フジモリ君の崇拝シュート

高校の同じ地区にフジモリ君というバスケの上手い他校の上級生がいて、俺は他校のプレイヤーながらフジモリ君のファンであった。フジモリ君は中肉中背の特段恵まれた体格ではなかったが異様な脚力から繰り出されるダイナックなプレイも魅力であったが、なによりその一切の社交性が感じられず寡黙で黙々とバスケだけに打ち込んできたような職人の様な風貌がよかった。

自然とフジモリ君のプレイを真似するようになった俺であったが、一番真似をしたかったのがフジモリ君独特のシュートフォームであった。なにかしらの偶像を崇拝するような、または何かにお供え物をささげるような手の運び。頭上に掲げたボール。両手は完全に顔の前で閉じられており祈りをささげているようにも見えた。

我々が習ってきたシュートの基本、原理原則を一切無視したその例えようのない珍妙なシュートフォーム。そもそもゴールどころか前が見えていないのである。入るかどうかは神頼み。お願い!神様!そしてそれを俺は「崇拝シュート」と呼ぶようになった。それは始め礼拝シュートとも呼ばれ、次第にフジモリ君自体への尊敬も相まって「崇拝」と呼ばれた。まるで神様に祈りをささげるような、到底スポーツのワンプレイとは思えない厳かな挙動なのであった。

フジモリ君の、この崇拝シュートのファンになった試合がある。県大会のベスト4に進んだフジモリ君の高校。ベスト4の中では明らかに格の落ちるチームであるにもかかわらず、日ごろの信心の成果なのでしょうか、霊験あらたかというべきまさに「神がかった」としか言いようのないフジモリ君によるスピリチュアルなワンマンショーが炸裂。強豪校相手に独りで40点近く得点し名勝負を演じたフジモリ君。3ポイントエリアからの例によって「アーメン」とばかりに全く前が見えてないはずの崇拝シュートはことごとく決まり続け「God!」とどよめく会場。強豪校と延長戦までもつれ込む大接戦をやってのけたフジモリ君へのアツいまなざしはその神々しくも異様なシュートフォームの影響もあったに違いない。フジモリ君はいつものように社交性の一切感じられない中にもどうしてもヤバくなった時などにはしぶしぶチームプレイなどを見せるなど、人間・フジモリとしての魅力も垣間見せるなど試合を観ていた俺は「預言者だ」と、すっかりフジモリ君のその挙動の虜になっていたのであった。

その日から俺のフジモリ信仰は始まり、プレイには真っ先に崇拝シュートを取り入れた。やってみてわかったが全く前が見えなかった。「見えない、だがそれがいい

以後全く入らなくなったが越えられない試練は与えないと信じ崇拝シュートを打ち続けた。

結局俺は多分っていうか絶対崇拝シュートのせいなどもあってその後シュートが全然入らなくなり補欠のまま部活を引退、大学ではバスケットから離れ、社会人になって少しだけバスケをやってはみたが結局高校の部活を卒業してからあんなにのめり込んでいたバスケットとはほぼ無縁の生活になってしまった。

30代半ばで突然アメリカに来てしまい5年目の夏、色んなめぐりあわせで突然また毎週バスケットをする生活が訪れている。先日自分のプレイを収めた動画を見る機会があった。走り方は想像の10倍ぐらいオッサンで基本的な体の動きも高校生の時と比べようのないほど酷いものであったが、シュートは、気づかなかったがシュートフォームだけはあの時のまま、いまだに神頼みの崇拝シュートなのであった。
フジモリ君、元気ですか。シュートが入りません。