因果応報~トイレの個室に閉じ込められた日~

20代も半ばのころだろうか、新宿のとあるデパートで便意をもよおしトイレに駆け込むと既に先客がいた。

大便所は1つだけ。あいにく上下の階は男子トイレがなく、また俺の他に並ぶ者もいない上、まだ緊急性も低かった事から一旦トイレを出て、個室が空くのを待っていた。一旦外を出たのは中の人にとっては扉のすぐ外で待たれてプレッシャーをかけられるのはあまり気持ちの良い事ではないと思った俺の優しさからだ。あと、臭いからである。

しかしである。5分経ち10分経ち、待てども待てどもトイレから誰も出てこず、実は誰も入っていなかったのか?という疑問も浮かんだため再度トイレへ入ると、やはりそれは勘違いではなかった。個室には入室中を示す赤色のサイン。その上ノックをしてみると扉の向こうからノックが返ってきた。

ここまで10分も待っているのだからそろそろ終わりも近かろうと今度はトイレの中で、個室の目の前で空くのを待つ。待ち始めてから15分。トイレの中からは「ゴソゴソ」と人が動く音はするものの、終わりを告げる肝心の流れる水の音は聞えてこない。

「さすがに長いな」

いよいよ不審に思えて来た。我慢にも限界がある。中の男は一体何をしているのだろうか。諦めてエレベータか階段を使って男子トイレのあるフロアに行っても良かったが、ここまで待たされていることを思うとそれも癪に障るし、俺をここまで待たす不届きものの顔を見たいという気持ちも強かった。

プレッシャーをかけたくないなどと親切心を見せていたのがバカらしい。今度は個室のすぐ外でイライラしながら「コツ、コツ、コツ」と足音で急かすようになっていた。一方、個室の中から聞えてくるのは時々聞える咳の音と、例のゴソゴソという音。

 

あれからなんと30分が経っていた。中の男はなおもゴソゴソと蠢いている。もう一度個室をノックする。最初とは違い音に色んなメッセージを乗せた荒々しく大きなものだ。だが結局最初と同じように、それには「ココン...」と小さなノックの音が応じるだけ。彼は二度目のノックが同じ男からされたものと分かっているのだろうか。

こうなると便意などどうでもよく、もはや中の男が見たいという気持ちだけである。俺はここで30分も待っている。普通の目的でこの中に入っているとは到底思えず、何か良からぬ事をしている可能性も高く、いや現に少なくとも便意をもよおす善良な市民を困らせる所業を行っている訳だし、このままツラを見ずに帰るわけには絶対いかないのだ。

「人を呼ぶしか無い」

相当長い時間ここで待っているのだからしょうがあるまい。俺が入ったときには中の男は既にいた、となると最低30分、ひょっとしたら1時間居るかもしれない。仮に1時間いたとしたら俺がここに来る前に俺のように待たされ、そして諦め他のフロアに行かざるを得なかった無念の男達も居るかもしれない。泣き寝入りはいけない。闘うのだ。
そんな強い思いで一旦トイレを出る。フロアで何度か見かけた制服を着た警備員を探しに出かけるのだ。

と、そのときだった。先ほど自分が居たトイレから、スーッと素早い動きをしながら何ものかが出てゆくのが見えた。

「ああッー!」

思わず声が出た。ついにトイレの中から人が出て行ったのである。その姿、遠くでよく確認出来なかったが、出て行ったのはどこにでもいそうな休日のお父さんという出で立ちの50代ぐらいの男性であった。後ろめたさからか早足でその場を離れて行くその姿。一体何をしていたのか知らないがロクな奴じゃないのは間違いない。

「あの野郎、一言いってやらないと気がすまない」

そう思い追いかけようと思ったがやめた。仮に追いついたときにその男性に一体何を言えば良いのか。トイレの中で彼が何をしていたかが分からず今のところ彼を責めるべき理由がトイレが長かったことだけであるから。

トイレへ入ると、さっきまで開かずの扉と化していた個室はだらし無く半開きになっており、中には誰もいない。この状況から判断すると30分以上俺を待たせた犯人は先ほど小走りで出て行った50代ぐらいの男性なのだろう。ここまでの不審な動きからして、変質者である可能性が非常に高く、念のため中を丹念に調べてみるがとりあえず内部で別段変わった事は何も無い。趣味の多様化も結構なことだが、おかげさまで男子便所にも何が仕掛けられているか分かったものではない。調査の結果何も無い事が分かると安心して事を実行。全くもって物騒な世の中である。

ものの数分で自分の順番を済ませると、なおさら先ほどまでの待ち時間に対する怒りが再燃してくるというもの。それはさておいさあて外へ、と「洗す」レバーを探す。ところがである。本来あるはずのアレがどこにも見当たらない。ボタン式かとも思ったがそれらしきものは見当たらない。まさか!と上空を見上げても、紐も何もあるはずはなく。

そんな折、ついに「このトイレはセンサで自動感知して洗浄します」と書いてあるのを発見した。なあんだそういうことかとそれを感知してくれるらしい「せんさくん」とやらを探す。次はこの「せんさくん」探しであるが、一向に見当たらない。それらしきところに手をかざすも流れる気配がないのである。その間も流されることのない自分のウンコと個室に二人っきりである。気づくと15分ぐらい経っている気がする。

そのときであった。

《コンコン》

それは扉を叩くノックの音。そしてあわてて返す「ココン」という控えめなノック。
そして気づいた。さっきの男の事を。

「そうだったのか」

先ほどトイレから出てこなかったあの男も俺と同じく流し方が分からず、ここで30分以上必死の思いで流す方法を模索していたのだろうか。今ノックをしてきた男、それが先ほど便所の中の不審者を待っていた俺の役割に他ならず、そして中の男が...。このときようやく一連の事件の謎が解けたような気がした。

彼はさっきどうやったか。30分外側の圧力に耐え、そして走って逃げたのである。先人の行いに倣いここは同じようにそうするしかあるまい。ウンコ知新とは言ったものである。

外には人が居る。出ようにも出られない。イライラしているのか「コツコツコツ」と靴の音が聞こえる。嗚呼、全て同じだ。俺と同じだ。宿命の、祇園精舎の靴の音が聞こええる。盛者必衰のテキストの65ページによると、イライラしている貴様も、なあにほんの数分後にはこの便所の中に入り、そして苦しむ宿命... 

そして俺は手塚治虫の「火の鳥~異形編~」に出てくる「八百比丘尼」というストーリーを思い出していた。残虐非情の父を恨み、その復讐のために、ある日難病となった父を治そうとする尼を殺しに行く女が、殺害後、気づくといつのまにかその尼自身となっており、かつて自分がそうしたように、同じく自分殺されるのを待つというものだ。
因果応報、つまりそういうことだ。

30分ほど経っただろうか。いまだセンサは反応しないままだ。気づけばトイレには俺以外の音が無く、おそらく外に人が居ない。奴が俺なら諦めたか警備員を呼びに行っている。確信があった。俺がこの個室に入ったときそこに前の男のウンコは無かったことだけは最後まで謎だが、俺にどうすることができよう。ここにウンコは残したままだがやむを得ない。ダッシュで外へ出て、なりふり構わずエスカレーターを駆け上ればもう俺の知った事ではない。

ソッと、まずは小さく扉を開ける、外をのぞくと案の定誰も居なかった。

「今しかない」

俺は勢いよく外へ出て駆け出す。そしてその瞬間だった。

 

《ジャーーー》

 

何と言う事だろう、個室を出た瞬間、便器から水が流れる音が聞こえて来たのだ。どういう仕組みか分からないが、設置ミスかセンサ不良か、今思えば便座から人がある程度離れないと反応しないというものだったのだろう。しかしもう後戻り出来ない。30分以上便所に立てこもった不審者が俺が何を言おうともはや無駄。外で待っている彼に俺が何を説明できようか。

小走りで駆けて行く俺を見て遠くで誰かが、こちらへ向かってきているような気がしていたが、なりふり構わず俺は逃げた。

今頃あのトイレがまた別の人間を飲み込んでいる筈だ。