都内

「しかし××くん、都内はアレだねぇ↑」

あれは20代半ば、前職でのことである。午前中の、まださほど忙しくない時間に、今日も上ずった声の支店長が部下とのコミュニケーションのつもりかフラリと話し掛けてきた。

とはいえこの支店長、人と話をするのが苦手なのか、話そうとする直前必ず軽く「スー」っと深呼吸をし、そして声は上ずり、雑談の中身は大抵意味不明である。

丁度俺はExcelで「23区の地図」を作っていたところ。いまさら23区の地図等作る必要など無く、勿論これは仕事に見せかけた暇つぶしだ。

「はあ、なんでしょう...?」

さも「やってました」というような顔をした俺は、その声で一旦手を休めるとクルリと上司の方へ体を向ける。

「スー」っと深呼吸をする支店の長。俺は冷たい目でそれを見る。

「ええと、都内はさぁ↑」

支店長が続きを言おうとしたとき、彼の胸に潜んでいた携帯電話が「ピリリリ」と鳴る。

「××くん、ちょっと、ごめんね...↓」

「ええ」

 

 

それから10数時間。その日は群馬まで車で行き、帰りは初めて首都高に乗り、会社のあった港区の湾岸沿いまで帰ってきた。小雨の降る夜の首都高。ちょっと緊張した。

助手席の先輩を眠らせないよう、色んな話をしてひたすら笑わせていた。「××くんは面白いねぇ」と何度も言われたが、結局力及ばずその先輩は埼玉の南のほうで寝た。

だがそんなことはどうでもいい。

自宅に帰り、黙って机の前に座ってその日あったことを思い出していた。PCのデスクトップで開いたヤフーの芸能ニュースを眺めながら考えていたのは今日の午前中のこと。

「しかし××くん、都内はアレだねぇ↑」

都内は一体何だったのだろうか。

スラムダンクの連載が始まったとき、男子はみんな流川楓になった

スラムダンクという漫画、説明するまでもなかろうが、あの連載が始まったのが多分俺が小学5年か6年生の頃で当時NBAは既に人気で観るスポーツとしては日本でも人気があったものの競技としてはまだまだ日本ではマイナースポーツだった時代にあの漫画は少なからずその今日人口を底上げするきっかけになったといっても過言ではなかった。

実際にどの程度バスケット人口を増やしたのかその定量的なデータを見たことはないが、あの当時俺の周辺ではバスケット部の部員数は急激に増え、付近の小中学校でも同じことが起こっていたのだから全国的に見てもスラムダンクをきっかけにバスケットボールというスポーツの認知度は高まり、結果としてあの漫画はかなり競技人口を増やしたのではないかと思うのである。とにかくあの当時、男子ならずとも10代の若者に与えたインパクトはそれなりのものだったと記憶している。

 

スラムダンクの連載の始まりがあの当時の小中学生に与えた影響の大きさというものを説明する上でもうひとつの説明すべきエピソードとしては、あの当時、特に男子中学生の間に「流川楓」が激増したことである。言い換えると流川的なカッコいい男子キャラクターの概念が当時の男子生徒の中に初めてインストールされたのである。

少女マンガではあの手の気だるい雰囲気をかもし出すクールなキャラクターはそれまでにも存在し割と一般的だったのかもしれないが男子はそうもいかない。女子に比べて粗暴で単純なストーリーを好むのが男子の性質なので「クールなキャラ」と言われて連想出来るのはベジータぐらい。頑張ってひねりだしてもせいぜい食パンマンである。

「シュミ...寝ることかな...」

初期スラムダンクの名言として男子生徒のハートを掴んだのが流川のこの台詞である。趣味を聞かれて寝ることと物憂げに答える流川。クールなイケメンと言えば女子の視線を少なからず慮り常にキメキメであるものと思っていた男子はこれに衝撃を受けその瞬間皆一斉に趣味が寝ることになった。

「えー、趣味は寝ることです。」

クラスの後頭部の寝癖がいつもハンパないデブの童貞が新学期最初の自己紹介で別に聞かれてもいないのに物憂げな表情でそういった。「まあそうだろうよ」という感想しかなかった。このように自己紹介、例えば卒業文集や様々なメンバー紹介の紙面上にも一斉に「趣味:寝ること」という文言が広まった。見渡せば男子はみんな趣味が寝ることになりつつあり、彼らは背は165cmぐらいで学生服のズボンは寸足らず、顔はとても不細工で性欲だけはNBA級だったが趣味を語るときは一様に流川のように物憂げに、気だるそうに「寝ること」と言った。

でも笑わないであげてほしい。あの当時のスラムダンクが与えた影響はそれくらい大きかったのだから。俺も大好きだったスラムダンク。流川の寝ること以外にも色んな名言があったが、社会人になったいま一番役に立っているのは桜木の「ごまかす!」と流川の「もみ消す」ぐらいである。

仕事中に寝たいという気持ち

研修期間中、物作りから覚えるためにと工場のラインで3ヶ月近く働いていたときの話である。

先日、いつも通り死んだ目で立って材料の裏側をゴシゴシ磨く作業をしていたところ、現れた班長に「そろそろ顕微鏡を使ってみるか?」的な問いかけをされたときは、そのさも何らかの特権を授けようとしているかのような得意げな顔にたかが顕微鏡でよと若干のイラつきを覚えたものの、それまで行ってきた力仕事や単純労働の類と比べた時の、「顕微鏡」という響きにある若干のアカデミックさというか、それならやんごとなき大卒の身分に幾らか近づくかもしれないという、我ながらの性根の腐ったマインドが刺激され「へえ、ぜひぜひ」などという卑屈な返事でもってそれを甘んじることにしたのである。

具体的な作業内容はカツアイするが、つまりは顕微鏡で決められた箇所を決められた倍率で眺めて、その数値を決められたシートに記入するという、内容こそスマートになったものの、今までの単純労働とはさほど変わらないばかりか、モノを作るわけでもないので殆ど技術も緊張感も要らない上、その作業スペースときたら工場の端にある酷く殺伐とした場所とくれば、もしやコレ、いわゆるひとつの閑職ではないのかと、最初はアカデミックな集団に見えていたその現場に居るメンツの表情も冴えないものに見えてくるというものである。

なお、顕微鏡にも色々な種類があり、俺にあてがわれたのは一般的な光学顕微鏡の双眼タイプである。他にもハイレヴェルの横文字の顕微鏡もあったがそれは認定されたものしか作業出来ないなどどケチくさいことをいい触らせてもくれなかったのである。

とはいえこの光学顕微鏡、実際に作業をするとこれが意外と楽しく、何が楽しいかと言うとぼやけていたモノたちにピントを合わせ、光を調整し、その姿がクッキリと見えるまでの一連の操作である。ボンヤリとふぬけた感じでレンズに現れる対象物が、俺のさじ加減で徐々にハッキリとした姿を現したときの気持ちのよさである。

恐らくそれまでの単調な工場作業でアタマがおかしくなりつつある一つのお知らせかもわからんのだけど、このピント調節作業に対し不覚にもゲーム性を感じてしまった俺はすっかりピント合わせの虜となり、次の検査物が来ては喜び、またそのピントが幾らかでも合いにくいものが来ようものならちょっとしたヤル気など出してこれに挑んでは、最終的にピシャリと合うピントにニヤリとする始末。

しかしまあ当然楽しいのは最初のうちで、勿論俺自身のこの作業への慣れもあってか検査ラインも2日目にはほとんどピント調節に苦労せず、とうとうこの作業にも完全に飽き切ってしまった。

作業が単調になると眠気が訪れる頻度も高くなり、また、この作業が椅子に座って行われることも相まってか、こっそり眠ってしまいたい欲望に打ち勝てないようになっていったのであるが、というのも、先に説明した通りこの顕微鏡の形状は双眼鏡のように両方の目で見るタイプ、つまりこれを使用している間は例え目をつぶっていても外部からは知りようがないのである。

この事に気付いた俺は早速、両目を顕微鏡にあてがい、少し肘をつくなどして体を支え、それらしい操作をしながら目を閉じてそのまま瞬間的に眠りにつくことに成功した。

ほんのわずかで目が覚めたのはドキドキしていたこもとあったのだろうし、この体勢で寝ることに慣れていなかったのだろうことは、その後1分、2分、、、5分と睡眠時間が徐々に伸びていくことで明らかになり、ついに10分程度の睡眠をこなした時は妙に嬉しくなり「1時間行ける」とそう考えたものである。

結局その日寝ている所を見つかりキツく注意されて以降は俺が顕微鏡を使用する最中に横からアカデミックな視線を感じるようになり眠ることは叶わなくなったのだが、最近この顕微鏡の他に黒い弾幕のような囲いに覆われた個室で物体を投影型しその形を見るという、丁度証明写真機に近い個室感、サイズ感の検査機器があることを突き止めたので、今度班長に「ボク、あれを使ってみたいんです」などとピュアネスの権化のような表情でオネガイしてみたらきっと使わせてもらえるかもしれず、そうなったら仕返しに5時間ぐらい寝てやるぜと固く誓ったもののその願いは一生叶わぬまま俺は数日の後再び元の材料の裏側をゴシゴシするだけの辛い作業に戻る事となった。

恐怖!めちゃくちゃ無愛想なドイツ人との商談

俺の仕事は技術サポート的なものである。かつて築地でフォークリフトに乗りセリまでしかけた文系の俺がアメリカで技術をしている理由は俺がめちゃくちゃ頑張り屋さんである他に理由はないのだが、その辺をよりたくさんの皆さんと分かち合い褒めてほしい気持ちは置いておいて、この技術サポートというのは全米各地で主に在宅勤務をするアメリカ人営業マンに呼ばれ、一緒に客先へ出向き不具合対応や営業をするのが主業務である。

先月のこと、ある営業マンに何度督促してもまったく進捗しない案件があり、「自分で行くから面談組んでほしい」と依頼した客先があった。製品サンプルを大量に投入した大きな案件である割には営業マンの報告や活動が淡白でまったく進捗がない。

この営業マンに問題があるのではないかと正直疑っていたのもあり、一人で乗り込んで話をつけるほどの腕も英語力があるわけではないが、それほど自分のほうにも日本側から問い合わせや督促がキツくなったものあって一人でいくところまで追い詰められたのが実際のところである。

「来週月曜日の1:00PMによろしく」

翌日、アッサリ面談の時間を知らせる返事が来たことからいやな予感。自分が行かなくていいとなるとこうも簡単にアポイントが取れるというのは、何らかの理由で自分のほうから客先に連絡をしていなかったというのは誰もが思いつくところ。

 

指定された翌週月曜日、客先エントランスで聞いていた担当者名のエドウィンという男性の内線に直接電話をし来訪を告げる。応対する先方の口調は極めてぶっきらぼうでそしてアメリカ人では無さそうな、いわゆるブロークン・イングリッシュであった。

現れたエドウィンさんは40代のドイツ人、身長190cm近い長身で内線電話で受けた印象どおり非常に不機嫌そうな表情。あとこういうのを確認している場合じゃなかったんだけど、エドウィンと聞いて一応チラっと、履いてるブラックジーンズみたらリーバイスでまあそうだよなと思いました。

そんな中でこちらにとって良かったのはエドウィンさんの英語が巻き舌のアメリカ英語ではなく割と聞き取りやすかったことぐらいで、あとはめちゃくちゃ厳しい表情で開口一番放たれた「先に言っとくけど、うちはあまりおたくとの取引には乗り気ではない」というセリフであの営業マンが近寄ってない理由が何となく分かってしまった。彼の口から出るのは当社営業マンの対応や見積もりの値段、また他メーカーがいかに優れた対応をしているかという話。それをめちゃくちゃ厳しい表情で淡々という訳である。

巨大なドイツ人にカマされた先制攻撃に1年前なら心が折れてアイムソーリーとだけ言い残し泣きながらJ-PopをBGMに直帰したところであるが、これで引き下がるといよいよゲームセットである。「なるべく考えて喋らなくていいように先に色々と英語で書いてある駐在員あるあるパワーポイント」で形勢逆転を図るも、ページが進めどエドウィンパイセンの心に俺の英語が響く様子がない。頷きもしない。

状況からして見込みも薄い、無反応のドイツ人の前でマンツーマンで行う地獄のプレゼンテーションであったが、「もうやめま...すか...?」など途中で終わるわけにもいかず、というか俺は途中で終わりたかったけれども!、その「やめちゃう?」的なニュアンスを英語では到底表現出来ず、もはや心だけは折れないようになんとか完走して帰ろうと決意、終盤に差し掛かった所である。

「え、日本の会社?日本人?」

この俺の見事なまでの日本顔に逆に今までなぜ気づかなかったのか不思議だが、資料の途中に出てきた一箇所の英訳漏れの部分を見てエドウィン御大が今までと違う声のトーンでそう質問してくるのである。

「日本はドイツの次に好きな国。日本製もとても好き。」

営業マンがいかにきちんと説明をしていなかったかである。我が社の自己紹介もほどほどに商社を経由して大量に製品サンプル投入をしていたのだから恐ろしい話である。もしかしたら訪問した事すらなかったのかも知れない。

エドウィンさんは俺が日本人だと分かると急に態度を変え工場を案内してくれて沢山情報をくれた。途中何いってるか正確には全部聞き取れなかったけど日本人の真面目さとかその製品の信頼性などを色々と褒めてくれて、今の俺は完全にそれに乗っかっているだけだけど、ここまでの世界で日本のブランドイメージを形成してくれた過去の先輩方には感謝するばかり。

「正直あなたの会社はこの案件で後れをとっているけど、何か助けになれることがあれば連絡してください。」

最後にそういって握手をして分かれたエドウィンさん。こんなインターネットのみなさんが好きそうな話が実際にあるんだなと思いながらJ-PopをBGMに帰路についた。

高円寺の居酒屋「山おやじ」

今はもう無くなってしまったのだが、学生のころ住んでいた高円寺に「山おやじ」という居酒屋があった。

最初に入ったきっかけや通うようになった経緯など全く記憶にないのだが、気づいたら月に1回は何となく一人でフラっと入るような店になっていた。

山おやじは安価であった。会計が2,000円を超えたことがなかった。安く、長く居るにはもってこいのお店で、結果としてそこはビンボー学生やバンドマンの巣窟となり、客単価が安い割に回転率の悪いという儲からない居酒屋の典型であった。

貧乏学生やバンドマンに愛されたのは店主のキャラクターでもあったように思う。夜も11時ぐらいになると実質一人できりもりしているヒゲ面の店主も飲み始め、2時を過ぎたころに泥酔しているのを度々見た。そんなときは会計が妙に安いときがあり、多分途中から伝票に飲み代がちゃんとチェックされていないのだろうということを悟ると、俺は「夜中に来よう」と、そう固く誓ったのであった。

あるとき、深夜のコンビニで無くなった酒の補給にきたと思しき店主と遭遇したことがあった。普段はさほど口数の多くない店主だが、そこそこアルコールが入っているらしく、その日はいつもより饒舌に絡んでくる。

「今から店に飲みに来いよ」

そういうわけで誘われるがまま山おやじに行くといつもいる名前は知らない常連と盛り上がっており、その数時間後には限界を超えた店主から「今日はもう帰って」と残っていた俺を含む泥酔状態の数人は追われるように店を出された。会計はゼロ。おやおやいいのかとオドオドしつつも、心の中では「夜中に来よう」と改めて固く決心。

手持ちがあまり無いが酒が飲みたくてどうしようもないとき、夜中の2時ごろまで家でぼんやり過ごしたのち、「そろそろ店主の酔いも回っただろうか」と立ち上がり、トボトボ歩いて山おやじに向かった。クズの所業であるが、この手を使い、俺は2回か3回か、飲んだ量の半分以下の会計で酒を嗜んだ。

完全に所持金がゼロのときはさすがにそれで店に行くのははばかられ、二匹目のドジョウを狙って以前遭遇したのと同じコンビニに同じ時間に向かい、酔って上機嫌になった店主の登場を1時間ほど待ち伏せしたこともあった。店主は現れず「じゃあいいわ」と道にツバを吐いて帰ったが、あの時は泣きたくなるほど金が無かったのである。

貧乏がピークに達していたある日の夜中、ダメ人間の街・高円寺には、それを体現すべくついに所持金ゼロで一か八か、酔った店主に期待して山おやじに突撃せんとする無一文の俺の姿があった。

「いざ。」

結論から言うとその日一銭も払うことなく無傷で無事自宅へ生還したわけだが、考えれば考えるほど、こういう輩のせいで山おやじというお店は潰れてしまったのではないかと思い、心がいたんでならない。俺は本当に反省している。

山おやじの店主は元気だろうか。俺は本当にお礼がいいたいんだよ。