お盆、伝説の離島ギグ

母方の祖父母は市内の端の方にある港から船で10分ほどの島に住んでいた。玄界灘に浮かぶ人口500人程度の小さな島。盆正月に帰省すれば必ず船に乗り祖父母に会いに行ったものだがアメリカに来てからそれも随分ご無沙汰になってしまった。

祖父は健在、祖母はアメリカに居る間に亡くなってしまった。アメリカに行くときにこういうことも何となく覚悟をしていたので出発前に祖父母に会った時には自分なりに仮のお別れをしたつもりだったが、昨年帰省した際に仏壇に手を合わせたときに何となくホッとしたのを思い出す。

祖父母の住む島へ行く定期船は大きくはなく、この船が高波で揺れるのが子供のころから苦手で、明らかに海が荒れているときはこれから自分のみに起こる10分間の恐怖体験を想像しては憂うつになったものだった。そして思い出すのが船内放送。観光島でもなければ、遠い船旅でもない島民かその関係者しか乗らない小さな定期船なのに、録音された船内アナウンスはご丁寧に日本語のあとに英語で繰り返される。

「レディスエン、ジェンテルマン…」

地元の女性だろうか、プロではなさそう。棒読みで片言、船内の誰も聴いていやしないのに妙に緊張しているのがほほえましい。

「センキュ…」

日本語と英語のアナウンスがようやく終わる頃、船は10分程度の短い航路の半分以上を過ぎており、「間もなく出発します」という旨のアナウンスが終わって30秒後ぐらいにはもう「間もなく到着します」というアナウンスが始まる。実に忙しない。

今は日英二ヶ国語だからいいが、ここに中国語か韓国語が入ってきたら10分では終わりきれないだろう。アナウンスを全うするためにわざわざ島を一周するつもりだろうか。望むところですが。船が港に着くと、別に頼まれたわけでも無いのに船に乗っていた島の若者が勝手に船を岸壁につなぐロープを巻き始める。島の伝統なのだ。船着場では、用も無いのにたむろする不良じいさんが船をぼんやりと迎える。停めてある車にはどれもナンバープレートが無い。

当時社会人になってすぐの頃だっただろうか、いつの盆休みか忘れたが弟と二人で祖父母の家を訪ねていったとき、先ほどまで居たらしい伯父家族は帰ったばかりで、築100年、元保育園だったという広い木造住宅にいたのは祖父母二人だけであった。いつもは大勢の親戚か、少なくとも家族でやってくる祖父母の家にその日は弟と二人だけである。

半年振りに会った二人は前回正月に会ったときより元気に見えた。あの当時、話す機会があると結婚の話になったもので会って1時間、積もる話もそっちのけ、ひたすら「早く結婚しろ」といわれ続けた。この手の話は面倒なので何とか話題を変えようとして、ふと目に入った謎の機械に話題を向けた。「あれは何か」と聞くと、それは先ほど帰ったばかりの伯父からプレゼントされたというカラオケマシーン。娯楽の無い島生活だから二人で歌でも、ということだったようだが、よりによってこのカラオケマシーンにふれたのがまちがいだった。話題を変えることには成功したものの、今度は「お前の歌を聴かせてくれ」とのことである。時間は昼の2時ぐらいだったか、酒も飲まず弟と祖父母を前にしてこの小さな島でカラオケを歌えというのである。

「900曲もはいっとるけん、何でもあるよ」

900曲。薄っぺらい歌本には、ところどころばあちゃんが「歌えます」という目印につけた梅干のような赤丸がつけられている。倖田來未のところにこっそり赤丸つけて騙してやろうかと思ったが、俺はばあちゃんが好きなのでそういうひどいことはやめた。ざっと見て分かったが、900曲中700曲程度は中高年向けの曲だ。となると残りの200曲から探さねばならないのだが、あらゆる世代の曲を無理やり900曲にまとめた歌本なので、入っているのは本当に売れたようなヒット曲だけである。

売れてる曲には背を向ける反逆の田舎者、残念ながらそこまでJ-Popに詳しくない俺はというとこういう最近のヒット曲集だと余計に分からない。サビぐらいは分かる歌はいくつかあるのだが、サビだけではカラオケにならないのがつらいところ。

「早く聞かせて」という二人の声にページをめくるスピードは上がるのだが、一向に俺の歌える歌が出てこない。もうあきらめて何となくサビ以外はハミングで歌えそうな「ズンドコ節」にでもしようかと心が揺らいだその瞬間、目の前に救世主が現れた。全く知らない歌手の山の中で、ようやく目の前に現れた見慣れたアーティスト。その名も誉れな「John Lennon」。かれこれ小六から付き合っている、俺の友達だ。

探しても見つからないはずである。洋楽は全て「海外民謡」のところに収められているのだ。即決だ。歌は「イマジン」、名曲である。だがこの海外辺境の地で突然日本人にあったかのような安堵感、高揚感により、カラオケで歌う「イマジン」がどれほどの危険をはらんでいるかを、その時の俺はすっかり忘れてしまっていた。

イントロが始まると祖父母は「誰の歌かね」と尋ねてきたが、すでに余裕の無い俺がシカトすると「ぱらぱらぱら」と拍手をしてくれた。昼の12時、玄界灘に浮かぶ小島にて、24歳が祖父母の前で歌うイマジン・・・・ 

「イマ~ズン…」

自分の中途半端な英語の発音を聴きながら、さっき馬鹿にしていた船内放送を思い出していた。この島には片言の英語が良く似合う。

俺のイマジンをかき消すように、タイミングよく外では老人の耳にチューニングされた爆音の島内放送が流れ出す。その中で俺は祖父母、そして初めて歌を披露する実の弟の前で一体どういう声で、どのようなノリでこのイマジンを歌っていいのかわからず、それが迷いとなり、恥じらいになり声が全く定まらなかった。このいまいち波に乗れないイライラ感を何とか打開しようと、場当たり的に「ユウメイセイッ!(あなたがたは言うかもしれないっ!)」と突然シャウトするように強めに歌ってみたが、すぐにそれが失敗だと悟ると、何事も無かったかのようにまた元のつぶやくような歌い方に戻した。
それはまるで詩の朗読のようだった。もしくはベテラン歌手が自分のヒット曲をやりたい放題アレンジするかのように、終始イマジンは落ち着かなかった。

弟には「伝説の離島ギグだ!」と大好評だったが、祖父母には「どういう歌ね?」と聞かれ「いや、『想像してごらん』という風な。」と答えるのが精一杯。「ふうん…そう」とすこぶる反応が悪かった。確かに、何を想像すればいいんでしょうね。

その日はたまたま終戦記念日だった。帰りの船で海を眺めながら今日のことを思い出すと、なんだか平和のために活動した気分だった。メッセージは言葉として通じなくてもいい。そこに心があれば。例え片言でも。

「レディスエン、ジェンテルマン…」

故郷では色々あったけど、とにかく故郷は最高なのである。今アメリカから思うのはだたそれだけである。

「センキュ…」

アメリカ人、思ったよりめちゃくちゃ働く

7月から自分の部署の駐在員が一人になり忙しくなってしまった。コロナにも関わらず5月からずっと出社や出張を続けているのは知りうる限り駐在員でも俺ぐらいで狭い日本人コミュニティの皆様からあそこのご主人はコロナ3回ぐらいかかってるのではとドン引きされる中、日本とのやり取りが多い俺の仕事はここ最近の日本の連休や一時帰休で更に難易度が高くなってきた。

今週ミーティングでアメリカ人に日本側が長い連休に入るので頼まれていた仕事が更に遅れていることを告げると3流企業ゆえに社員の育ちの悪い我が社の会議室には普通の会社では出てこないFワードが炸裂し、「ファーック?(7月の連休は終わったのでは)」という反応には丁寧に「ファック…。(今度は8月の連休です…)」と答えながらゴールデンウィークにも同じやり取りをしたことを思い出していた。俺も休みたい。

俺の感じる限り、アメリカ人はおそらく日本人より沢山、最低でも同じ程度に働いている。よく働くというのも抽象的な評価だが仕事に対する姿勢に加えて、物理的にまず年間休日が100日程度と日本より遥かに少ないから。土日以外の休日が稀で、たまにやってくる土日以外の休日に合わせてバケーションを取る人も多いが、それもせいぜい1週間でそれ以外はずっと働いている。バケーションは個々人がとる休みで、全体が一斉に休む日が少ないので会社が止まっている期間ははるかに短く、だからアメリカにいると日本がはるかに休みの多い労働者の天国というよりも、それはほかに国皆さんとの競争に大丈夫かという方に感じる時がある。

日本人とは労働の質が違うから労働日数こそ少ないが日本人の方が働いていると言う人もいるかもしれないがアメリカで働いているとそうは思えず、アメリカ人はいわゆるジョブ・ディスクリプションに忠実なだけで、自分の仕事の範疇というもの、対価に見合うかどうかを見極めて余計な事をしないだけではないかと思う。日本人の駐在員がよく部下のアメリカ人の作ったレポート、資料の雑さを揶揄するのを見るが、社内に出すレポート程度に日本人のような体裁の整った芸術的な資料が必要と思っていないだけかもしれない。

時々必要以上に分業化された融通の利かなさに辟易するが自分の仕事はきちんとするし責任は明確でわかりやすい。与えられた仕事だけは小まめに熱心に、レベルはともかくプロフェッショナルという強い意識で責任をもってそれぞれきちんとやっているのであるから。ちなみにアメリカ人の肩書によく〇〇Professionalというのが多い。能力がそれに見合うかどうかは別としてとりあえず役職がない場合とりあえず全員が〇〇Professionalを名乗っている会社も多い。その実それらの俺よりはるかに給料のお高いProfessionalの皆さんに何の肩書もない普通の文系のオッサンの俺が色々と教える場面がめちゃくちゃ多いのだがそれは俺をProfessional扱いにしてくれない日本の方がおかしいとしか言いようがない。

そして、先ほどのミーティングである。

「ちなみに9月にもまた長い連休が…」

8月のお盆で頭を抱えるアメリカ人に日本には9月に更にもう一発大型連休があることを伝えるのはなかなか言い出しにくいことではあったが、3流企業ゆえにダイエットコーラを飲みながら元気よくゲップをしながら話を聞いていた我が社の社員たちもこれにはおいおい9月もですかと更にFワード、ヘイヘイ日本さん待ってくださいよという雰囲気の中、別の誰かの「なお、イタリアの拠点はもうすぐ1か月の休みに入るらしい」という話が横から入ってきて会議室には「もしかして俺たちが働きすぎなのか」とも感じられるため息、なぜ世界のみなさんはそんなに休むんですかという雰囲気に包まれていた。

英会話学校でシリアルの発音だけに15分も費やされ憤慨

アメリカ赴任が決まり、アメリカに来る前のわずか2か月間だけマンツーマンの英会話学校に会社のお金で通うことになった。偉そうに言うわけではないが俺の英会話の勉強はそれだけである。その割には頑張っているねとそろそろ誰かに言われないと気が済まないほど今現地では英語をバリバリ使わされている。

して、そのとき通った英会話スクールであるが、45分の授業50コマしかないので仕方ないとはいえ、通いだすと感じたのはビジネス英語の初級がメインで自己紹介や仕事に関する世間話の類が多く、ひたすらに仕事のことばかりなのである。こちらの目下の不安は入国とかホテルのチェックインとかその日の飯のこと、想像の中のアメリカの俺はまだ仕事までたどり着くに至っておらず、大体俺は出張でアメリカに行くわけではないし仕事のことだけ教えられても不安がある、我が社は面倒見が極めて悪く、自分のことは全部自分でやり、現地へ到着したその日からいきなり自力で生活をしなければならないからと、授業50コマ中の25コマが修了した中間レビューの際に英会話学校側にはある程度生活のセットアップを考慮した仕事以外のバリエーションも欲しい旨伝えたりしたものであった。

それを汲んだ形なのか、その翌週担当した先生はアメリカ出身。ファーストフード店でのオーダーの仕方を急にレクチャーしてくれて、日本でいうセットは「ミール」と言いましょうとか、あなたの行くミシガンでは炭酸は「ポップス」といいますよとか割と実用的な知識も交え、ああこれはいいですなあと思いつつ幾つかオーダーの仕方を豆知識の解説とともにトライしていく中でどうもその先生、俺の「シリアル」の発音が引っ掛かったらしくシリアルの発音だけでなんと20回近くやり直しをさせられ、気づくと俺はシリアルの発音だけに全45分の授業の3分の1にあたる15分ほど費やしていた。

シリアル1000本ノックの最中俺は気が狂いそうになった。もうやめてくれんかと、確かに俺のシリアルの発音はその15分で完璧にはなり先生も満足そうにオー、シリアルシリアルとニコニコはしていたがちょっとまってくれよと、俺はシリアルをオーダーしにアメリカに行くわけではないしシリアルの発音だけ完璧にさせられても不安がある、バーガーは言えてるか、スプライトの発音にも不安がある、なぜシリアルだけなんだと。そもそも俺はシリアルなんて生まれてこの方一度も食べたことはないし今後も食べることはないだろうよ、あのような冷えた食べ物では俺の一日は始まらないのであるから…。貴重な50コマの授業、俺の生活、俺の命に関わるこの英会話の時間の中で、二度と俺にシリアルなんて教えてくれるなとその様に思いつつその日の授業を終えたわけである。

それから3年たつがそんなわけで俺のシリアルの発音は今も完璧である。食べたことはないしまだアメリカで披露したこともないが今も俺のシリアルはかなしいかな完璧。せっかく15分かけたシリアル、そろそろ披露もしたくなってきた。何か理由があって俺が突然シリアルについて言及することがあったら全員驚くだろう。それまでカクカクしていた発音が突然シリアルだけ完璧になるのだから。逆に考えてみてほしい、例えばアメリカ人と話していて「ミソシールー?」「シャブシャーブ?」と言っていたのが突然「しめさば。」とハッキリ言われたら驚くだろう。シリアルがしめさばと近い立ち位置かどうかは疑う余地がありますが多分そういうことではないかと思う。

シリアルはどこで食べられますか、私は早くシリアルについてアメリカの皆さんと意見の交換がしたいです。

今日俺は自分の本当の名前を知った

「聞いてくれ、今日俺は自分の本当の名前を知ったんだ」

このような書き出しで取引先のTimというオッサンからメールが入ったのは月曜日の朝のことだった。Timと会ったことはないが聞くところによると年齢は60を超えた小太りでヒゲが生えた白髪の男性らしい。元わが社の社員だったが数年前に退社し、今は取引先に転職してこうして時々半分仕事、半分雑談のようなメールを送ってくるのである。

転職が当たり前のアメリカでは元社員が取引先にいき、その後も普通にメールを送ってくることは珍しくない。ただしTimはちょっとした変わり者で、送ってくるメールに占める無関係な雑談の量、そしてそれが送られてくる頻度は相当なものであった。元社員ゆえのフレンドリーなやり取りの限度を超えていて、取引先なので一応は相手にする必要があったが若干社内でも呆れられているというか、慣れた人はもはやそういう人としてその雑談パートには誰も触れることなく淡々と対応をするのが慣例となっている、Timとはそういう人物なのであった。

俺はTimと直接やり取りをすることはなかったが彼のメールの配信先は必要以上に多く、毎回無関係な人も含め十数人が彼の雑談が8割を占めるどうでもいいメールを受信するハメになるわけである。その内容はTimの身に起きたちょっとした出来事を延々と綴ったTimの日記のようなものばかり。娘に車を貸したがガソリンを空にして返したが君たちはどう思うか、とか隣の家の芝刈り機が古いのか音がうるさくて我慢ならなかったとか、そうした実にどうでもよい事を大体2、300文字からときにはたっぷり1000文字超えなど、そこには日本人にはよくわからないユーモアが交えてあり、ときには自分でツッコミを入れたりなどのTimのちょっとクスッとするいい話的な軽いメルマガ、ライブ、トークショー状態で本人はさぞかし気持ち良かろうがそれに対応する直接の担当はたまったものではなくどこに仕事に関係する本題があるのか本文を隈なく見なければならず、また一応その話にも付き合ってあげなければならないから大変である。

そんなTimが冒頭のような書き出しでいつものように配信先がやたら多いメールを送って来たとき、いつもは素通りする彼の長文メールを読まずには居られなかった。

「聞いてくれ、今日俺は自分の本当の名前を知ったんだ」

実に気になる書き出しであった。引き込まれる一文である。月曜の朝一、沢山のメールが来ていてどれから処理しようかという状況だったが俺はTimのメールを開き読むことにした。

「聞いてくれ、今日俺は自分の本当の名前を知ったんだ」

「俺は今まで自分の名前を『ファックユー』だと思っていた」

嫌な予感がした。

「なぜなら、妻が毎日俺をそう呼ぶから」

クソ忙しい月曜日の朝一番、思わぬ形でTimのちょっとクスッとするおもしろ話を読まされてしまい非常に腹立たしい気持ちになるとともに二度とこのオッサンから来たメールは読むまいと心にそう誓った。

2年間俺を苦しめたやつが終る

2018年の冬にアメリカに拠点を持つ日系企業からその新しいプロジェクトの話が来たとき、その前年に参画していた別のプロジェクトが順調のうちに終わりを迎えようとしており、またそれら2つのプロジェクトが同じようなもので、今度のほうがボリュームも小さかったことから俺がプロジェクトリーダーのような位置づけでこれを受けることとなった。

「役割分担して進めるようにするけどメインは任せた。全面サポートするから頑張って!」

そういった上司はその後一度もサポートすることなく何か相談などしても先のコメントの大半が割愛された「頑張って!」だけで返すようになったのは想定内だったが、想定外だったのはこのプロジェクトが小さいクセにめちゃくちゃ手がかかる類のものだったことである。

細かい話は割愛するが、通常俺の仕事の場合は製品の「仕様の決定」「見積もり」「承認」「受注」という過程を経るのだが、この新しいプロジェクトは受注に至るまでに非常に時間がかかり、最終ユーザーの都合から見積もりは20回近くやり直し、承認を受けるその直前、仕様の承認には日本側の意向をくまねばならないと直接日本側とやり取りをさせられ一か月間の間毎晩テレビ会議に参加させられる相当タフなものであった。

言いたいのはこのプロジェクトがいかに決まるまでに大変であったかということだがそれはほんの序章に過ぎず、製品完成後、アメリカに納品する前に日本でテストをするという段階になり日本へ出張し始めたころから妙な雰囲気を感じるようになってきた。

この仕事は自分の会社だけでなく、他に数社が関与するそれなりに大きな金額の動くものであったが元々どうも他社の担当者が妙に逃げ腰で何かを決める時にハッキリと言わない、議事録に残そうとしないという不審なムーブを見せていたのが気になっていたのだがその理由も日本でのテストの初日に凡そ分かり、察するに協業する他社の中の一社が恐らく無理して受注を取ろうとしたのか現れた製品スペックは明らかに低スペックであり、案の定日本でのテストは失敗続き、最後はスケジュールの関係もあり無理やり結果を作ったような非常に不安の残るもので終わった。

「なんとかなりそうですね、ね!よかった!」

テストのクロージングミーティングでは半ば自分に言い聞かせるような日本側担当者のそのような掛け声で終了し、その数か月後に彼は異動し音信不通となる中、その製品は、そのプロジェクトは多分6割ぐらいの仕上がりのままアメリカに向けて船で送られることとなった。

「荷物が到着するまでの間何か対策をしなければならない!」

そう言っていた同じプロジェクトを一緒に頑張っていた他社の担当の人はほどなくして駐在期間を終えると帰任をしなければならない!と言い残し居なくなったし、「あとは我々が何とかしなければ…」と言っていた別の会社の人には連絡するたびに「何とかならないものか…」と言うだけの完全なRPGむらびと級のザコのオッサンだということがわかり、結局このプロジェクトをまともにやりきるのはわが社しかいない!という使命感の高まりの中、俺の後任で来たはずの同僚が仕事が出来なすぎて帰任が決定↓という珍プレーなども重なり、アメリカにあの地獄の製品が到着して以降は完全に孤立無援でこのプロジェクトを取り仕切ることとなってしまった。

アメリカに到着してから半年、予定通りこのプロジェクトは現地入りしてか揉めに揉め、エンドユーザーとの打ち合わせや諸々の変更指示、トラブルシューティングを一人でこなすうち、関係者はフェードアウトしたり、帰任したり、更にコロナの影響で誰も姿を現わさなくなるなどを通じ、いつの間にかこの2年間に及ぶプロジェクトの最初から現在までを知る人物は数社をまたいで俺一人だけとなっていた。それはある意味責任をすべて被るということでもあるのだがそこにはポジティブな面もあり、つまりいつの間にか俺だけがこのプロジェクトのすべてを知る唯一の人間、創造主、全知全能の神。過去の経緯、背景、情報は俺がすべて持っているのである。

度重なる変更、打ち合わせ、大量の議事録、その全てが頭に入っているのは俺だけなので俺がミスをしたとしてもともみ消せるし、いなくなったアイツ、フェードアウトしたあの卑怯者になすりつけることもできる。

「7‐10‐2019作成の議事録の〇〇ページにこうありました」

厳粛な面持ちで議事録の内容を吟じるその姿は聖書を抱えた聖職者のよう。ゆっくりとした口調で曰く、

「ずばり、帰任した〇〇さんの責任でしょう」

議事録は聖書、俺は預言者なのである。そして救いの手を差し伸べ俺は感謝される。

「私が助けてあげましょう」

このプロジェクトは現在も進行中であるがもうじきゴールが見えそうである。3月末のコロナ、4月の自宅待機令、5月、6月にビザ更新面接をキャンセルされ、7月はビザ失効のピンチにも耐えつつ逃げずに続けてきたこのプロジェクトがもうじき終る。