人違いでした

オフィスビルの中にあった本社勤務の頃、朝の出勤時に会社のエレベーターに乗り込んだ折、すぐ後から乗り込んできた自分の会社の偉い人に挨拶したつもりが、それが全然違う別の会社のアカの他人で酷く恥ずかしい思いをした事がある。

勘違いするに至った理由、間違えてしまった人と目の前の他人の一番の共通点は他ならぬ「共にハゲていた」であるわけだが、特にその時は背格好、共にメガネであること、なにより頭頂部の毛の具合が大変よく似ていたものだから、割と反射的に、ごまかし様のない大きな声で「こんにちは」と挨拶をしてしまったのだ。

エレベーターの中での人違いは恥ずかしいもので、間違って挨拶した相手は最初は驚いたような顔をしてこちらを(誰だっけ?)という顔で覗き込んできたのだが、すかさず「すいません、間違えました」と言うと、男性は「あ、いいですよ」というにこやかな顔で軽く会釈、、したかと思ったのだが、男性は急に「んんー?」と言った具合に顔をしかめると何かを悟った険しい表情で俺に背を向ける。

不機嫌そうなその背中から聞こえてくる彼の心の声はこうである。

≪こいつ、別のハゲと間違えやがったな!!!≫

おそらくハゲるとこういう事を何度か経験するのかも知れず、気をつけようと肝に銘じた次第である。(頭皮のケアを)

アメリカ人はいつもエキサイトしている

アメリカ人の挨拶でよく使われるのが「I am so excited」という表現である。エキサイトとはいうがここでの意味はワクワクしてるとか、楽しみにしている程度でほぼお決まりのフレーズといってもよい。

例えば新しく職場に入ったスタッフが「皆さんと働けるのを楽しみにしてる」という感じに自己紹介する場面でも使われるし、何かのイベントで司会者がI'm so excited to see などといって「私もワクワクしてます」と場を盛り上げる意味でも使われたりするなど、とにかくアメリカ人の挨拶の冒頭にはexcitedがよく使われるようである。

ただ我々日本人からするとどうだろう、このエキサイトという言葉に抱くイメージはこれらとはちょっと違うものではないだろうか。俺の場合はエキサイトという言葉を聞くとなぜかプロ野球珍プレー好プレーの外国人助っ人同士の乱闘シーンが真っ先に思いついてしまうのである。その次に出てくるのはなぜかしらんけど野坂昭如がパーティの壇上で大島渚を殴った場面である。

「激高」

俺のエキサイト観を表現するに一番シックリ来る表現を探したらば、激高だった。そして激高といえば大の大人がカーッとなって我を忘れて殴りかかる、あのプロ野球珍プレー好プレー大賞の乱闘シーンに他ならない。あとは野坂。

だからなのかも知れないが、アメリカ人が、直訳すると「私は今エキサイトしながらここに立っています」とか「皆さんと一緒に働けることにエキサイトしています」みたいな挨拶をしているのを聞くとそのギャップに対し「てめえこらエキサイトしてんじゃねえよ...落ち着けよ...」とひとり妙にウケてしまうのである。

そんな俺であるが人前の挨拶でエキサイトしたことが一度だけある。渡米して日も浅いころ、インターネットで調べた「アメリカの職場での最初の挨拶」に、それを使うようそそのかされたのが最初で最後のエキサイト。エキサイト翻訳とは言ったものである。

「アイム、ソーエキサイテッド。」

あれはまったくエキサイトしていない、極めて冴えない表情であった。どこにエキサイトの要素があったのか甚だ不明だがとにかく「俺はエキサイトしている」と皆さんの前で宣言し、緊張した顔でボソボソと自己紹介をするとウェルカムと拍手を受けてはにかみながら席に着いて以来、二度と俺がこの国でエキサイトすることはない。

子供の頃のチーム分けが残酷な方法だった

のび太が絶対に向いていないはずの草野球をいつまでも続けているのも、絶対に遊び相手として合っていないはずのジャイアンスネ夫と遊び続けるのも、結局はその遊びしかないし、遊び相手の選択肢が限られていたからだと思われる。俺の子供の頃よりもっと前、子供の遊びが今よりもっと限られていて、価値観であったり、世界といったものが今よりもっと狭く小さかった頃、いつも遊ぶ公園や友達関係の中に色んな不条理があってもそれを与えられた宿命として、逃げることも考えず受け入れていた沢山ののび太がいたはずである。

 

地方や世代によって呼び名も様々かもしれないが、俺の地域ではそれを「とりげん」と呼んでいた。「とり」は「取る」から、「げん」は「じゃんけん」の「けん」が変化したもの。これが使われるのは草野球や草サッカー、ドッヂボールといったチームスポーツを行う際にチーム分けを行う場合。集まった大人数を首尾よく2つのチームに分けて遊ぶ必要がある場合に、子供の中で権力のある子2名が勝手に始めるドラフト会議なのであった。

2名の選ぶ者とその他大勢の選ばれる者たち。そこに何ら話し合いは無く運動神経やガダいのデカいところに神は現れ王権を授けるとされた発育式王権神授説に基づき決まるのである。

そこから先は俺とお前で世界を分けようの世界。2人の子供がじゃんけんを始め、あとの大勢はぼんやりその様を眺めるのみ。「こいつもらう」だの「お前来い」と選んでゆく様は世界地図を眺めながら「ここはウチの領土」と勝手に線を引いていった18世紀の帝国主義国そのものであった。

自分が奴隷のように買われる順番を気にしながら黙って待つ残酷なシステムは、その実これは子供を迅速に2つのグループに分けるのには実に効率的で且つ能力の偏りを作らない優れたシステムでもあった。選ばれる順番がつまりドラフトの指名順。選ぶ人間が子供となるとそのチョイスや決断は実にシビア。気を遣うとか気まずさいう配慮、躊躇によるタイムロスもなし、いくら仲が良かろうとヒットを打てないやつは選ばれず、いつも一緒に下校していようが足が遅いと後回しにされる。

たかだが草野球程度の場であろうと、能力の優劣がこの世には存在するのだということを子供たちはこのシステムで早々に理解させられ俺たちは平等じゃない、みんなちがってみんないい、などというノンキなポエムを吟じているとこいつらに全て奪われてしまう力の世界。なかなか呼ばれない自分の名前を待ちながら

「僕は絵などをがんばろう(棒読み)」

そう心の中で強く決意した少年もいたという。その少年、今はインターネットで10年以上にもわたりブログをがんばっているそうです。今、幸せなのでしょうか。とりあえず関係ないので話を進めましょう。

このシステムの残酷性は最後の1人が余った時に発揮される。例えば、集まった子供が偶数できっちり2つに割り切れれば良いのだが常にそうとは限らず集まった人数が奇数であれば必ず1人は最後に余ってしまうという割り算の悲劇。そこで売れ残りを突きつけられるのである。更に売れ残ったという事実を受け入れる間もなく、次に行われるのが、俺の地域の呼び名で失礼すると「いる/いらんじゃんけん」である。

ストレート過ぎてもはや説明不用と思うが、字のまま、余ってしまった1人を「要るか、要らないか」、じゃんけんで勝った方が選択できる制度。ここで注目すべきなのは「勝ったほうが自動的に余った1人をもらって数的有利を作る」のではなく「いらない」の選択肢も与えられているという点。

さすがの子供も勝てば数的有利を考え大概は「いる」と言うがたまに「いらない」と言ってしまうケースもあり、それでそのまま「プレイボール!」とか言われてももはや公園の敷地内にカウンセラー常駐で草野球させてほしいレベル。

余ってしまった事実に加え、目の前で自分が「いるかいらないか」をジャンケンされた上、勝ったやつが「いらない」と。要するに「居ると戦力が落ちる」と判断されたということ。なんて非情なんだ。俺もかつて「いらない」宣告されたことがあるキッズなのだがおいおまえら!俺の将来を考えて思い直せ!と子供ながらに思ったものである。

すごいのはそんな屈辱を受けても俺たちはイジけて家に帰ることもなく言われたままチーム分けに従い、そのまま何食わぬ顔で遊び始めていたこと。あれはなんだったのか。一応はそういうことがありますよという不文律を理解し、誰一人として気を悪くすることなく、毎日同じように自然と集まって来ていたってことは、あの頃は何となく頭の中で力関係のピラミッドのどこに自分がいるかということを分かっていたのか、または遊びのバリエーションも少なかったあの当時、ここに居ないと居場所がないということを理解していたのだろうか。

ジャイアンスネ夫が年に一回、映画のときだけみせる友情がそれまでにのび太に浴びせて来た罵声や暴力の償いになるのか俺には分からないが、のび太はそれだけで彼らと野球をやる理由になっていたのだろうか。

ピザって10回言ってみ

我々大人同士ではだいぶ前にすっかり陳腐化したネタであっても子供相手には通用するものが多い。定番のなぞなぞ、手品、大昔に流行ったギャグの類がそれにあたる。

こいつらは人生の初心者だからと、周りの大人からは一切相手にされなくなったそれらのネタを自分の子供相手に披露し日夜喝采を浴びる悲しい大人が俺である。

「ピザって10回いってみ」

「ピザピザピザピザ...」一生懸命ピザを10回きちんと連呼した長男は、案の定ヒジをさして「ここは」と問う俺に無残にも「膝」と答えて悔しがり、ようこそ人生へとたった今大人になる儀式を終えた息子を中心に一家は暖かい笑いに包まれつつも、それをみながらもうお前にこのネタを使えるのも最後かと寂しさも覚えた次第である。

その数日後の朝のことであるが、前日に発熱した次男が夜中に何度もうなされていたのはその声で何度も起こされた自分も認識していたが、妻はその内容までハッキリと覚えていたらしく俺にその話をしてくれた。

曰く、3歳の次男はうなされ、物凄く苦しそうな表情で「ここはどこ...」「ここはどこォォォ...」としきりに叫ぶのでよほど苦しんで、怖い夢でもみたのかと思い安心させようと「おうちよ、おうちだよ」と声をかけたところ、「ピザピザピザ...」と言って寝たという。

あまりツッコミはしないタイプであるが二人して朝から「そっちかよ」と声をそろえ、また兄が引っかかった古典的な引っ掛けクイズを自分もやりたかったと遠くから見ていた弟の秘めた思いを知り、その夜さっそくこの3歳児にもピザを6、7回言わせ「ここは?」と聞くと「ピザ」と答えたがとりあえずなんかニコニコしていたのでそれでよしとした。

洗濯機よ止まるな

「これから○○しようとする人が自殺なんてするだろうか」

自殺と断定されかけた事件が他殺への疑いへ変わるときに用いられるひとつのパターンである。

 

例えば今ベランダで回している洗濯機が止まったら洗濯物を取りだし、そして干して、また乾いたら取り込んで畳むまでの一連を想像すると面倒すぎて死にたくなるときがないだろうか。一人暮らし、単身赴任の時はいつも洗濯機が止まるのを恐れていた。

「これから洗濯物を取り込んで干して乾いたら取り込んで畳もうとする人が自殺なんてするだろうか」

人によってはするんじゃないか。面倒すぎて前回の洗濯物干しを人生の最後にしたいと思う人もいるのではないだろうか。一度回った洗濯機は48時間ぐらい回り続けて、なんなら手違いで二度と止まらないでほしい。止まらないなら仕方ないと思えるし、いつか止まるかもしれないと待ち続ける安心感がある。洗濯物は自分の手元で回り続けており失ったわけではない。所有していないが俺のもの、これは一種のクラウドの洗濯物なのである。クラウドのことはよくわかってませんが、とにかくクラウドである。

全自動洗濯機の誕生により、洗濯機を回すまでの作業は楽チンになったがそれ以降、回してから後の作業が相対的に以前にも増してメンドくなったような気がしてならない。便利さが新たな面倒くささを生んだのではないか。AIが人の仕事を奪ったとしても俺たちは多分何かに疲れ続けるのではないか。人の怠けたい気持ちに技術が追いつく気がしない。

洗濯機よ止まるな。