てんおぉうどん

昔仕事帰りに立川駅構内の立ち食いそばで肉うどんを食っていると、ものすごい小さい歩幅でヨタヨタとおぼつかない足取りで入って来たおじいさんがこう言った。

「てんおぉうどん...」

食券制のそのお店で食券も買わず、しかも金も出さず、伏し目がちのおじいさんはボソボソと呟くような声で言った。店員は当然のように「え?」と聞き返すがおじいさんはなおも「てんおぉうどん...」と続ける。

「てんおぉうどん」を繰り返すだけで、それ以外に言葉を発しない。しかしコミュニケーション以前にそもそも「てんおぉうどん」なんてものはこの店にも、この世のどこにも存在しないのである。店先に貼ってあった張り紙を見て「てんおぉうどん」を食べたいと思ったがいざ券売機で探すとそれが無い。だから食券も買えず、おじいさんは店員にその旨訴えようと入店してきたのだろうか。

結論から言うと「てんおう」ではなく「てんたま」だ。読み間違えたのだ。繰り返される「てんおぉうどん」、事態に気づいた人から徐々に苦笑するしかない。

店員のおばさんもついに何と間違っているのかに気付き、「それ、てんたまじゃないんですか~」と優しく返すも、おじいさんはなおも伏し目がちに「てんおお...」としつこく続ける。

ザワつく駅構内という状況に加え、会話がカウンター越しということもあり、上手くやりとりが出来ていないのだろうか。おじいさんは耳が悪いのかもしれない。それを遠くからもどかしく見ていた。

「てんおぉうどん...」

何度も繰り返し続けるおじいさん、何だか「てんおぉうどん」の存在を信じて疑わないかのよう。時間は夜8時。帰宅まで晩ご飯が待てないサラリーマン、もしくは一人暮らしの学生などで店内は徐々に混み出していた。

最初は「てんたまの間違いではないですか?」「もう一度確認してもらえますか?」などと店員らしいそれなりに対応していたおばさん達も、混み出した店内の状況にたった一人の訳の分からぬ客にかかりっきりでも居られなくなり、さらにイライラもつのったのか最後には「あのね、てんおううどんは無いの 券売機であるやつ買ってくださいませんか!」と少々強い口調で言った。状況を考えれば無理も無いと思う。

大きい声が良かったのか、はたまたようやくハッキリ指摘してくれたのが良かったのか、おじいさんはそこで初めて自分の間違いに気付いた様子。今まで見せなかった表情で「あ...」と声を漏らした。

そしてまた例のボソボソ呟くような声でこういった。

「てんおぉそば...」