ゴルフを始めました

それまでゴルフのことは退屈なジジイのスポーツだという認識しかなく、日曜日の午後3時ごろに放送される退屈なスポーツ、ジャンボ尾崎の襟足、ジャンボ軍団新年会、お互いをプロと呼び合う奇習、プロゴルファー猿、高円寺の銭湯でDr.タイクーンというゴルフ漫画をシャワーを浴びながら読んでいるヤバいやつがいたりとか、俺より年下なのにめちゃくちゃ老けている池田勇太、タイガーウッズの不倫、石川遼君がスピードラーニングをしているラジオCMという程度の浅い知識と偏見しかなかった。

スポーツなのにジジイが幅を利かせ、服がダサいし、打つときにはスイングの挙動に作法めいた細かい注文が多いのもそうだが、皆さんと同じく、仕事のためにゴルフをやるという、本来仕事から自由なはずのスポーツや趣味や娯楽とは相容れない不純な動機がチラつくのが気に食わなかった。俺は絶対にゴルフはやらない、やってなるものかとすら思っていたが先月人生で初めてゴルフに行き、今月もまたゴルフをしてしまった。そして当たり前だがわかったのはゴルフは全く悪くなく、悪いのは俺の性根だという事実。

ゴルフ道具を7、8年前にもらっていたが一切やらなかった。色んな文句をつけてゴルフをやらない理由を述べたものの、アメリカにまで一応持ってきていた俺が、道具があるのにソレをそれまで一度もやらなかった理由はもらったゴルフバッグが「101匹わんちゃん」モデルだったからである。それが恥ずかしかったのが7割である。なんてことはないのである。

ゴルフをやる日の朝、倉庫から出した101匹わんちゃんのゴルフバッグには、これをくれた知人女性からの当時の送り状がついたままだった。心が痛む。くれた人とはずいぶん前に疎遠になってしまった。理由は聞けないが、いろいろと良くしてくれたがある日を境に連絡をくれなくなった。きっと何か悪いことをしたに違いないと胸に手を当てると確かにある時期の自分は明らかに何かに不貞腐れていて会う人会う人に失礼なことをいったかもしれないし、この道具だってせっかくもらったのに「101匹わんちゃんが恥ずかしい」などいい、直接本人に使っていない旨伝えてしまったのを思い出した。まあ怒るだろう。

101匹わんちゃんのゴルフバッグを見るたび心が痛くなる。疎遠になった人は沢山いるがみんな自分の発言などが原因かもしれない。そしてアメリカに来て趣味もなく、友達もおらず、ひたすら仕事と家族とすごす日々を繰り返したが、あんなに敬遠したゴルフを、知人を怒らせてしまったかもしれないゴルフを、息子の学校つながりで知り合ったお父さん連中に誘われるとあっけなく行くようになってしまった。101匹わんちゃんのバッグを担いで行くようになってしまったのである。

最初のスコアは169。最初にしては上出来ですよ、やればやるだけ伸びますよと、ドライバーを握り不器用に持ち手を変えてちょこまかと素振りを躊躇する自分の後姿を収めた動画を見るとゴリラが背中を丸めしきりにチンコをイジっているようにしか見えず、この道具を貰った人にはきちんと御礼も言えず今になってノコノコと世間に歩み寄る自分がただただ情けなくなっただけであった。

出来立てほやほやが苦手な人もいるんじゃないかな

鮮度というものが幅を利かせているのが気に食わない。鮮度が良いことを皆崇めすぎである。鮮度がよい、出来立てを皆が欲しており、有難がっていると思ったら大間違いである。

人々が揚げ物のことを褒めるときに出てくる「外はサックリ、中はモッチモチ」という揚げ立てを賛美する代表的な表現だが、あれを本当に全員が欲しているとは到底思えない。俺が揚げ物に求めるのは衣(ころも)と具の一体感、いわゆる「衣具一体」の状態である。そしてそれを成しえるのは作ってから一晩経った揚げ物に他ならず、あのしっとりした状態から更にレンジでチンして温めた状態こそが俺の一番好きな揚げ物の状態。

同じようなことは炊きたてのご飯にもいえる。炊きたてのご飯が一番おいしいとされる風潮。本当にそうだろうか。皆さんどう思っているのだろうか。俺には熱くて味がわからない。猫舌とかそういう話をしたいのではなく熱さが邪魔して味がわからんと、湯気が邪魔して米が見えんとそういう話をしてんのである。

炊きたてご飯問題は特にカレーで顕著である。アツアツのご飯にアツのルーを、カレー・ルーをば、なんてやってご覧なさいよ。ライスとカレーがお互いを高めあっちゃってさ、足の速いやつ同士が一緒に走ったらタイムがいつもより良くなるみたいによ、もはや熱と熱の競演で熱過ぎてもう何食ってんのかわからんし、あと湯気で邪魔して米が見えんと、そういう話をしてんのである。これは別に俺の趣味だから強制はしないけど、カレーについていえば冷や飯を軽く温めた状態(甘あたため状態)に熱いカレーをかけるのが最も良いと思います。長崎皿うどんと考え方は同じです。

ついでにいうと、じゃあ鮮度の良いイカの刺身もそんなに美味しいですかと。イカの刺身は冷蔵庫に入れて二日目の朝が最も美味しくないですか~?と。つまりイカは誕生日ケーキなんですよ。何をいいたいかというと、ご承知のとおりケーキなんて余ったやつを冷蔵庫に入れて二日目の朝に食べるのが一番美味いでしょうが。出来立てのケーキって何か味がきちんとまとまってなくて、何というか新学期のクラスみたいなよそよそしさがあるんですよ。だから、イカは誕生日ケーキ。ふーん、イカが誕生日ケーキかぁ。そしてケーキが新学期のクラス...?俺は何を言っているんだ。ちょっと今日疲れているので俺の話は無視してください...。

 

盲腸になるのがとにかく怖かった

中学時代がピークだったと思うが、虫垂炎、いわゆる「盲腸」になることを異様に恐れていた時期があった。

いつ痛くなるか分からない不安、そして痛くなるや即手術という恐怖もその理由ではあったが、最大の理由は女性看護師に、大人の女性に自分のチンコを見られる、コレに尽きる。

子供のころは頼まれもしないのにジャンジャン人前で出していたチンコであるが小学6年~中学2年、第二次性徴期も黄金時代へ突入となるとそれまでのきらびやかな陰部の露出ショーも成りを潜め、陰毛、いわゆるチン毛がワサワサと繁茂してくればいよいよそれは何としても隠し通さねばならない秘所になっていくのであった。

中学1年、早々に生えそろった俺のチン毛を見て「こんなに生えているのは俺だけかもしれない」「俺は特別早いのかもしれない」「チン毛が直毛なのは何か天災の予兆かもしれない」というピュアなカラダの悩みは徐々に増幅し、終いには「俺の二次性徴、九州でも上位100人に入ってるかもしんない」という割とリアルなランキングで自らを計る始末である。

話を盲腸に戻せば、繊細にして粗雑、思春期ならではのフクザツな悩みを抱えた男子にとってその象徴であるチンコの正体をよりによって酸いも甘いも、酒も男も白いコナも黒い武器も、何でも知り尽くしたやんごとない大人のオンナに見破られるというその恐怖がいかほどであったか。

見えざる敵に震えた少年たちの恐怖心を殊更に煽っていたものもあった。ファッション雑誌である。あの当時2歳年上の兄の影響で読み始めたファッション雑誌の白黒ページには、同年代のティーン読者から寄せられた「俺たちの青春エピソード」的なものが沢山掲載されていた。

忘れもしない「俺たちの病院エッチ体験」と銘打たれた、ほぼ「だったらいいのになぁ」で埋め尽くされた妄想ストーリー満載のコーナーにもやはり盲腸エピソードがあった。少年はそれに引き込まれ、そして盲腸の恐怖はそこで完全なものになったのである。

そこで見たストーリーは2つに大別され、一つ目がチンコを笑われる話、もう一つが不覚にも射精してしまう話である。色んな雑誌でも似たような話をみたが、ほとんどがこれに集約される。確か以下の感じだったように思う。

 

≪エピソード1≫

麻酔の効きが悪く、手術前に朦朧としながらもうっかり目を覚ましてしまったボク。
そこで聞いてしまったのは若い女性看護師さんたちの会話!

「あの子のチンチンみたぁ?」「みたみた!」「かわいいワネ、ウフ!」

2週間後、お年玉をはたいたボクは包茎手術の手術台にいた...!(チャンチャン)


≪エピソード2≫

おばちゃん看護師にチン毛を剃られることになってしまったボク。おばちゃんなら安心だと思ったけど、そのおばちゃん看護婦ときたらミョーにチンコの扱いがイヤらしい!
不覚にもボッキしてしまったグソクをなおも縦横無尽に動かしまわすおばちゃん看護婦!や、やめ...!(チャンチャン)

 

ディティールを突っ込めば色々とおかしな部分はあるが、あの当時これを見て真剣に悩んだのは間違いなく、そしてそんな少年をもてあそぶかのように「盲腸手術を我慢しすぎた結果、盲腸が破裂して死んだ少年」なんていう残酷なストーリーでもってアノ恐ろしい盲腸という名の戦場へ駆り立てるワケである。大人ってのはなんてヒドイのか。

「貝を食べると盲腸になりやすい」という情報を聞いては、食卓にでた貝の味噌汁を黙殺して親にキレられ、「疲れると盲腸になりやすい」と聞いた夜だけ「寝るわ。」と無理やり夜9時に寝た。極端である。

中学3年、同級生が盲腸で手術したと聞けば、戻ってきた彼にソッと寄り添い≪何もいわなくていいぜ...!≫と慰め、自分の父親がなんか知らんけど盲腸を我慢しすぎてよくわからないスゲーヤバい盲腸の上位互換のヤツになったときは「父上、我慢した気持ちはわかるでござる」と頷きながら、救急車を見送った。

転機は大学時代。盲腸になり帰ってきた同級生のもとへ「オ、オペは成功したんか!?」と駆け寄る俺に「今は薬で治る。」とドライに返され、≪へえ...!≫と妙に安心したのを思い出す。長い盲腸の恐怖はそのときようやく去っていったのである。

蛇足ではあるが、その事実を知るちょっと前に当時浦和レッズ小野伸二が盲腸になったというニュースを聞いて「あいつも苦労したな」など神妙な面持ちでねぎらいつつも、小野が経験したのはエピソード1なのか2なのかなど考えながら妙な親近感を勝手に抱いていた身としては、その後、さかのぼって調べたところでは、彼もどうやら薬で盲腸を治したことを知りいささかガッカリしたのを覚えている。

このように、長きにわたって盲腸に対してただならぬ恐怖心を抱いていた俺だが、待てど暮らせどいまだその訪れはなく、本日も盲腸は現役バリバリ、ゼッコーチョーにて、特に何の役にも立たずに今も俺の体内で切られるを待っている。

アメリカのハエの動きは一味違う

アメリカのハエは日本のハエと明らかに動きが違う。種類が違うのかもしれないが調べるのも億劫なのでまだ調べていない。とにかく動きが違うのである。

まず、ハエにありがちな手で払っても同じところに繰り返し何度もせわしなく戻ってくるあの反復飛行がない。次に、飛行速度が圧倒的に遅くのんびりしている。また、手をスリスリするあの動きもしない。我々がハエをハエ足らしめるハエの特徴だと思っていたこれらの動きが皆無である。

つまりアメリカのハエは不規則に飛び、そして動きがノロい。サーセンサーセンと手をスリスリすることもなく、気ままに、自由に生きている。自由の国を体現している。

こんな具合なのではっきりいって日本のハエより叩いて殺しやすいのだが、日本のハエと違ったウザさがないので何となく殺すまでもなく窓から逃がしてあげている。

最近気づいたが、子供のころアメリカの映画か子供向け番組かで見たハエの動きがまさにこんな感じだった。タイトルは忘れたが、主人公がハエになってしまい、家族に追われ叩かれようとして逃げる場面である。そのときのハエの動きがこんな感じで、動きは遅く、フラフラ飛んでいた。それはただ映画的な演出に過ぎなかったのかもしれないが、俺の知っているハエと動きが違っていたのでよく覚えている。

アメリカに来て、子供のころに見ていたアメリカのものの答えあわせをする場面に時々出くわす。「ポンキッキ」が時々アメリカの映像を流していたり、世界丸見えテレビ特捜部で見たアメリカのバラエティ番組、世界仰天ニュースで何となく見ていた再現VTR、ミュージックビデオに出てくるアメリカなど、もちろん昔観た映画でもいい。アメリカの生活情報は、アメリカそのものというべきかもしれないが、世界中に広まっていて、我々の中には知らないアメリカの日常がぼんやり刷り込まれていて、行ったこともないのに色んな年代の懐かしいアメリカの風景がいつの間にか我々の中に存在しているのではないだろうか。

ハエの動きでそれを思い出すヤツはほとんどいないだろうけど。

千葉の農家で過ごした1週間

大学を出て築地の青果部門にある会社に入って間もない頃、千葉の東側、九十九里浜沿いにある旭市というところへ一人で派遣された。名目上は農業研修だが要は農家の作業を手伝う労働者である。市場と関係のあるJAに対し、こうして新人を派遣することで関係を強化しようという狙いもあったのかもしれない。

東京駅から電車で70分、海沿いにあるはずだったがそれを全く感じさせない一面広大な畑が広がる農業エリア。地元農協でこの地域の農業云々について簡単に説明を受けたあと、これから1週間、俺が世話になる農家の人とご対面、山崎さんという50代半ばの恰幅の良い男性である。

挨拶もそこそこにお迎えの車でまずは宿泊する宿まで送ってくれた。山崎さんは語尾がダッペのめちゃくちゃとても気さくな人で、後で聞いた話ではこの辺の農家の部会長を勤めている方だったそうだ。世間話も上手くできない俺に気をつかい色々と街の説明をしてくれた。宿にもうすぐ着きそうになった車中で、明日からよろしくお願いしますといおうとする前に、山崎さんから「夜飲み会があるんだけどくっか」とのお誘い。快諾すると、じゃあ後で迎えにいくからと降ろされたのは街外れにソッとたたずむ家族経営の小さな素泊り宿であった。

こんな場所のこんな宿にいったいどんな宿泊客がと思ったが、駐車場には東京、埼玉ナンバーの営業車、電気工事関係の車が停まっており、この手の素泊り宿の需要を知る。

こっそり見て回ったが、畳張りの六畳程度の部屋が宿内に30ぐらいあっただろうか。みんな入り口など開け放ちテレビの音が漏れている。宿というより寮の雰囲気に似ている。客はどうも男ばかりである。

夕方過ぎ、荷物をほどき着替えなどをした後、部屋でテレビを観ていると携帯電話に電話がかかってきた。山崎さんである。今から車で迎えに来てくれるのだそうだ。

 

山崎さんに連れられ、街の中心部らしき場所にある個人経営の居酒屋に着くとすでに飲み会は始まっていた。案内された座敷のテーブル席には既に4人の男性がいて、必要以上に社会人らしく丁寧な挨拶をして席についたが、彼らはというと揃いもそろってしかめっ面で何かを真剣に 話し合っている。それは飲み会というより会議、場違いではないかと思って見ていた俺を察した山崎さん、

「今日は野球チームの会議なんだ」

なぜそこに俺を呼んだのかと、それから40分ぐらい自分とは全く関係ない野球チームの話し合いに黙って立ち会っていたが、とにかく下位打線の打順でやけに揉めていたのを覚えている。

料理にも酒にも手をつけず傍らで打順の話を聞いていたが、集中力も切れかけた頃にようやく「んじゃ、それでいくべ」という山崎さんの言葉と共に飲み会が始まった。飲み会が始まると同時にその場に突如三人のおばさんが入ってきた。歳はそれぞれ40代、30代、20代後半ぐらいだろうか。

「今日は私たちhappyの三人が皆様の宴会をお手伝いさせていただきます!」

おもむろにシャウトである。名前の通り、エプロンの胸には 「happy」と書かれている。それは地元で「エプロンおばさん」と呼ばれているコンパニオンの一種だという。コンパニオンというのは大規模な宴会でしか呼ばないものだと思っていたので大変衝撃を受け、他のお客さんも見ているようなごくごく普通の居酒屋の座敷でのコンパニオン接待を甘んじて受けた次第。エプロンおばさんは本当にただそこに黙っていてニコニコしているだけで、時々酒を注いだり、注文をとったりと飲み会の手伝いをしてくれる。何なんだこのシステムは、他の客もまったく気にする素振りもなくエプロンおばさんを受け入れている。

飲み始めて程なくして、俺が山崎さんのところに研修で一週間手伝いに来ているという話題になると、他の皆さんもどうやら全員農家らしく、突然「じゃあ、おれんところも来てよ」と山崎さんに言うと、俺が「実は今回は...」と返事する前に山崎さんが「行かせるわ」というので勝手に別の人の所にもいくことになった。これはカリキュラムに載っていないのだが勝手に決定。俺は農奴。何でもありなのだ。

 

翌日、農業研修のスタート。ミニトマトを栽培するビニールハウスの中で余計な葉っぱを切る作業。農協からもらったJAマーク入り蛍光色の帽子をかぶって地下足袋を装着、そういう格好で1日農作業に従事する。周りはまっ平らなのどかな水田地帯。農作業中に聞こえてくるのはBGM代わりのNHKラジオの音以外はひたすら虫の声、あとは遠くから聞こえてくる農機のエンジン音だけである。一人喋り続けるラジオの音が逆にそれ以外の静けさを強調し、作業への集中力を生む。

時間はあっという間に過ぎるのだが。思ったより休憩が多い。8時に朝飯を済ませたが、10時にはおやつの時間、12時から1時間半の昼休みを山崎さんの家でだらだら過ごすと、作業の後には3時のおやつ。5時になると「帰ってよい」といわれる。俺が居るからこうなのかもしれないし、繁忙期はこうもいかないのかもしれない。農作業をしている間はとても楽しかった。いいなと思った。

3日目、初日の飲み会で勝手に決まった別の農家のお宅へ手伝いに行く日。

伊藤さんという、40代のガタイがよく的場浩二に似た地元農業界が期待する若手である。伊藤さんの実家は何代か続くキュウリ農家であり、伊藤さんも跡を継いだ格好。そんな伝統あるキュウリ農家でもやはり余計な葉っぱを切る作業。農業における「余計な葉っぱを切る作業」の比率は結構高いのかもしれない。農家の人々は大抵余計な葉っぱを切っていると言っても過言ではない。作物はミニトマトからキュウリに変われど、余計な葉っぱの見た目は若干変われど、同じくジッと自分を向き合う孤独の作業。余計な葉っぱじゃないヤツを切って伊藤さんに怒られたりもしたが、説明を聞くとそれはおそらく俺が山崎さんのミニトマトでも切っていたっぽいやつである。後で怒られるかもしれない。

作業終了後、伊藤さんと奥さんが焼肉を食わせてくれるというので喜んで同行。伊藤さんは酒に弱いらしく、酔っ払うと途端に饒舌になり、聞いてもないのに奥さんと出会った頃の話をし始める。奥さんへのボディタッチも健在で、40オーバーの伊藤さんだが、これはまだまだ奥さんとシていそうだ。

後で山崎さんに聞いた話だが、伊藤さんは奥さんにプロポーズするとき電車の線路の上に寝て「お前が嫁にきてクレねぇなら俺はこのままうごかねだ!」と言ってゲットしたという。まさにドラマのような所業であるが、そういわれてみれば奥さんはかなりの美人。言うなればいい歳してだだをこねて嫁をゲットしたわけで、後で考えてそんな伊藤さんに少しゾッとした。

でもそんなことができるのは千葉の奥地ならではのこと。東京でそれやると YesかNoか答える前に、お前が嫁に来る前にたくさん人が乗った電車が伊藤さんの体の上にやって来るのだ。


千葉での一週間はあっという間に最終日。最終日の前日、山崎さんが奥さんのいない所で俺にコッソリ「最後だからイイとこ連れていってやっから」と耳打ちをするものだから完全に「ソープだ」と思って行った先がスナックでとてもがっかりした。社会人が「イイとこ」というとソープランドなのだとばかり思っていただけにその落胆たるや相当なもので、最終日の前夜に色んな良い話をしていただろう山崎さんの声が全く耳に入ってこなかった。

一つだけ覚えているのは「おめえ、明大出てこんな仕事してたらダメだよ」という割とリアルなご指摘。それは俺が一番分かっていた。俺も何とかしたいんだが、それは今じゃない。合金旅館に降ろしてもらい、その別れ際「この仕事やめてもこの街にはまた来いよ」という言葉には、ああ、ソープ無くしても、かくも人は感動するのだなあ、と痛感した次第。

千葉を発つ朝、帰り際に山崎さんは「おめぇにやれるのはこれしかねぇ」とクオカードの5000円分をくれた。俺はそれで何を買ったか覚えていない。山崎さんとはその後一度電話をしたきり、いままで一度も会っていないのだが、その後転職した俺は千葉のあの辺りへ行くたびにあの一週間のことを思い出したのであった。