神宮球場で東京音頭をテキトーに歌ってしまった

東京に住んでいたときに神宮球場に野球を見に行ったことがある。観たのはヤクルト・巨人戦であった。

購入したのは外野の自由席。人気の巨人戦だとは言え、夕方六時から行けば自由席には人もまばら、座りたいところは選び放題。野球観戦に慣れていない俺はどこが良い席なのかもよく分らずバックスクリーン近くに座り、早速購入したビールをゴクリ。青空の下で飲むビールは大変美味しい。

周囲にヤクルトファンが集り出すとのんびりしていた外野のはずれの方も次第に騒がしくなってくる。ヤクルトには熱狂的なファンはあまり多くなく、どちらかというと会社帰りのサラリーマンみたいなライトなファンばっかりなのかと思っていたのだが、テレビで見るような球団グッズを全身にまとった熱狂的なファンの実に多いこと。

試合開始と同時にビールが飛ぶように売れ、しばらくするとお酒が入って具合の良くなってきた方々による無秩序なヤジがほうぼうで始まる。

「ピッチャー!ジョア飲んできたのか!」
ビフィズス菌がたりねぇんじゃねえのか!」

ヤクルトだけにこのようなヤクルト製品に絡めた小粋なヤジでも聞けるのかと思ったらそうはいかなかった。

聞かれたのは相手チーム及びそのファンを貶す至極普通のヤジである。神宮球場素人の俺が、そう易々とパンチの効いたヤクルト特有のヤジなど聞けるものではないが、それでもヤクルトファンでさえ観客のヤジというものがこうも活発で聞き応えのあるものとは思わなかった。

ベテランのヤクルトファンともなると私設応援団からは距離を置き、ビール片手に単独で思い思いのヤジを飛ばす。パンチなど効いていない普通のヤジでも、初めての者には十分楽しめるエンターテイメントである。

程なくすると、酒の勢いもあってか周囲に触発されたように明らかに気の弱そうな、野球経験はいかにもファミスタだけですといったような線の細い色白の若者ですら感極まり「やいやいやーい!」と、我々野球観戦素人には全くもって意味のわからない感嘆符を神宮の空に投げかけたりする一幕もあったりして、いやはや野球場の外野席には俺の知らない世界が広がっていたものである。

回も3回ごろだっただろうか、しばらくすると俺の席の前にどっかと腰を下ろす三人組み。20代前半と思われる娘に、50代後半の両親の三人家族と思われた。大人しそうな感じだが、皆熱狂的なヤクルトファンなようで、共通の話題があるためか随分仲が良い。

これまでも仲良く家族三人で幾度となく応援に来ているのだろうと思われたのは、ヤクルトの攻撃が終わる度に、串焼き、ソーセージ、ポテト、弁当、終いにはアイスクリームと、次々に売店から食い物を買ってくるその手馴れたムーブから明らかであった。恐らくこの家族にとって、週末とはこうやって過ごすものなのだろう。

よく聞くホームランの擬音である「カキーン!」よりは実際にはもっと鈍く太い「バコン」という音がしたのはそれから間も無くのことであった。

周りの観客ばかりを観察していた俺は気付くのが大分遅れたのだが、ヤクルトの選手がホームランを打ったらしく観客席がにわかに沸いた。それまで大人しく食べることに熱心であった前の席に座る家族もこのホームランの瞬間には突如立ち上がり、どこに隠し持っていたのか小さなビニール傘を取り出すと、おもむろにそれを振り回しながら「花の都~♪」と歌い出した。神宮名物ビニール傘と「東京音頭」だ。

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前の家族三人がモコモコと足並み揃わず左右に揺れる様はかなり異様で、思わずトトロのワンシーンを思い出したものであったが、彼らに構っている場合ではない。すっかりこの東京音頭の波に乗り遅れた俺以外、気付くと周囲の皆はどこで仕入れたのか前の家族のようにビニール傘を持っている。俺はファンではないし、東京音頭など全く知らないのである。

とりあえずビールを片手に立ち上がり、前のおばちゃんの背中を眺めながらそれっぽく揺れるしか手立てはないがいかんせん傘がない。井上陽水はまさかこの状態を歌っていたのではないか。傘がない。神宮球場で。濡れるより辛い、新解釈。

ひとしきり東京音頭を満喫した神宮球場が一斉に座りだす。ビニール傘と東京音頭に囲まれた俺もさえない顔で孤独に座る。温度差ならぬ音頭差。とんだ神宮名物である。

ホームランが出るたびにこれをやられたんじゃかなわんと思った俺は、それ以降ヤクルトの選手がちょっとしたフライを打つたびにビクビクしていた。今更席を移動する気にもならないし、試合も5回ともなれば外野自由席はそう思ったところに座れるわけではない。

それに俺はさっき見てしまったのである。前のほうに座っていた若いカップルが、6回あたりに荷物を持って席を立つと後方から「帰るな!」「まだ見ていけ!」などと矛先・オブ・ヤジが一斉に向いて行く様を。途中で帰るなんてお前らはホンモノのヤクルトファンじゃない、おうちに帰ってママのピルクルでも飲んでろや!そんな殺気と共にヤクルトだけに悪玉菌は集団でシバくカゼイ=シロタ株システムが発動する瞬間を、見てしまったのである。

それからほどなくして本日二本目のホームランがヤクルト側に飛び出す。わわわわわまたかよと思ったが今度は取りあえず速やかに立った。立っていれば、周囲との高さの差さえ無くせば何とかなるのだ。歌は分からない。歌の方は「そういう具合にしやさんせ~ そういう具合にしやさんせ~」と一人で野球拳の歌を改造したそれらしい歌をうわ言のように繰り返し何度も歌うことでなんとかやり過ごした。もうこんなの懲り懲りである。

そしてこれが、別にホームランでなくとも普通に点が入っても歌うもののだと分ったとき、さすがに俺はもう席を立ち、《俺は普段「ラブミー・エース」というヤクルトの偽者を飲んでますッ!》と心の中で懺悔しながら、駆け足で出口を目指していた。

 

イラスト:盛岡 (@kozzzo) | Twitter