川に落ちた自転車が川に受け入れられてやがて島になるまで

姓が近藤だからと「コンドーム」になぞらえ、最初はその人のことを近藤ムーと呼んだ。元々は男高校生が考えた何のひねりもなく、下ネタともいえない微妙なノリが生んだあだ名であった。

所属していたバスケット部は男女混合で一つのバスケット部であったが、その一つ下の学年にいた近藤さんという女子部員はある日を境に男子部員の間でだけ密かにその略称である「ムー」と呼ばれるようになっていた。

近藤さんが巨乳であったことと、性格がおっとりしていてなんとなく親しみやすかったのは間違いなく、だからと言ってそのようなあだ名をつける理由にはならないのだが、田舎の、精神が未熟な上、リビドーのハンパない男子高校生が遠巻きに眺める気になる女子生徒に対する態度としては、このように安直な下ネタのあだ名をつけてケタケタと笑っていることは褒められたものではないがごくごくありふれたものではないかと思う。

男子の間だけの秘密結社だったはずでも、裏切り者は必ず出るものでムーというあだ名が女子部員の間にも伝播するまで時間はかからず、その由来も曖昧なまま、また彼女の本名とは全く関係なかったが響きがかわいいからという理由で近藤さんは次第に部活の枠を超え、あらゆる人から「ムー」と呼ばれるようになっていた。

女子チームの監督までもが近藤さんのことを「ムー」と呼び始めたときにはもはやそれを止める術はなくなり、またそれがコンドームに由来することなど到底持ち出せるはずもなく、ムーはすっかり本人のキャラクターを現す記号となっていた。

 

高校を卒業して7、8年後だっただろうか、ムーは同じ高校の1コ上の先輩と結婚した。それは俺の友達でもあったのでそこに新郎側の友人として出席してみると、数年ぶりに会うムーはその結婚式でもなおムーと呼ばれていた。

「ムー、おめでとう」

友人からのメッセージでも呼び名はムーであった。いいのか、とご両親の顔を見たが娘の名前とは全く結びつかないあだ名のことに気が回ろうはずもなく、感慨深そうにそれを眺めていた。

目の前のムーはムーとして高校を卒業し、ムーとして大学に行き、社会人ムーとなり、今ムーのまま結婚しようとしている。なぜ彼女がムーと呼ばれているのか、そこでは誰も気にしていなかった。

 

shirouto-kenkyu.com

 

 

川に落ちた自転車が川の一部になるまでの観察記録を記事にしたことがある。これは最初のきっかけは簡単に忘れられ、時間と共に異物が許容されるていく過程の一つの例であって、世の中にはこういう話があちこちにあるのだと思う。