スラムダンクを読み中学のバスケ部を思い出す

スラムダンクを全巻借りてきたのをきっかけに中学のバスケ部だった頃の事を色々と思い出していた。バスケットを始めたての小学から中学生の頃によく読んでいたからである。改めて読むとスラムダンクは万人受けと玄人受けのバランスを攻めた素晴らしい漫画で今も広く愛される理由もわかるというものである。

スポーツ経験でいうと最初は野球。兄弟で近所の少年野球に入っていたがプロパンガスの配達をしているおじさんが監督で、後に中学生が入店するとやたら万引きを警戒して近づいてくるヤツだと分かった小さな街のスポーツショップ経営者が当時のコーチで、あとは時々やってくる普段何をしているかわかんないけどいつもブチ切れて高いフライを打つオッサン、チームはこれらの者による意味の分からないシゴキめいた練習が多く、また若干治安の悪い地域の性格の悪い少年が多かったことから比較的City方面から来たお行儀のよい俺たち兄弟にやたらちょっかいを出してきたことなどもあり、まず兄が嫌になって辞めるとともに俺もやめ、そして申し訳ないが今でも野球というスポーツがいまだにあまり好きではないのは父親がプロ野球の放送を見て大嫌いな巨人が負けるたびに子供に当たり散らしたりなどととセットで自分自身の野球経験に根付いているのだろうと思う。

兄の影響を受けやすい少年だったので兄がスラムダンクとバスケ部に入っていた従兄弟に影響を受けバスケットを始めると俺もそれに続き小学5年生あたりから一人でひたすらバスケットの練習をしていた。当時日曜の朝10時ぐらいからNBA情報を放送するテレビ番組がありそれで更にバスケットというスポーツの魅力に取りつかれると「俺はプロになる」と日本にプロは無かったがそういう気持ちにもなり中学入学前までにひたすら家の前でシュート練習を黙々と繰り返し、中学入学後は周りが小学校でミニバスケット経験者だった中でも割と俺の方が上手かったりして多分調子にのって小ばかにしているように見えたのかハヤト君というめちゃくちゃ下手クソだけどもボスキャラみたいな性格の悪い少年に嫌われてしまい、よくあるあいつと口をきくな状態になると孤独に部活と家でバスケットを練習するストイックな少年と化してしまった。

そんなわけでこの頃は友達がいなくなってしまったので土日は部活がない日も一人で大好きなバスケットをする為にバスケットリングのある場所を求めて自転車で1時間とか、時には知らない美容室の駐車場に「西海岸!」的なオシャレ目的で設置されたリングに向かって勝手にシュート練習を始めてこらこらこれはオシャレ目的だからダメだよなど注意されたり、市民体育館が僅か50円払えばフロアを利用できると聞いてはその半面を一人で借り切って、雨でコートが使えないからと元々全面使って練習していた20人ほどの隣の中学校の女子テニス部をどかせて、一人のシュート練習の為だけに半面を20人ぐらいで使う羽目になった女子たちから冷たい視線を浴びながら淡々とシュート練習を繰り返したりもしたものである。とにかく中学生の頃は自業自得でグレた三井なんかより何倍もバスケットがしたくてたまらなかったのです。

俺をハブるよう指示していたバスケはめちゃくちゃ下手クソだけどやたらグループを仕切っていたハヤト君が2年の春に佐世保の中学校に転校し、同じタイミングでその夏3年生が中体連で敗退すると俺は練習態度が真面目だったこともあり副キャプテンになりスタメンとして試合に出るようになっていた。しかしながら、井出という教師がその同じ年に顧問になると彼とソリが合わなかったというか、小柄なのに無駄にバネがあって鼻がイチゴのようにブツブツであるばかりか、バスケは素人のくせに自分がちっちゃいが為に子供に対して妙に高圧的なことなど、とにかくこの男の全てが嫌いだった俺はそれが顔に出ちゃったのか、お前の事が嫌いだよという俺の言霊は井出がしっかりと受けとめスタメンどころか副キャプテンまではく奪という当時の中学生にとっての童貞以外の全てを奪われ、ベンチでいじけて井出を含むこの世界の全てをイジる性根の腐ったイジケ中学生と化してしまった。

後に井出がかなり遠い親戚だという事を知ってド・ヤンキーになるところであったが、この井出も早く居なくなれという俺の言霊もしっかりと受け止めてくれたのか3年の春に副顧問に格下げされ、顧問は市内の強豪校から異動でやってきた坂井先生という俺に本当のバスケットを初めて教えてくれた心の支障と出会うことになるのである。

教師で今も先生をつけ続けるのは坂井先生ぐらいである。小学、中学、そしてのちの高校に至るまで、自主連かクソの顧問各位のひどい指導しか経験しなかった俺が人生の中できちんとバスケットを習ったのは恐らく坂井先生がやってきてから引退するまでの僅か3か月ほど。練習はハードであったが具体的で実践的だった。チームは試合に勝てるようになり俺を得点源としてスタメンとして使い続けてくれた。本当に楽しかった。

坂井先生とは中学のバスケ部引退後に2度会ったが、1度目は高校の部活の試合、先生は俺の出た試合の審判として見守ってくれたが高校では補欠で、中学で指導してくれた先生の前でカッコつけたくてうまくやろうと力んで全くダメだった。2回目は大学生の時。正月に帰省した折に地元の歓楽街の中華料理屋で飲んでいたらベロンベロンの坂井先生が店内に入って来たときである。この店に来る前に寄った、平たく言うと景品が全てアダルトビデオのゲームセンターにあるセクシーな女性映像とジャンケンするマシーンでガンガンに勝ちまくって獲得した7本のアダルトビデオを、俺に本当のバスケットを教えてくれたお礼にと先生に渡すとベロンベロンの先生はとても喜んでその中のよさそうなもの4本を快く受け取ってくれた。教師で今も先生とつけ続けるのは坂井先生ぐらいなものですから、俺はアダルトビデオを先生に渡しながら「先生」、「坂井先生」というと「ビデオのときは先生っていうな!」というひょうきんなシャウトをなさい、色んな事があったが「ビデオのとき」というMiyaviな表現をされたこの先生にバスケットを教えてもらえたことを本当にうれしく思った。

坂井先生の指導の集大成である中体連の市の大会の試合前、俺たちは当時副顧問であったただの小さいオジサン、井出に突然呼ばれ体育館横に並ばされた。バスケ素人の井出は副顧問になってから部活内で殆ど発言する機会もなく元々小さかった身長も僅か12㎝になっていた。

井出は神妙な表情でかつての教え子たちを前にこう語りだした。

「お前たちは俺が指導していたときはもっと生き生きしていた。」

イントロ以外のその先は覚えていないがとにかく今や身長が12cmなので目視は出来ず、とにかく間違って井出先生を踏まないようにと部員の皆は気を付けてその場を去り試合に臨んだ。

昨日の夜、スラムダンクを貸してくれた人に誘われて久しぶりにバスケットをやった。バテて何も出来ず突き指をしケツを打撲し満身創痍だったが楽しくて、中学校の時に起きていたそういう出来事たちのことを思い出していた。