよ~、と俺の中にいるコロ助の部分がそう叫んでいた。

家に帰り、いつものように腹はめちゃくちゃ出ていたが腕だけはやはり鍛えられているのを確認しその日は眠りについた。

大人の階段

大人とは子供が作った幻想なのかもしれないが、それでもやっぱり大人の階段はこの世に確かに存在する。確実に我々は何かをのぼり、高みに向かっているはずなのである。

 

■会議

会議でこわい人が「なめてんのか!」という不規則発言をしたのだが、議事録を取っていた俺は「ひえ~こええ~」と思いながらも無表情で「改善するよう指導あり」に書き直した。同じ人の「いつまでにやんねん!ヴォケエ!」という恫喝ヴォイスがこだましたが、「期限を回答するよう指示あり」と書き直した。
平らに均された会議の熱量が、こういう味気ない手直しにより臨場感が損なわれるのは勿体無いと思った。「なめてんのか!」という文言が書かれた議事録を俺は読んでみたいよ。

 

■労働

会社で全くやることがない嘱託のおっさんにいきなり会議室に呼ばれ何かと思ったら「お前はちょっと働きすぎだ、まあ休め」などと言われておっさんが営業の第一線で活躍していた頃の武勇伝の聴き手としての完全なる暇潰しの相手をさせられ、定時で話を切り上げ帰宅する嘱託ジジイの後姿を眺めながら、その分のロスをサービス残業でまかなうハメになった。
我々の労働時間が長いのは「なぜ我々は労働時間が長いのか?!」という会議が行われているとはよく言われる話である。

 

■仕事の夢

仕事の夢を見はじめるといよいよ休んだほうがいいんじゃないという事かもしれないのだが、俺は以前会社のデスクトップから不要なアイコンが幾つか消えてスッキリするというどうでも良い夢をみたことがある。出社すると不要なアイコンはそのままだったので「やっぱり夢か...」とこれまたどうでもいい現実を見た。

 

■昼飯

以前勤めていて職場の周りには飲食店が少なく、マズいのに競争が少ないためにやたら混んでいる中華料理屋だけがあった。満員になると、店のおばちゃんがさも人気店であるかのような、得意げな顔で「ごめんねェ~、今日も満席なのォ」などと言うのだが店の中でそれを聞く客、断られた客の双方が「テンメェ、来たくて来てるわけじゃねえからな!」という顔をする。
このマズい中華料理屋に仕方なく行ったときのことだが、出てきた麻婆豆腐がテーブルに運ばれる直前に一度ゴッソリ、お玉かなんかで量を減らされた形跡が残って、そういうのは分からないようにして欲しい。マズいんだから。

 

■Eメール

英文メールを送るとき、自分の名前をローマ字入力するとメールソフトの「つづり間違ってませんか」サービスが作動し、毎回俺の名前の下に赤い波線つけてくるのだが、何か国際的に認められていない名前のような気がしてとても悔しい気持ちがする。

 

■子供

その辺の子供を「ねぇ、ボク」と呼んでみたくなり、一度勇気を出してその辺の子供に道を聞くときに「ねえ、ボク」って言ったけど俺はめちゃくちゃドキドキしていた。子供は堂々とした態度で上手に道を教えてくれた。ボクは俺のほうである。

 

■役職

小汚い喫茶店の店主が、唯一の店員である奥さんに自分のことを「チーフ」と呼ばせていた。
取引先の、社員が二人しかいない小さい商社では、社長ともう一人の人が部長という肩書きだった。この2つの組織の組織表を作ったらめちゃくちゃウケるだろうなと考えていた。


大人の階段、のぼりながら大人になるのか、それとも子供ままのぼり続けているのか。最近それがわからなくなって来た。

クリスマス前、俺は真夜中の築地市場でイチゴを警備した

とうとう築地市場豊洲へ移転したと聞いた。この話をまさかアメリカで知ることになるとはかつてあの場所で働いていた自分は思ってもみないだろう。

思い出せば俺が20代前半に築地市場の青果部門で働いていた時分から「夢の豊洲市場移転!最新鋭の豊洲市場で更なる繁栄を!」的なスローガンは偉い人が声高に叫んでいたものである。あの当時車で予定地を見に行ったことがあったがその頃は周囲に何も無くただ油断しきった作業員のジジイが立ちションをしていたので思えばアレの蓄積が後の汚染物質になり揉めたんかなあと感慨に耽る次第。

今では跡地となってしまった思い出の築地市場。徐々に薄れゆくあの日々をこの機会にまた振り返り記事として残していきたいと思うが、思えば今でも築地の思い出はその時々の旬な果物と共にある。年末の前にはクリスマス。ケーキ、イチゴの季節である。クリスマスで思い出すのは、12月の第二週かそこらに夜中の築地市場でイチゴ泥棒からイチゴを警備した悲しい思い出。少し振り返ってみたいと思う。

 

「年々商業化が加速し、若者向け、特にカップル向けへと突き進んでいるきらいのあるこのニッチなイベントが、何故いまだに我が国で飽きられずに残っているのだろうか...!」

クリスマスとの距離が最も遠くなってしまった学生時代、高円寺の風呂無しアパートで一人、ワンタンをご飯の上に乗せただけの通称「ぎりぎり丼」をおかわりしながら、俺はそんな極めて大学生的なことを大学生っぽく考えていた。12月25日AM1:30。結局何も答えは出ず、ワンタンの買い置きがまだあることを確認すると、俺は台所で体を拭いて静かに眠りについた。頬を涙がつたっていた...。

実際、なぜクリスマスがここまでわが国に根付いたのかは自分なりに考えてみたことがあった。その結論はケーキとイチゴの存在である。この舶来の異文化に対し日本人が唯一理解出来る部分、それがクリスマスのメインを飾るケーキとそこに乗っかるイチゴの存在ではないか、そう思ったのである。ケーキという限りなく神輿の形状に近いあれ。そしてその上にどっかと御鎮座まします御神体はそう、イチゴ。あれはケーキの形を借りた、いわゆるひとつの「神輿」だったのだと。日本人はケーキにジャパニーズのトラディショナルな部分を見出し、それを家族なり恋人なりで、卓上にて小さく囲むことでわっしょいわっしょいと、日本のものとして違和感なく受け入れてしまったということ。頬をつたう涙を拭くティッシュもなく、濡れた頬そのままに俺は寝るに眠れずワンタンの買い置きがあることを確認した後、天井に向かってそう力説していた...。

 

それから数年後、そんな俺がクリスマスと再び向き合うのは大学卒業後、築地市場で働き始めた一年目の冬のことである。俺がいたのは青果部門。それは産地から集められし大事な御神体であるイチゴ様がケーキに着座する直前、かりそめの宿とする神聖な場所。

そんなクリスマスを司る神ともいえる大事な御イチゴ様であるから、12月も第二週へ近づくと大手洋菓子メーカーを中心としたイチゴ争奪戦が繰り広げられるのも当然の話。本来ハイシーズンでもないため流通量は少ないイチゴ。クリスマス需要の高まりでイチゴの価格は日々跳ね上がり、この時期の築地市場ではケース単位、パック単位の欠品でも怒声を伴う揉め事が日々発生する。

そんな状況であるから当然、そのイチゴを盗んで高く売ろうと画策する悪い輩が現れるのも残念ながらこの季節の風物詩である。イチゴに限らず築地には常駐の盗人が何名か居たのだが、イチゴの場合はケーキという間違いの無い需要に支えられ、また重量の割りに高値が付く事もあってか特に狙われる量と頻度が高かった様に思われる。

流通の最上流である市場には全国各地から集められた色んなイチゴがやってくる。これから市場で取引されるもの、先行で値段と買い手が決まって一時的に保管されるもの、それらが市場内にある保冷庫に所狭しと並べられるのであるが、イチゴ泥棒が盗むのはそうした保管中のイチゴである。詳しくは理解していないが、とにかくクリスマス前になると保冷庫には膨大な量のイチゴの乗ったパレットが置かれ、入りきれないものは保冷庫の外にまで並んでいた程、なのであった。

12月のある日、俺は会議室へ呼ばれていた。俺の他に三人、同じく呼ばれた若手社員の前に現れた築地市場、果物部門の部長から言われたのは、「君たちにイチゴを泥棒から守ってほしい!」という衝撃の指令。何が衝撃かといえば、内容のファンシーさよりも僅か5分程度の指令伝達にわざわざ会議室を取ったこと。「では、解散」と言われて会議室を出た面々、口々に「内線で済むだろ」と言っていた。

指令の内容は簡単である。12月のピークに近づくにつれ多発する夜間のイチゴ泥棒に対し、現在の夜勤作業員だけでは手が回らず、体力のある若手社員が日を替えながら夜通しで巡回し怪しい者をチェックし、出来れば確保せよ、という内容。警備という類の受け身のものではなく、命じられたのはどちらかというと積極的に嗅ぎ回り、悪党を退治しろというかなりアグレッシブツかつデンジャラスな任務のように思われた。そのような危険作業を素人に任せて大丈夫なのだろうか。こちらの持つ武器はミカンのダンボールをあけるときに使うカッターナイフぐらいである。

そして12月のクリスマス直前。確か22日かそこらが俺の警備担当の日だった。夜10時、いつもなら寝ている時間に出勤である。久しぶりに見る平日の夜の電車。皆さん、俺はこれからイチゴを守りにいくんですよ、と心の中で叫んでいた。

それにしても慣れない夜勤、慣れない警備の仕事は大変辛く、事前に「築地市場内部の者が怪しい」とは聞いていたものの、この日の現場ミーティングに参加してみれば「怪しいやつがいたらみんなで声掛け合って...」とか言ってるけどハッキリ言ってその全員軽犯罪は10代半ばで全クリしてそうなカンジだし、ノーヒントでこれはキツいとばかりに適当に外観の小汚いヤツを発見したら暫く尾行しては諦めたりを繰り返し、そんなことをしながらひたすら年末に近づき寒さを増す深夜の築地市場でイチゴの周囲を「さむいさむい」とウロウロするばかり。

そんな感じで夜中1時。とても果物を守っているとは思えないSPのような厳つい顔でイチゴさんの周囲を張っていたが何も起こらず休憩時間。30分の休憩にもかかわらず、休憩室で熟睡をカマした瞬間に電話で起こされ完全に寝ぼけた状態で現場へ駆け足で向かう途中、若干上がっていたフォークリフトのツメでスネを強打し戦意喪失である。

フォークのツメでスネを打つ。肉体労働現場では割とあるあるのこのアクシデント、これはもうマジで死ぬほどの痛さなのである。寝ぼけと痛さの相乗効果か、意識を失いかけた俺はそのまま現場にしばらくへたり込み、顔面蒼白、意識朦朧で死期を悟った猫のようにヨロヨロと築地市場の端っこにある売れ残りリンゴのダンボール置き場へ身を潜め、内線携帯の電源を切ると遠のく意識の中、ワンタンの買い置きがまだあることを確認すると、台所で体を拭いて静かに眠りについた。

 

「犯人逮捕」が知らされたのは翌朝のことである。

内部の者の犯行だったそうだ。まあまあ、そんな過保護のイチゴちゃんの安否なんてどうでも良いとして、そんなことより心配なのはあの後の俺である。フォークリフトでスネを打ち瀕死の俺はどうしたかというと、真冬の夜中を極寒のリンゴ置き場のダンボールとダンボールの隙間で震えながらも熟睡して過ごしたのに目覚めたら奇跡的に健康体。打ったスネだけはもの凄く腫れていたが、そんなことよりもヒトなのに果物であるイチゴの手下的な扱いを受けたことにより負った深い心の傷がハンパなく、翌日は有給を取りたいと思っていたが現れた上司に「よし、今日もそのまま頑張れ」と言われるとそのまま早朝から日課である静岡県産高級メロンを200ケース地べたに並べる仕事を始めていた。

「なるほど!夜勤明けでも、そのまま寝ずにノンストップで働けば簡単に元の生活のリズムに戻せるぜ!」というわけである。皆さんがクリスマスに食べるケーキにイチゴが、御イチゴ様が乗っていたらば、その裏に隠された男達の物語を思い出すといい。

中野駅前のラスベガス

ファミコン、ファーストフードに炭酸飲料と子供のころに親から色々と禁じられていたものが多かった関係でいつしか感心すら抱かぬようになり、結果としていやと言うほど自由を与えられることとなった大学生になって初めて体験するものが多かった様に思う。

進学と共に家を出て自分の考えで自由にそれらを経験をしていくうちに徐々に当たり前のものとなっては来たものの、食に関してはなかなか改まらず、ファーストフードや炭酸飲料は「砂や泥水を飲んだほうがマシ!」という親の洗脳教育の結果今でも飲むときは妙な罪悪感があり、結婚した当初は妻に「炭酸買っていいかな」などとたずねたり「週末はマクドナルドへいこう」など目を輝かせて提案して失笑されたほどである。

そんな家庭で育ったものだからゲームセンターという場所に親の同伴なしで初めて入ったのは大学生の頃、中野に住んでいた同じ大学の数少ない友人のフクダ君と共にであった。

フクダ君はスポーツ推薦で入ってきたバリバリの体育会で、俺と同じように父親がめちゃくちゃ厳しいという家庭環境もあってそれまでゲームセンターにはあまり入ったことがなかったのであろう、ある日の夜、隣駅の高円寺に住んでいる俺に「中野駅前にすげえところを見つけたから来いよ」と連れて行ってくれたのが駅前にあったゲームセンターであった。

俺が親の同伴無しに入った初めてのゲームセンターは父親の言う不良の溜り場でも恐喝の横行する治安の悪い場所でもなかった。子供も大人も、男も女もみんなそれぞれが楽しめるゲームに向かって楽しそうに遊んでいる。

子供向けだと思っていた俺のイメージを覆すスロットやカードゲームを模したマシン。ギャンブル性や娯楽性の高い大人のゲームセンターがそこにはあった。特に俺が没頭したのが機械制御の競馬場で小さな馬が走る競馬ゲームである。競馬場の周りの椅子に腰掛け、スクリーンに表示されたオッズを眺めながらコインを賭けて一喜一憂する。コンビニで買って持ち込んできた缶チューハイを飲みながらフクダ君が言う。

「どう、ラスベガスみたいだろ」

俺はベガスには行ったことがないがそのとおりだと頷いていた。たぶんフクダ君もラスベガスなんて行ったことはないはずだが、でも紛れもなくこれはラスベガスだ。夜のゲームセンターにはゲーム機の明りがラスベガスのように瞬いている。中野駅前のラスベガス、なんて楽しい場所なんだ。卒業と同時にフクダ君が中野を去ってしまうまで俺たちは時々思い出したように「あそこ行くか」と連れ立ってあのゲームセンターに向かったものである。

 

それからあのゲームセンターに行ったのはそれから6、7年後、大学時代にフクダ君と最後に行って以来のことであった。卒業後、彼の父親と同じく警察官になったフクダ君は中野を去り、他の大学時代の友人同様、卒業後疎遠になってしまったが俺は就職、結婚してまだ中央線沿いに住んでいた。

ある晩思い出し、中央線沿いで一緒に飲んでいた数人に中野にいいゲームセンターがあるから行こうと言い出したのは俺だった。

「ラスベガスみたいなんよなあ、すごいんだキラキラしてて」

嘘だろ、そんなもん中野にないだろう、などと言われながら駅から歩いて向かう最中、ラスベガスの場所を知らない彼らに黙ってゴミゴミした裏通りなどをワザと遠回りしながら大学以来殆ど足を運ばなかった中野駅の雰囲気をひとり感じていた。

 

数年ぶりにあのゲームセンターに着くと全てが以前と変わらずそのままだった。多少経年劣化は進んでいたが競馬のゲームもそのまま、大人も子供も楽しむあのゲームセンターそのままだ。懐かしかった。

「な、すごいだろ」

連れてきた彼らは冗談だと思って笑っていた。何がすごいのかわからない、普通のゲーセンじゃないかと言われ、その時俺が来たことのあるゲームセンターがここだけだという事に気づいた。そう言われると急に自信が無くなり、そう言われるとこれは普通のゲームセンターかもしれないと思い始めた。競馬のゲームは正直言って壊れているし、スロットマシンには補強用にガムテープが貼られている。この歳になってよく見ると客層だって良いとは思えない。もっとキレイで広くて、最新の凄いゲームセンターは沢山あるのだろう。ましてこれをいい大人が真顔でラスベガスと呼ぶなんて。俺はラスベガスに行ったことはない。フクダ君だってそうだったじゃないか。

帰りたそうな彼らを見て嬉々としてここに彼らを連れてきた自分、今の今までラスベガスと呼んできた自分への恥ずかしさが急にこみ上げ、本当に見せたかった○○がなくなってるという類の苦しい言い訳をしながら足早に去り、連れてきたうちの一人がおすすめするという中野の裏手にある味のある飲み屋を求めて夜の街へ消えていった。