日本人が慣れ親しんでいるローマ字読みがアメリカで上手く通じないケースは多く、例えば最後が「Ta=タ」で終わる単語は「ダ」としか発音出来ずTOYOTAがトヨダと呼ばれているのは有名な話で、「Kyo=キョ」もそのまま読んでくれる人はほぼおらず京都はキヨト。こうした例は枚挙にいとまがなく、彼らアメリカ人が幼少のころから「知識」としてきちんと習う英語の音と文字のルール(規則性)により身に着けたものが影響しているため見慣れているかどうかではなくあくまで教育によるものである。
こうしたことを背景に日本人の名前はアメリカ人には発音しにくいから、覚えにくいから、馴染めないから、などの理由で日本人駐在員に現地名、つまりNick、Kevin、Seanといったアメリカ式のニックネームを持たせる会社は多い。これらニックネームはあくまで日本名の音に寄せていく場合が殆どで、例えば純一さんがジョニーになったり西田さんがNickを名乗ったりという具合。なのでケンイチさんがKen、ヨシカズさんがYoshiまたはKazなどのように元々の名前がアメリカ人にも発音しやすく馴染みのあるものであればそれがそのまま使われることも勿論ある。
中には自分の名前と全く無関係なところからニックネームを構築した方々もいて、「Logan」「Ozzy」「Azzy」がそれに該当する。それぞれ老眼だからLogan、おじさんだからOzzy、最後の人はラーメンの味玉が好きだからAzzyであった。デブだからDaveと名乗りだしたデーブ大久保式であるがこれらは極めて稀である。
背景はともかく大体こういうニックネームは日本にいる同僚などに「お前その顔でKevinかよ」といった風にほぼ100%ネタとして迎え入れられ、その後数年間、帰国後もずっとその名で呼ばれ続けることになるので相当の覚悟も必要である。その顔でとはなんだ西洋コンプレックス野郎めなどと思っても悪いのは名乗った自分なので黙って耐えるしかないのである。
ある時、うちの妻がこちらのスタバで自分の名前を唐突に「ティファニー」と何ら本名と無関係の名前を臆することなく名乗ったときには衝撃であったが、純日本人顔の人が英語のファーストネームを名乗る時の妙な芸人、昭和タレント感というのは確かに存在するので後日ネタにされるのは致し方なく覚悟すべきであり、ご利用は計画的にとしか言いようがない。ではその違和感の根源を自分なりに考えてみたときに単純に言えば見た目と名前の不一致なのだが、それに加えて具体的な過去の諸先輩方の影響もあるのではないかと考えられた。
思い出されるのはいささか古いが昭和の大歌手・ペギー葉山、作家、脚本家のジェームス三木、少し最近になるとお笑い芸人のデビット伊藤といったその出生において西洋とは縁もゆかりもない方々。(どうでもいいがジェームス三木は満州生まれらしい)子供の頃に彼らをテレビで見て何か分からんけど変だなと思った素直な気持ちは今もこの胸に残っているのだが、それらを押しのけて自分の深層心理に一番影響を与えているものは間違いなく16世紀に天正遣欧少年使節としてローマに渡った千々石ミゲルであろうかと思う。歴史の教科書に出てくる千々石ミゲルときたら顔はサムライ、体はローマといったまるで人魚のようなたたずまいには思春期の頃に大変衝撃を受けたものである。カモノハシを世界で最初に観た人の驚きと近かったかもしれない。
「世界に通じる名前を!」という願いを込めてつけられた旧呼称・キラキラネームも時と共に今では大分一般的になったもので今ではあまりそのように揶揄されることもなくなってきたように思う。とはいえ、輝きのより強いものほど大半はその目的を果たせず地元をまばゆく照らすのみで終わることが多い中、彼らの中から実際に海外に出た者たちが、先人たちが苦肉の策で名乗ってきたニックネームに頼ることなく、ありのままの本名で呼ばれているのを見ると「正解」を見せつけられたような気がしてかなりうらやましい。
アメリカ人には決して発音出来ない名前を持つ俺はまた明日から偽物の名前でこの国で生き続けるしかないのであるから。