上司に俺の愛妻弁当を食べろといわれ

以前仕事場の上司に突然「おい、俺の弁当食ってくれるか?」と言われ、持参してきた奥さんの手作り弁当を突然渡された。何らかの用事で弁当が食べられなくなったらしいその人は、俺に自分の弁当箱を渡すと俺の答えも聞かずにスタスタと去っていった。

よその家の手作り弁当を初めてもらったのだけどかなり嫌だった。自分の中に生じる明らかな拒絶反応に、幸せなランチタイムは地獄になろうとしていた。

子供の頃、よその家のご飯が、よそのお母さんが作った料理が味付けとかそいうものとは別のメンタルの部分で無理だったというのは誰しも経験したことではないだろうか。ちょっとばかりインターネットで調べれば同じような経験をした人の話とそれに対する専門家のもっともらしい理由付け、解説がたくさん出てくるのでここでは割愛するが、あの時上司に弁当をもらって妙に嫌な感じがした事も、もしや子供のときに感じていたよそのお母さんメシへの苦手意識と同じ類いの感情が復古したものなのかと考えていた。

しかしすぐにそれとは違うと思った。当時20歳も半ばとなっており、そこに至るまでには人並みに散々よそのご家庭でご飯をご馳走になる機会もあり、その時はといえば何の苦もなくよその家のご飯など余裕で受け付けたものであったわけである。

ではなぜこの手作り弁当を前にしてこうも真剣に拒絶反応を示しているのかという話である。ちょっと嫌とか気が進まないといった生ぬるいものではなく、全く食べる気が、蓋を開ける気すらしないという。時間はお昼前、腹は減っていたが中を見るまでもなく俺はこれを食えないだろうなと悟っていたものである。

悩んだ挙句、食べずに返すという選択肢もなくためらいつつも弁当箱を空けたら、案の定中には美味しそうなおかずが入っていた。だけど全く食う気がしなかった。

 

なぜこんなことになったのか、今回の俺のこの苦しみも分析してみた。たどり着いた結論は「これが俺用に作られていない」ということが引っかかったのではないかということ。

仮にこの弁当に「お前に食べてほしい、とウチの奥さんが作ってきてくれた」という一言があったら俺は全く苦しむことなく食っていたと思う。その一言だけである。

「他人が食べるはずだった弁当」というオーラが発生している弁当。弁当にこの例えはマジでよくないのだが、例えば犬のマーキングのように、この弁当はよその男のナワバリである。それを敏感に感じ取った繊細な俺の食欲を萎えさせたのではないか。

また、この弁当を作った上司の奥さんが、よもや部下であるこの俺が今日の弁当を食べることを全く知らないという事実も何かすっきりしなかった。なんというか「弁当・妻・上司」という約束された三角形の中に、代役として駆り出された俺が上司になりきり、その役割として、演者として入り込めていなかった。三者で織り成すランチというドラマ。もはや「弁当の流れ」に乗り切れていなかったとしかどうにも説明がつかないのである。

「弁当の流れ」

みんな初めて聞く言葉かもしれない。俺も自分で何を言っているのかよくわからない。つまり言いたいのは弁当と俺、その両者の間で何もかもがマッチしていなかったのである。それが多分俺が弁当を全く食う気がしなかった原因なんだと思った。

 そんな理論にたどり着いたところで俺がこれを食べなければならない状況に変わりはなく、心を無にし、精神を統一し、目は白目、口からよだれ、うわごとを言いながら徘徊しつつ完食に至ったものの、案の定午後から俺は吐き気をもよおし気分が悪くなった。 弁当の流れ、それに体も乗り切れていなかった。