何者かにゆっくりと追いかけられる夢

今でも時々足元のぬかるんだ歩きにくい場所で、後方から迫る何者かにゆっくりと追いかけられる夢を見る。心身のいずれかが不調のときみる定番の夢である。なぜこの同じ夢を毎回見るのか、それにはどうも原体験となる子供の頃のエピソードがあるようなのである。

 

引越しが多かったので思い出の場所から自分の年齢を思い出す事ができるのだが、近所の畑の脇にあった木から友達と共に、そこになっていた幾つかのビワを盗んだのは、おそらく小学3年生のときである。

自生している天然モノだと都合よく解釈し、木になっているビワの幾つかを勝手にもいで持ち帰ろうとしたものの、遠くから怒声が聞こえた瞬間にこれが人のものだったのだと気づいたわけだが、とき既に遅く、怒声の主である農家のおじさんは一部始終を見ていた畑の端っこからトラクターでドドドドドと接近しながら「そこから動くな!」と叫んでいる。狭い町内、知り合いの可能性は高く、これは大変な事態である。

ビワなど好きでもなく食べたいとも思わなかったのだが、「アーケードの夏祭りで売れる」なんていう友達が戦後少年の発想で血走った目してビワを取り始めるもんだから俺も「そうか、売れるのか」なんて付き合った結果がこのザマである。

「動くなよ!」

怒られる覚悟を決めその場でおじさんの到着を待とうとした我々だったが、第一盗人発見からしばらく経ってもその到着はなかなか訪れず、なおも「ドドドドド...」と妙にのんびり近づいてくるトラクターのそのスピード感の無さ。

「逃げよう」

眼前に広がる広大な畑に向かって果敢に逃走を図ったのはトラクターのあまりの遅さに勝算を見出したからである。おじさんはよもや逃げるとは思っていなかったのか「ワリャ、コノ!」など狼狽しつつ語気を強め、だけどなおもトラクターで追ってくる。子供の逃げ足などたかが知れているのだが、相手がトラクターならば話は別である。

作物の収穫前後のいずれかはわからないが、ともかく何もない広大でプレーンな畑を、青空に見守られ、柔らかい土に足をとられながらゆっくり逃げる、その後ろには怒声とエンジン音。トラクターがゆっくり接近してくる光景。スローな世界で行われる間抜けな逃走劇がそこに展開される。しかし逃げる小学生は必死で、畑の中、上手く走れないところに追っ手がゆっくり近づいてくるあの恐怖。冒頭の夢は、あのときの妙な感覚が今でも忘れられないのではないだろうか。

結果、無事逃げ切ることが出来た。こうしてビワを持って帰った俺であったが、「新鮮なビワを運よく拾ったよ」などと言ってもウソは5秒でバレ、当然親には激怒されるのであったが、相手のスピードに関わらず悪事を働けば必罰の運命からは逃げられぬことを知り、そして今も時々悪夢としてその罰を受け続けているのである。

人と話を合わせないと

こうみえて意外と対人関係では気をつかうタイプなので、特に一対一のときなどには人と話をうまく合わせなければ、沈黙にならぬよう話を繋げなければという思いが強く、結果相手の話の中から、その言葉尻などを拾って話を広げた結果いつの間にか自分の話をしている、という事が結構ありその都度反省をしている。

自慢げにいうつもりはないが、昔ちょっと本で見たことや人にチラっと聞いたことをやたら記憶していることが多く、その内容に関して話が出たときに、それに対して過去の情報をフル活用していかにもそれっぽく、浅い知識をうまいことバレないようにしてボールを返すことが出来ているつもりであるが、書いたとおりそれが気付けば独りよがりな自分の話になっているケースもありそれでいいのか悩ましいところでもある。

例えば先日打ち合わせで会った取引先のおじさんにその可愛い写真と共に自分の飼っているコリーの自慢話をされたときなど完全にそのコリー及びコリーのエピソード、さらに言えばそのオッサンに関しても一切興味がなかったのだが、だからこそそれがバレぬようにと多弁に、より饒舌になり出てきた話が

「昔スーパーJチャンネルという夕方の報道番組で、徳島県の山間の村で野生化した犬の集団が付近を荒らしまわっているというニュースがありましてね」

「ほうほう」

「その野犬集団のリーダーがコリーでめちゃくちゃウケたんですよねェ...」

「ほう...?!」

しもた!やってしもた!という表情がフルに顔面に出たまま会話は終了した。俺がコリーについて知っていた情報はスーパーJチャンネルの野犬化したコリーが雑種犬を引き連れているあのめちゃくちゃシュールな映像だけ。事実上コリーについてゼロ知識なのに、何か言わないとという想いがTもPもOもわきまえないコリー面白話を、しかも絶対にその話が琴線に触れるはずのない愛犬家にしてしまったのである。

しかしである、これを「飼い犬」という話題でもって話そうとしていたば、出てくるはずだったもう一つの話が

「昔飼っていた犬がバカである日庭にした自分のウンコに一晩中吼え続けててめちゃくちゃウケたんですよねェ....」

というコリーなどを愛でる徳の高い愛犬家にすべきでないペットC級話だったので野犬化コリーのほうが共通項があってマシだったのかもしれない。要は偉そうにワイはどんな話題にも返せまっせ~みたいにカマしといてその実俺の返しがこの程度ということである。

俺が見えないのか すぐそばに居るのに

吹き抜けになっている自宅の2階からリビングにいる家族に「今日COSTCO行ってデカい肉買いに行こう、あと水もないし。あ、この際だからビールもまとめ買いすっか。」と呼びかけたが誰も返事をしなかった。

「おーーい、COSTCOいこうや。デカい肉と水とビール買うぞー、いいかー」

2度目の呼びかけ、しかし誰も返事をしない。妻はスマホを見ている。息子1は本を読んでおり息子2は絵を描いている。俺の声が聞こえないのだろうか。俺が見えないのか、すぐそばに居るのに。

「おい!COSTCOいきませんか!デカい肉!水!ビール!」

再び俺はリビングの家族に向かって2階からデカい肉、水、ビールという、熱にうなされたバカのうわ言のような3度目の呼びかけを試み、そしてやはり反応がなかったその瞬間、

「まさか俺、、、し、死んでる...?」

そう、割と、かなり真剣に、高いところから家族を見上げているシチュエーションも手伝い、自分が幽霊になったのではとほんの一瞬だけでも疑ってしまったのである。ここは天国、俺はCOSTCOのデカい肉と水とビールが諦めきれずこの家に居座る悲しい地縛霊なのかと。いやすぎる。

また先日久しぶりに日本の知り合いに近況をたずねる他愛のないLINEを送ったが3日経っても返事が返ってくる気配がない。時を同じくして日本の同僚に電話をしていたが留守番電話になり、そのまま折り返しの電話がかかって来ていないことに気づき、また別の友達の子供の誕生を知らせるSNSに対し、滅多にしない俺のやんごとないコメントも放置されているようである事にも気付いてしまった。俺のコメントの前まで、他の人には全て返信されているのに...?

そしてその瞬間、割と真剣に

「これは、、、まさか日本で何か大きな天災などがあったのでは」

そう思って、ツイッターやネットで一応調べてしまったのであるが、やはりというか、何も起きておらず俺への返事が連続で放置されているという天災より悲しい事実に直面してしまった。

突然後輩になるオッサン現象

本日は「突然後輩になるオッサン」現象という概念についてお話したい。

最初にこの現象に気付いたのは学生のとき。アルバイトをしていたカラオケ屋の店長(47)が、突然我々に敬語を使い始める時間帯があることに気付いたのが発端である。それは妙な体育会系のノリで「~ッス」という具合。サン付けまでしてくれるという徹底ぶりで、普段は推定能力の500%ぐらい余計に偉そうにしていただけに甚だ奇妙であった。

「いいッスよ、俺がやるッス、俺がやるッス」

このように言葉だけでなく、積極的な態度まで完全に後輩になるのである。顔はいたってマジであることからおふざけではなさそうである。俺が何かしたようにも思えず、心当たりが全くない。

この店長後輩化現象、他のバイト仲間に話したら「確かにそういう時間帯がある」という証言が得られた。スズキ君というイケメンは「試しにすき放題こき使ったら言うことを聞いた」とかなり踏み込んだ検証を行っており、イケメンの秘めた残虐性を垣間見た瞬間でもあった。

「おい、ちょっと時給あげとけや」
「上げるッス、スグ上げるッス」

こんなことも可能だったかもしれないが、勇気のない俺は結局後輩化した店長をスルーすることしか出来ず、ただ気持ち悪さを感じながら働いただけであった。

「洗い物はボクがやっとくからいいッスよ?」
「・・・・お、おうよ。」

「幼児退行」はよく聞く話だが、このような「後輩退行」は聞いたことがない。仮に精神的な何かだとして、退行するにしても青年時代にというこの中途半端な退き方はイラっとする。歳をとりすぎて退行が幼児にまで達しなかったのだろうか。詳しいことは素人なのでよくわからんけど、なんにせよ退くならもっときちんと退いてほしいものである。

今回のカラオケ屋の店長は一つの極端な例かもしれないが、こうしたオッサンの意表をついた後輩化は珍しいことではない。皆さんもどこかで経験したことはあるのではないだろうか。

終始厳しいムードで進んだ緊迫感溢れる会議。ご講評をとコメントを求められた会社の偉い人の、その締めが「じゃあ、それでいいッスヵね!?」など、肝心なところで後輩化して妙な雰囲気になる事例など、気づけば沢山あるはず。

そういう時はどうか騒がず、落ち着いて適切に先輩ぶってもらいたい。先輩だからって殴っちゃだめだよ!

マサルセックス

中学の頃、近所の電柱に緑色のスプレーで「マサルセックス」と殴り書きされていた。

最初はよく読めなかった。雑な字であったし、スプレーとはいえ風雨にさらされたのかところどころ線は消えかけている。それでもセックスだけはハッキリと読み取ることができた。問題はセックスの前の三文字だったが、あくまで実存する日本語の範疇でその意味を考えつつ、数人で解読してみると「マサルセックス」に着地せざるを得なかった。

マサル・セックス」

マサルセックス。言葉の意味は分からないがとにかく凄く自信に満ち溢れた言葉だった。全員セックスをしたことがなかったのでなおさらである。通るたび、その電柱からはえもいわれぬ神々しさすら感じられた。

ただ不幸にも、当時所属していたバスケット部にはマサル君が居り、彼はその落書きのせいでしばらく「マサルセックス」という中学生らしい安直さでとても残酷なあだ名を付けられる事となった。マサル君もまた、もれなく童貞である。

我々より読書量、映像教材の経験が多く、より性知識を持った平たく言うとめちゃくちゃエッチなことに詳しい連中により、我々が「マサルセックス」と読解していたものが実は「アナルセックス」の間違いだと嘲笑と共に指摘されたことにより、我々のエロ知識には遅まきながらアナルセックスが伝来した。

「そのような裏ワザがあるんですねえ」

と同時に、思い出されるのは我々の勘違いで不幸にもマサルセックスと名づけられたマサル君の心のケアであるが、「ならば」とばかりにその後マサル君はしばし「アナル君」と呼ばれる暗黒時代を迎えるのであった。